International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『沖縄の風水史・6』 渡邊欣雄


■写真8 

ヤブ村の道路

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これは屋部村に入ったところの写真です。碁盤の目になっているのですが、見通しが利かないところをみると、意図的に曲げているのがよくわかります。直線だったら向こうの方が見えてしまう。ちゃんと見えないように道路を曲げています。この辺りがおもしろいところです。

■写真9 

赤屋根の家 手前に屏風

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今、赤い瓦の家が少なくなっているのですが、沖縄の特徴として、私たちはこのような赤屋根の家を認識しています。赤瓦が農家に広がったのは戦後です。ほとんどの農家は茅葺屋根でしたが、このような赤瓦の屋根が作られるようになり、また屋根にはシーサーという屋根獅子を置くまでになりました。そして家の手前にヒンプン(屏風)というのがあります。これも風水上で飾られた物です。沖縄の人は忘れてしまっているのですが、シーサーというのは風水の殺気除けです。殺気・邪気除けというのは魔除けではありません。魔除けはお化けや幽霊などの侵入を防ぐために設置されるもの。殺気除けや邪気除けというのは、悪い気を除けるもの。気というのは目に見えません。例えば騒音等も悪い気、原子力発電所から発生するものも悪い気、殺気です。そのようなものを除けるという感覚で、シーサーやヒンプン(屏風)を置いています。このように民家も風水を見て作っています。

アンケート調査によると、「風水を見て家を建てるか建てないか」という質問に対して沖縄では、風水を見て建てたという人が49.1%、見ないで建てたという人は50.9%と、半々の結果となりました。日本本土はどうかというと96%の人が家相は見ずに家を建て、4%の人が家相を見て建てたと言うことで、その違いは歴然です。十倍も違うわけですから、いかに沖縄の人たちが風水について知識を持っているかということがわかります。

■写真10 

石碑「たいざん石敢富」銘

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これは沖縄で一番古い殺気除け、久米島にある泰山石敢当(たいざんいしがんとう)で、1771年の年号が刻まれています。道路の形が悪いとそこに悪い気が発生するので、それを跳ね返すために立てられています。

■写真11 

三越の石碑「石敢富」銘

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今は沖縄の三越にも建っていますが、ほとんど装飾です。悪い気を除けるためという認識が、現在の沖縄にはない。観光地としてのシンボルになっていて、泰山という字が抜けている。この石敢当を一番に建てるべき場所は、T字路です。T字路というのは悪い気が発生しやすい。これは沖縄でも中国でも言い伝えられています。

■写真12 

屋根とシーサー

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屋根の上に乗せたシーサー、獅子ですが、中国にもあります。ただし今の沖縄は作りすぎです。悪い気がある家に対してだけ建てるのが中国、今でもそうです。別に殺気が家に入ってこなければ建てなくてもいいのです。今は、寝そべったりVサインを送ったりしているシーサーがたくさん飾られている。ほとんど観光です。

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■ 『沖縄の風水史・5』 渡邊欣雄


■写真3

四方を山に囲まれ曲がった道路が縦2本、全面に弧を描く平たい山の手描きの絵

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 沖縄の風水書に描かれた絵で、どのように村を作ったらいいかという一種のプランです。ここに出てくる青龍山、白虎山、祖山というように、山の囲みの中に村を作るということです。左=青龍、右=白虎、必ず山があるということが重要です。後ろに玄武という山、そして、祖山という小高い山があれば良く、それを背にして、手前に案山。案=机という意味ですので、机のような形をした山がここにあるべきだというのが、風水の理屈です。

このように風水は、まず環境を作っていかなければいけません。しかし、沖縄は山が少なく、沖縄本島南部や宮古島にはほとんどありません。その場合どうしたかというと、山の代わりに全て松を、琉球松を植林していました。今、松が残っている村はわずかですが、掘り返すと植えた形跡、遺構が残っています。よく海岸の近くにあって、防風林に見立ててしまうのですが、これは風水上、懸命に植林したもので、各村々に残っているわけです。図に眠弓玉帯とありますが、村の道路の作り方は、道路や川を曲げることです。碁盤の目のような村だと言いますが、玉帯と書いてあるようにお腹に閉めるバンドのように、道後が曲っているわけです。また、九曲路は、直線的な道路で村を作らず、意図的に若干道を曲げている形跡があります。このような形が風水上良いのです。当時の茅葺の屋根も描かれています。八重山博物館ほか、いくつかの博物館に残っています。

■写真4 

図1をモデルにした実際の村・沖縄北部

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 小さな沖積平野が沖縄にはたくさんありますから、そこに村を作ります。上空から見ても、大方碁盤の目、規則的な道路になっていることがわかります。左右に青龍の山、白虎の山に見立ててあろうものです。また、手前の砂浜に松が生えているのではないかと思います。こういうものが18世紀当時から作り始めた、計画的なコミュニティ・プランだったのです。

■写真5 

沖縄南部の村

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これは沖縄県南部、飛行機が糸満空港に着陸する直前に撮ったものです。糸満市にある村だと思います。沖縄は南部になると山がなく、どこもかしこも平野になります。ただ、ここは、図面どおりに木で囲んで村を作っています。村と言ってもずいぶん大きい村ですが。本当は、案山=木が植わっていたら、完全に盆地状の集落になります。

■写真6 

上空から見た道路

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 これは石垣島空港着陸直前に撮った写真です。この村も18世紀頃、碁盤目状に変えています。上空から見ると、道路は真っ直ぐではなく、右側に向けて若干曲っているように見えます。しかしここを歩いていると、見通しがきくほどではありませんが、真っ直ぐに見えてしまいます。

■写真7

ヤブ村の石碑

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沖縄北部の屋部(やぶ)という村にある石碑です。「我が村の風水嘉例良し(かれよし)、内外も揃てナントカカントカ…」と書いてある。嘉例良しというのは非常にめでたいということです。碑には、いかにこの村が美しいか、山水がきれいか、という歌が書かれています。この碑は1960年4月に作られたものですが、屋部という村も碁盤目状で風水によって改造した村、今でも非常に緑豊かな村です。いかに風水で自分たちの村を美しくしたかということを語っています。このように沖縄というのは、日本本土の風水の感覚とは違うようです。

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■ 『沖縄の風水史・4』 渡邊欣雄


 それから村落の移転をたびたび行なっています。百年間に33例の村の移動の記録があります。他の先生説ですと、50くらいあるのではないかと言いますが。『球陽』(きゅうよう)という歴史の資料から拾ってみると、33例から50例くらい、百年間で村を移動している。ということは2年から3年にいっぺんくらいの割合で村を移動しているわけです。住民を移しているということがわかるわけです。
 
 そのひとつの例、私が沖縄で下宿生活していた村なんですが、その村もたびたび移動しています。始め村を作ったのが尚敬王24年。沖縄の年号というのは不思議で書き方が2つあります。王様の名前で記録する、尚敬王何年という書き方と、中国年号での書き方の2つあって、『球陽』は王様の在位年数です。尚敬王24年。蔡法司(さいほうじ)蔡温という有名な人物。法司というのは首相に相当する地位ですけども、家来の中で首相に相当する者が「諸郡の山林を巡見して村を各処に移した」。まさにそのとおりで、安波村(あはむら)沖縄本島の北部にある村ですけど、そこから久志県川田村までの路程七里は、山林で隔たっているが住民の往来が最も多い所である。だから安波村・川田村間に一村を作って、それを大鼓村(たいこむら)と名づけて久志県に帰属させ、往来の便をよくした。最初にある村が交通の便のために作られてしまうわけです。

 どういう経緯かというと、川田村の東半分の住民を移してある村を作ったんです。これ自体は風水の理由ではなく、交通が不便だったからです。七里、これ単純に4㎞と書いていいのか、わかりませんが、仮に、30㎞の間に何も村がない。そうすると当時海洋交通でしたから、港が欲しいということで村を移すんです。交通上の問題で一七三六年に作ったんですが、その50年後にまた同じ村の記録が出て来て、この村にとって風水判断が初めて登場します。

 「尚穆王30年(1781)6月6日。大鼓村を兼久原(かねくばる)に遷すことを許す。もともと大鼓村には井戸水がなく、山水を用いて生活していた。そのため住民は病となり死者も多く、子を産む者も少なく人口は漸次減少した。幸い川田村東方に泉があったのでそれを利用し、以後病人は少なくなった。しかしその泉は遠くにあり耕作する田も村から遠く、万事に不便をきたしている。川田村東の兼久原地方は用水や農業に便が良くてしかも交通の便も良く、さらに風水もまた良いところである。またこの村の名は器物と同じで、名前が良くないので富久地(ふくち)村と改名したい」というふうに記録が載っています。

 この村では初めて出てくる風水なんです。始めは交通の便を良くするために村を作ったが、その村の人口が減少するということは非常によくないわけです。減少した原因をここで見ると、水の便とか田んぼの便に求めています。それだけでなくて、最後に風水が良いということがないと、村が作れない。風水が良いからと言って村を別な場所に移すわけです。  

 そのまたさらに30年余り経った後に次のような記録があります。「尚灝王14年(1817)、久志郡富久地村を佐安佐原(さあさばる)に遷すことを許す。富久地村は以前から疲弊状態で賦課税を滞納し借財も多い。それに死者がきわめて多く、却って生存者が少ない。いまは村全体で10余人だけになっている。まして農場・泉は村と隔たっていて、いたずらにその往復に民力を費やし、意のまま農業に尽力できないほどで、年々疲弊がまして限界状態にある。ここに至り、百姓全員が以下のように願っている。川田村東方に佐安佐原という場所があり、そこは周囲が樹木に覆われているだけでなく、野に行き水を汲むのに便利である。また舟の泊まれる港もあって、万事はなはだ便が良い。そこで地理師を招いて風水を見させたところ、地理がはなはだ良いとのことだった。だから戸籍を、佐安佐原に移すことを許してほしい」というように、またここでも結局人口が減ってくるわけです。

 人口が減って、年貢の納め高もよくない。その原因は農業と経済の状態。田んぼが遠いし、水も得にくい。本当は水が近いからといって移したはずなのに、また水や経済の問題で風水が悪い原因を見ているわけです。さらに、今度は新しく村を移す、新しいその場所の風水を見て、風水がいいということで村を移しているというような記録。これが1817年です。この村に泊まって、その後の村の歴史を調べました。

 明治になってからですが、そのあとにもこの村は佐安佐原という場所から移っています。80年経った後です。ところが風水で村を移したにも係わらず、人口が増えなかった。それでさらに移したのが現在の宮城村という村なんですが、風水を最後の理由にして、5回くらい移しています。

 これはひとつの例に過ぎませんが、百年に33回か50回、たびたび村を移動している例もあります。そうやって、琉球国は国の方針としては、風水により、農村の環境をよくすることによって、経済力を高め、かつ人口を増大させ、そして長寿にしてきたということになるわけです。これは当時の見方です。国が風水の考え方を元にして、村を変えたり都市を変えたりする目的は、「福・禄・寿」という目的につきる。福というのは人口増大政策、人口を増やせば経済力が上がる。禄は、まさにその通りで経済力を高めること。中国や韓国の方まで広げていくと、禄というのは官職に就かせることという意味があります。科挙試験に合格できるほどの官位に就かせる、そういう目的もあります。寿は長寿。こういう効果を狙った政策だったわけです。

 しかしこれが、どうであったかわかりませんが、近世の琉球国の200年、特に薩摩が1609年に琉球を付庸国=属国にした、その後の琉球の苦悩、過酷さ、薩摩にも年貢を納めなければいけない。特に経済生産力を強めなければいけないような時代に最も風水の考え方をよく利用して、こんな目的で国を改造してしまったわけです。そうやって明治一二年がきます。

 明治12年は琉球処分、琉球国という国があったのを、完全に国王をなくして沖縄県というものにしてしまい、日本国に編入してしまう。それが明治12年です。その状態になって、王国体制は崩壊して行くんですが、実は20年くらいの猶予がありまして、それが旧慣温存政策。明治36年くらいまで続きますが、明治12年に琉球処分、そして明治36年。24年くらい、その間、まだ旧士族層は禄というのを食むことは許されていた。最下層の士族たちは食べていけませんから、農民化していくわけです。その中で風水師たちがどうなっていくかというと、ある程度わかっています。

 風水師というのは実は中国系の士族です。中国系の侍だけが風水を見ていました。那覇市の海の近くに久米町というのがあります。久米町というのは実は中国系の侍たちが住んでいた場所ですけれど、その人たちは、非常に高い位にいたものですから、20年間も士族として残っていたようです。その士族たちが明治時代にも地方にも出かけて、一種の民営化みたいなものです。国策としての風水だけではなくて、四民平等になっているわけですから、一挙に琉球国を崩壊させて、新たな役人を抱え込むだけの財力が日本政府になかった。だから琉球国の制度を温存させると。その温存政策の中に風水師・風水見(ふんしみー)がいたわけです。しかしそうは言っても、貰ってる扶持は減ってるわけですから、民間の人たちにも風水を見てあげているという状態が、沖縄における風水ブームの流行になっていく。そうして民間の人たちに風水という考え方が広まっていくのです。その原因にもなっていくのは、明治期の二〇数年という時期です。そして完全に明治三六年から士族がなくなってしまう。

 そうすると風水を判断する人は今は誰かというと、これを三世相というんですが、日本本土ではなんというべきでしょう。過去現在未来の人間の運勢を占う職業の人が風水を見てますし、ユタという神懸かりのおばさんなんかも風水を見ているし、大工さんなんかが風水を見ている。その他何人かが見ているんでしょう。最近の1990年から始まっている占いブームの影響もあって、日本本土化しているとはいえ、そのような人たちが、風水の判断をしている状況です。完全に風水は国の政策から切り離されて、今は政策としてはお蔵入りになってしまっているというのが現実です。いずれにしてもそういう現在の風水ではなくて、かつての風水はまさに環境アセスメント。事前の環境を判断して、それが良いか悪いかを判断した上で、村を移すなり、都市を移すなりしてきた。そのような例が沖縄の風水の歴史に典型的に現れていると思うわけです。それでは、映像資料、スライドお見せしながら解説したいと思います。

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■ 『沖縄の風水史・3』 渡邊欣雄


 沖縄での風水の歴史は古く、まず中国と沖縄が国として交流し始めたのが1392年で、14世紀の終わりです。そのときはまだ、琉球国は統一しておらず、3つの国に分かれておりました。この1392年というのは沖縄に中国から技術者たちを呼び寄せて、数々の国の建設に役立てようと始まった時期です。この中国の技能集団は一四世紀に、長崎の出島をもっと大きくしたような村を、当時の那覇に作っています。士族の待遇で沖縄の国造りを始めたのです。しかし沖縄側の文書には、その当時の記録がありません。何をしたかというとずっと後になって、沖縄の史料に出てきますが、風水の知識は国を作ろうとする時に必要なものでしたから、おそらくこの時期に中国の技術者が入っていただろうと思います。

 そうやって中国の知識を輸入し実際に活用し始めるのは、17世紀です。それは琉球国としての記録に出てくるものです。一番有名なのは「当国前代に・・・」と出てくる記録なんですが、1667年以前に正式な風水判断の人間がいたかどうかわかりませんが、周国俊国吉通事という名前の人物が外交官として福建省に渡り、地理を学んで帰ってきていて、それが琉球国の風水看(ふうしみ)の専門家の始まりか?と疑問符で書かれています。〈地理〉というのは風水の正式名称です。1667年に正式に風水師が向こうの知識を学んで帰って来た。これは当時の国家公務員です。それが、琉球国における風水判断の始まりだろうかという疑いを持った記録だったわけですが、実はそれ以前の1650年頃にも沖縄の史料に地理の記録が残っています。国家的な記録では最初です。

 先に一四世紀にあったということを述べましたが、むろんそのような想定もでき、いろいろ調べてみると一七世紀に風水知識が導入されたわけではなく、少なくとも一六世紀には入っていたことが、沖縄の家譜=系図に非常に細かく記録に残っています。沖縄の家譜というのは、各人物について何をしたかということが書かれているので、これを見ると、琉球国としては把握してないけれど、各一族は、誰が風水を看たのかがわかっていた。そんな記録の中から、琉球国が把握する以前から、風水の判断が行なわれていたことがわかります。一六世紀から一七世紀にかけての記録があるので、少なくとも一六世紀には風水を看ていたというわけです。一四世紀から一五世紀はあまり普及はしていなかった事もあり記録はありませんが、既に風水判断はしていただろうと思います。その当時の沖縄は、さてどうだったのかというのは、僕も歴史学者ではないのでよくわかりません。

 安里進さんという考古学者がいらっしゃいます。風水のことをよくご存知で、同時に琉球国の土木事業についての研究者でもある。その当時16、17世紀でさえ、沖縄の村落はブドウ状村落だったという。今ほとんど発掘しても17世紀あたりの集落が出て来てしまって、碁盤の目なんです。碁盤の目というのは、風水の知識があったからそのように変えてしまったわけですが、それ以前はブドウ状の道路の村だったわけです。道が枝の房のようであって、そのように道が分かれて村が構成されている、当時はそんな村だった。今の沖縄にはほとんどありません。迷路状の集落だったようです。そういう集落であったものを、風水の知識でどんどん変えてしまうということが起こるわけです。

 その例をまず八重山の例で見てみたいし、沖縄本島の例で見てみたいと思っているわけですが、〈国策としての環境アセスメント(八重山の例)〉です。八重山の諸記録は大変重要な風水の記録で、風水がたびたび判断されたのがよくわかりますし、国家公務員としての与儀通事親雲上(ぺーちん)、まさに役人ですが、そのような人を派遣して風水を看て、そして村を改造しているということがわかる。「琉球王府は……」というところから読みながら解説した方がいいと思うんです。これはいつの記録かといいますと、ちょうど琉球国の晩年で、一八六四年の記録です。風水をどうやって判断したかと言う事が書かれている記録ですが、少し読んでみますと、「琉球王府は風水知識を導入して、ほどなくしてその知識を沖縄の殖産興業に役立ててきた――つまり経済的な振興策に用いられていたわけです。今日には景気という言葉があります。景色の気。あれは経済の気ではないんです。よく間違えやすい。日本では経済状態の良し悪しに使いますけど、景観の気というのは、風水を考えるとよくわかります。景観から発する気、つまり環境の気です。だから風水では景観の気――自分をとりまく気の影響の良し悪しいかんによって経済が発展したり衰えたりする。つまり景気が良かったり悪かったりする。だから風水は、経済振興に役立ったわけです。つまり環境を直すことによって経済を良くしていくと。風水思想が説く理想の環境に整えなおすことによって、「人民は繁栄し、年貢・諸賦は納清」したというふうに書かれているわけです。

 実はこの内容は17世紀のことですが、その頃に八重山地方、沖縄の西の地域は殖産興業のために風水で環境改造しています。改造した後に、どうだったかというと、彼ら役人の目で「人民は繁栄し、年貢・諸賦は納清」したのである。人民が本当にそうなったのかどうか。原文では「人民に喜色あり」、喜びの笑顔が見えると書いてあるんですが、これは役人の勝手な推測に過ぎません。八重山地域で最初に国策として風水判断なされたのは、この記録にあるように、康煕23年(1684年)のことです。1684年に初めて風水判断をして、環境を変えました。そうして、しばらくは経済は発展し、人口は増えて、人々は長生きすると。当時に考えられた風水の三大効果です。

 しかし、乾隆36年(1771年)「明和の大津波」があった。これは世に有名な、沖縄の八重山地方、宮古を含めて先島(さきしま)一帯に起こった大津波です。この間、スリランカ、インド、タイで起こったあの大津波と全く同じです。ただ沖縄には山がありませんからすごい被害で、ほとんど全滅です。「各村、戸籍は損壊し、人民もまた多く身を失う」ほどの甚大な被害をもたらしている。その後は無計画に「風水の善悪を問わず、只だ各々自らその便をみて――勝手に――編みて宅籍をなす」、つまり、勝手に宅地を建ててしまうという状態だった。だから風水の判断をしないで、生き残った人達が、勝手に家を復興させてしまった。そうするとどういう結果になったかというと、「人民の憔悴は年を逐いで加増し、年貢・諸賦はその艱難を極」めていた。年貢を納めるのに非常に困難な状態であったと。そして、康煕年間にはまだ未開発だった地域は中葉に至って新村開発が進んだが、新村は「他村と比較して人民減ること多く、生まるる小児もまた多く病を帯びて死」んでしまうという状態だった。

 この状態を心配した役人たちは、村々がいっこうに繁栄しないのは「地理の法」を失ったからだと。地理の法というのは、風水のルールを全く無視していろんな宅地を作ってしまった結果だと判断し、同治2年(1863年)、琉球王国の王府に願い出て、風水師を招くことにした。それで、三司官の一人、当時の首相(法司〈ほうじ〉)が王にその旨を伝えて、王から許可が出たので、地理師を派遣して再び、風水の判断をした結果を報告告しているわけです。それが一八六四年です。康煕23年、1684年にどうしたこうしたという記録がありますが、たびたび国から風水を看るために八重山地方に役人が派遣されて、村の中の環境を整えていたのです。

 こういう話をすると八重山の人に怒られますが、17世紀の頃、風水判断で、村を大改造して、その中のいくつかが大変な失敗をしている。ある古い村が立地している場所の風水が悪いといって、別の風水の良い場所に村民たちを移したところ、かえって人口が減ってしまったような村がある。その人口衰退の原因は、マラリアが酷かったんです。既に開拓した所にもマラリアがいたにせよ、開拓しない所よりは少ない。風水が良いからといって、未開拓の地に移民させ開墾させ生活させて、結局は、かえって人口が減ったという記録も実は残っている。決して風水が役人の目で見たような効果をもたらしたわけではない。ただ当時の考え方でそうしてしまったわけです。

 それから沖縄本島の例もたいへんな記録があります。沖縄本島にはすごい村の数がありますけど、その村をいつごろから改造し始めたかというと、1736年前後から風水をよくするために、村を碁盤目状に変えています。これは非常に珍しい政策だと思います。韓国の遺跡においても中国にも、都市に関しては東アジアから碁盤目状の都市というのはあって、かなり有名ですが、日本本土で村を碁盤目にして作っていった例はあまりないのではないでしょうか。琉球国の首都首里、そこは碁盤の目にはできません。平ではないからです。那覇も碁盤目に作っていません。ところが村はかなりきれいに作られてきたわけです。1736年前後から始まって200年間改造しつづけたという記録がある。その一環としてブドウ状だったような村を碁盤目にした。それが風水政策のひとつです。

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■ 『沖縄の風水史・2』 渡邊欣雄



 今から2500年前、我々は方位磁石、つまり鉄の磁石で磁北極、磁南極を判断することができました。それ以前には地球の回転軸を北極、南極と認識していました。さらに八卦見の方法として、我々の使っている時計「土圭」が「時計」の発音の起源なんですが、棒のような計器を使っていました(写真1)。

日の出の光が入ってきて、日の入りの光が入ってくる。これを二等分すれば、南がわかるわけです。これは地球の回転軸の南であって、いわゆる磁南極とは違いますが、このような形で方位を測っていた。ところが地磁気に従うところの方位。それを発見したのが2500年くらい前なのです。それ以前に、いろんな方法が使われてきました。この方位測定法は『続日本記』にも登場します。日本の平城京を作っていくときに、どのように方位を判断したかという内容も載っています。ただ中国では既に2500年前にこのような方位測定法がだんだんと衰えつつあったので、方位磁石も併用して測っていました。日本ではまだそうではなく、このように太陽の光を用いて測っていました。今日でいうところの時計(土圭)です。

その「時計」という文字と読み方は本当に困ったことで、これは「とけい」とは読みません。「ときけい(時計)」と読むように小学校で教えて欲しいのです。1603年の日葡辞書には、時計に「土圭」の字を当てています。しかし江戸時代中期には土圭(時計)を「とけい」と読ませるようになった。これは大きな間違いです。

(写真1)
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(写真2)
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(写真2)は指南(しなん)といいますが、日本でもこのような道具を使っていたのは確かです。沖縄では使っていません。これが2500年前に発明され、2千年前=漢の時代に目盛りがつきました。だいたい日本では南を指すという道具を、このような器械だとイメージしていない。これが実際環境アセスメントに用いられてきた。それが風水です。このスプーンのような北斗七星の形をした絵柄は南を指すわけですから、それをここに乗せて、方位を判断していた、その目盛りだけを描いて載せた本がいわゆる家相の本です。日本の家相書にこの方位の目盛りだけ残っています。

 また、「鬼門」とありますが、日本人は鬼門だけ篤く信仰していますけれど、そうではなくて、鬼門の反対は人門ですし、天門=北西の方位、地戸=南東です。これは方位の名前であって別に方位の良し悪しは関係なかったんです。日本でよく用いられたのは式盤(しきばん)という方位を判断する、北極星で方位を測る方位盤です。陰陽師がよく式盤を用いて方位を判断していました。


(図2)
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 しかし方位というのは一種類ではありません。ここに「子(ね)」がある、ここに子(北)があればここにも子(北)がある、つまり子(北)というのは複数あるわけです。複数方位が違うわけです。それを確定していくのが風水師の仕事ですが、今そんなことやっている人は誰もいない。ここを磁北極とすれば、実はここが地理上の北極になるわけです。(図2)

さらに、円周は360度だという考え方ですけど、360度というのは地球の一公転に対する自転の回数365に近い数を指したわけですが、風水の方位がほぼ一致するのは北極星と地球の回転軸の違いで、違いは360分の一度です。だから方位というのは、北はいくつもあります。それを表したのが、羅針盤という、これが土地測量している図です。(図3)このようにして琉球国もそうですが、国造りをしてきたといえるわけです。

(図3)
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