International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『沖縄の風水史・4』 渡邊欣雄


 それから村落の移転をたびたび行なっています。百年間に33例の村の移動の記録があります。他の先生説ですと、50くらいあるのではないかと言いますが。『球陽』(きゅうよう)という歴史の資料から拾ってみると、33例から50例くらい、百年間で村を移動している。ということは2年から3年にいっぺんくらいの割合で村を移動しているわけです。住民を移しているということがわかるわけです。
 
 そのひとつの例、私が沖縄で下宿生活していた村なんですが、その村もたびたび移動しています。始め村を作ったのが尚敬王24年。沖縄の年号というのは不思議で書き方が2つあります。王様の名前で記録する、尚敬王何年という書き方と、中国年号での書き方の2つあって、『球陽』は王様の在位年数です。尚敬王24年。蔡法司(さいほうじ)蔡温という有名な人物。法司というのは首相に相当する地位ですけども、家来の中で首相に相当する者が「諸郡の山林を巡見して村を各処に移した」。まさにそのとおりで、安波村(あはむら)沖縄本島の北部にある村ですけど、そこから久志県川田村までの路程七里は、山林で隔たっているが住民の往来が最も多い所である。だから安波村・川田村間に一村を作って、それを大鼓村(たいこむら)と名づけて久志県に帰属させ、往来の便をよくした。最初にある村が交通の便のために作られてしまうわけです。

 どういう経緯かというと、川田村の東半分の住民を移してある村を作ったんです。これ自体は風水の理由ではなく、交通が不便だったからです。七里、これ単純に4㎞と書いていいのか、わかりませんが、仮に、30㎞の間に何も村がない。そうすると当時海洋交通でしたから、港が欲しいということで村を移すんです。交通上の問題で一七三六年に作ったんですが、その50年後にまた同じ村の記録が出て来て、この村にとって風水判断が初めて登場します。

 「尚穆王30年(1781)6月6日。大鼓村を兼久原(かねくばる)に遷すことを許す。もともと大鼓村には井戸水がなく、山水を用いて生活していた。そのため住民は病となり死者も多く、子を産む者も少なく人口は漸次減少した。幸い川田村東方に泉があったのでそれを利用し、以後病人は少なくなった。しかしその泉は遠くにあり耕作する田も村から遠く、万事に不便をきたしている。川田村東の兼久原地方は用水や農業に便が良くてしかも交通の便も良く、さらに風水もまた良いところである。またこの村の名は器物と同じで、名前が良くないので富久地(ふくち)村と改名したい」というふうに記録が載っています。

 この村では初めて出てくる風水なんです。始めは交通の便を良くするために村を作ったが、その村の人口が減少するということは非常によくないわけです。減少した原因をここで見ると、水の便とか田んぼの便に求めています。それだけでなくて、最後に風水が良いということがないと、村が作れない。風水が良いからと言って村を別な場所に移すわけです。  

 そのまたさらに30年余り経った後に次のような記録があります。「尚灝王14年(1817)、久志郡富久地村を佐安佐原(さあさばる)に遷すことを許す。富久地村は以前から疲弊状態で賦課税を滞納し借財も多い。それに死者がきわめて多く、却って生存者が少ない。いまは村全体で10余人だけになっている。まして農場・泉は村と隔たっていて、いたずらにその往復に民力を費やし、意のまま農業に尽力できないほどで、年々疲弊がまして限界状態にある。ここに至り、百姓全員が以下のように願っている。川田村東方に佐安佐原という場所があり、そこは周囲が樹木に覆われているだけでなく、野に行き水を汲むのに便利である。また舟の泊まれる港もあって、万事はなはだ便が良い。そこで地理師を招いて風水を見させたところ、地理がはなはだ良いとのことだった。だから戸籍を、佐安佐原に移すことを許してほしい」というように、またここでも結局人口が減ってくるわけです。

 人口が減って、年貢の納め高もよくない。その原因は農業と経済の状態。田んぼが遠いし、水も得にくい。本当は水が近いからといって移したはずなのに、また水や経済の問題で風水が悪い原因を見ているわけです。さらに、今度は新しく村を移す、新しいその場所の風水を見て、風水がいいということで村を移しているというような記録。これが1817年です。この村に泊まって、その後の村の歴史を調べました。

 明治になってからですが、そのあとにもこの村は佐安佐原という場所から移っています。80年経った後です。ところが風水で村を移したにも係わらず、人口が増えなかった。それでさらに移したのが現在の宮城村という村なんですが、風水を最後の理由にして、5回くらい移しています。

 これはひとつの例に過ぎませんが、百年に33回か50回、たびたび村を移動している例もあります。そうやって、琉球国は国の方針としては、風水により、農村の環境をよくすることによって、経済力を高め、かつ人口を増大させ、そして長寿にしてきたということになるわけです。これは当時の見方です。国が風水の考え方を元にして、村を変えたり都市を変えたりする目的は、「福・禄・寿」という目的につきる。福というのは人口増大政策、人口を増やせば経済力が上がる。禄は、まさにその通りで経済力を高めること。中国や韓国の方まで広げていくと、禄というのは官職に就かせることという意味があります。科挙試験に合格できるほどの官位に就かせる、そういう目的もあります。寿は長寿。こういう効果を狙った政策だったわけです。

 しかしこれが、どうであったかわかりませんが、近世の琉球国の200年、特に薩摩が1609年に琉球を付庸国=属国にした、その後の琉球の苦悩、過酷さ、薩摩にも年貢を納めなければいけない。特に経済生産力を強めなければいけないような時代に最も風水の考え方をよく利用して、こんな目的で国を改造してしまったわけです。そうやって明治一二年がきます。

 明治12年は琉球処分、琉球国という国があったのを、完全に国王をなくして沖縄県というものにしてしまい、日本国に編入してしまう。それが明治12年です。その状態になって、王国体制は崩壊して行くんですが、実は20年くらいの猶予がありまして、それが旧慣温存政策。明治36年くらいまで続きますが、明治12年に琉球処分、そして明治36年。24年くらい、その間、まだ旧士族層は禄というのを食むことは許されていた。最下層の士族たちは食べていけませんから、農民化していくわけです。その中で風水師たちがどうなっていくかというと、ある程度わかっています。

 風水師というのは実は中国系の士族です。中国系の侍だけが風水を見ていました。那覇市の海の近くに久米町というのがあります。久米町というのは実は中国系の侍たちが住んでいた場所ですけれど、その人たちは、非常に高い位にいたものですから、20年間も士族として残っていたようです。その士族たちが明治時代にも地方にも出かけて、一種の民営化みたいなものです。国策としての風水だけではなくて、四民平等になっているわけですから、一挙に琉球国を崩壊させて、新たな役人を抱え込むだけの財力が日本政府になかった。だから琉球国の制度を温存させると。その温存政策の中に風水師・風水見(ふんしみー)がいたわけです。しかしそうは言っても、貰ってる扶持は減ってるわけですから、民間の人たちにも風水を見てあげているという状態が、沖縄における風水ブームの流行になっていく。そうして民間の人たちに風水という考え方が広まっていくのです。その原因にもなっていくのは、明治期の二〇数年という時期です。そして完全に明治三六年から士族がなくなってしまう。

 そうすると風水を判断する人は今は誰かというと、これを三世相というんですが、日本本土ではなんというべきでしょう。過去現在未来の人間の運勢を占う職業の人が風水を見てますし、ユタという神懸かりのおばさんなんかも風水を見ているし、大工さんなんかが風水を見ている。その他何人かが見ているんでしょう。最近の1990年から始まっている占いブームの影響もあって、日本本土化しているとはいえ、そのような人たちが、風水の判断をしている状況です。完全に風水は国の政策から切り離されて、今は政策としてはお蔵入りになってしまっているというのが現実です。いずれにしてもそういう現在の風水ではなくて、かつての風水はまさに環境アセスメント。事前の環境を判断して、それが良いか悪いかを判断した上で、村を移すなり、都市を移すなりしてきた。そのような例が沖縄の風水の歴史に典型的に現れていると思うわけです。それでは、映像資料、スライドお見せしながら解説したいと思います。

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