International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・2』 新津健


金生遺跡の発見

先程、県営圃場整備事業に先立って発掘調査をしたという話をしたのですが、一九八〇年当時は圃場整備事業が始まったばかりでしたので、このあたりにはどのような遺跡があるのか我々も全く把握していませんでした。通常遺跡と言うのは遺跡台帳や地図におよその範囲が記載してありまして、開発するときには教育委員会に照会することになっています。その遺跡の台帳とか地図を作るためには、我々が長い時間をかけて実際に現地を歩き、土器とか石器が落ちている範囲を確認し、その成果によって遺跡の有無や時代、範囲をつかむのです。この作業、畑ではかなり確率高く遺跡の所在を知ることができます。つまり畑の場合は深く耕されますから、下のほうに埋まっていた土器や石器が細かくなって地表に散らばってくるのです。ところが水田では耕作土の下に、水が浸みてしまわないように床土という層が広がっています。床土以下は耕作しませんからそれよりも下に埋まっている遺物は地表には上がってこない。だから水田を歩いても土器は拾えない、遺跡かどうかは分からないということになります。

 ところで私共は金生遺跡調査の一年前、隣の尾根上にある「寺所遺跡」という平安時代の遺跡の発掘をしておりました。そこは畑だったことから、土器がいっぱい落ちていまして、最初から遺跡だとわかっていました。そこの発掘中の一〇月頃、県の農務の担当者から来年は隣の地区の圃場整備をやるけれど、あすこは遺跡ないですよね、と言われたのです。そこで見に行ったら全部田圃、何も落ちてない。これは弱ったなと。試掘しないとわからないという事で打ち合わせを行って、寺所遺跡の調査が終わった一二月に試掘調査を行いました。図3はこの時のものです。試掘調査なので重機は使わず全て手掘りです。

 一枚の田圃に一辺が一・五mから二mくらいの四角い穴を二箇所くらいずつ、作業員の女性二人一組で掘っていきました。最初のうちはスコップで掘るので、立って作業を続けているのですが、そのうち深くなっていくにつれ作業員さん達だんだん見えなくなってしまいます。背丈以上深くなったというのではなく、座っちゃうのです。どうしてかというといっぱい出てくるのです、土器が。それを移植ゴテで掘ることから、座ってしまう。見ると今まで山梨ではほとんどみたことがないような縄文時代後期・晩期の土器でした。

 山梨では縄文中期の遺跡は非常に多いのですが、後期になるととたんに遺跡が少なくなり、後期中頃以降ではさらに無くなる。関東の海岸地帯の方へ人が移り住んでしまったのではないかと言われるくらい、遺跡数が激減します。それがこれまでの山梨の後期晩期の状況だったのです。実際は遺跡の立地が、中期とそれ以降とでは異なっていたということがその後わかってきたのですが、それはまた別の機会にお話しすることとします。

 こうして試掘調査によって金生遺跡が発見されたのですが、この時もう一つの金生遺跡の特徴をつかむことができました。それは石が多く用いられている遺跡ということです。狭い試掘穴での成果ですから詳しいことはわかりませんが、住居の炉の回りや床に石が敷いてある例、つまり敷石住居がたくさん有りそうだということです。これは大変な遺跡だということで県の農務部や村の土地改良部局と打ち合わせしまして、翌年一年間かけて発掘しましょうということになったのです。ただその時点では、国の指定になるほどのすごい遺跡というようなことは予測できませんでした。通常発掘調査というのは記録保存が大きな目的ということで、発掘して報告書を作れば工事に着手できるというのが、教育委員会と開発部局との話し合いの筋になっていたのです。ところが調査中に大規模な配石遺構や珍しい遺物がたくさん出土し始めたことから保存問題も浮上してきまして、開発部局からは大変怒られてしまったというのが実情なのです。金生遺跡発見の背景にはこのようなことがあったのです。なお付け加えると、県営圃場整備事業に関わる発掘調査では、後年にはその発掘費用の七二・五%は農務サイドが負担し、残りの二七・五%を文化庁の国庫補助と県文化財部局とで折半するという方法を採るようになったのですが、寺所遺跡や金生遺跡ではまだそのようなルールを適用せず、全額県の文化財部局が負担し県が直接発掘調査を実施したのです(註7)。

配石遺構の発見

一九八〇年(昭和五五)五月から本格的な発掘調査が始まりました。すでにお話ししたように夏過ぎた頃からさまざまな石が組み合わさった配石遺構の全貌が顔を出し始めたのです。配石遺構は全部で五基が調査されましたが、このうち特に大規模なのが一号配石です。この配石は東西六〇m、南北一〇m程の広がりをもっているのですが、この様子は平面の実測図である図7に示しておきました。細かく見るといくつかのブロックに分かれ、しかも円形とか方形とかの小さな石組が密集していることが分かるかと思います。

図11は1号配石を西方向から見たもので、この辺が配石の③ブロックです。右側(南側)には円形石組が並んでいるのがわかるでしょうか。太い大きな石棒が立っている箇所もあります。この石棒は実際には立っていたのではなく、横に倒れていたのを起こして写真に撮ったのですけども、こういうふうな石棒とか丸石も配石中にはたくさん含まれているのです。

 このような配石遺構が八月過ぎくらいからだんだんはっきりと掘り出されて来たのでありまして、新聞とかニュースで大きく取り上げられる。そうすると見学者が大勢訪れるようになる。その頃の山梨県の人は遺跡の発見に燃えておりまして、発掘中の様子が報道されると特に日曜日なんか大勢の人が現場に来てくれます。でも農作業がだんだん忙しくなるような時期に、農道など周りの道が車の列になってしまう。地元からは農作業の邪魔になって困るとか言われ、ちょっとしたトラブルにもなってしまいます。

 でもかなり話題になっていったことは確かです。そして一〇月頃文化庁からも担当官が視察に来ました。その間大学の考古学関係の先生や研究者の方々、上智大学の八幡一郎先生、明治大学の戸沢充則先生、国学院大学の小林達夫先生を始めとしまして各地から大勢みえられ、いろいろと教えて戴いたのです。県としても史跡指定を視野に入れながら、地元や文化庁との打ち合わせに動き出しました。

 ところでこの頃、昭和五〇年代の初めですが山梨県内では大きな発掘調査が続いておりまして、遺跡を保存しようという運動が活発であった時期でもありました。まず考古博物館の一帯は甲斐風土記の丘となっており、そこで上の平遺跡の発掘が行われ、方形周溝墓がなんと一二八基も発見されたことがありました。この遺跡をかわきりに金生遺跡を経て、大量の土偶が出土した縄文時代中期の大集落釈迦堂遺跡へと保存運動が展開したのです。釈迦堂遺跡は中央自動車道のパーキングになったものですから遺跡自体は残りませんでしたが、釈迦堂遺跡博物館を建設することになり、現在釈迦堂パーキングから直接行くことができる博物館として運営されています。いろんな保存運動があった時期の、いわば山梨県民が燃えた時期のひとつの遺跡がこの金生遺跡であったということができるでしょう。

では、県民が燃えたその内容、発掘の成果についてもう少し詳しくふれてみましょう。

発掘成果の詳細~住居跡の発見

まず図6をご覧になってください。これは遺構の配置図です。住居や配石遺構がどのように並んでいるのかといったことがわかる平面図です。下のほうに3から13とか、左の横の方にBからGとかありますが、これがいわゆるグリッドのマス目番号でして、一辺が一〇mずつあります。一〇mのマス目が組んでありますので、横に長い方が3から13、つまり11ありますから一一〇mありますね。アルファベットの方が6ですから六〇mあります。それから単純にいいまして、六六〇〇平方メートルの範囲がこの図の中にあるわけです。矢印が載っていますが、その方向が北、つまり右の方が八ヶ岳になっております。それから丸とか四角でスクリーントーンがかかっていたり、それから丸ポチがあったりするのが住居の跡です。住居跡は全部で四一軒発見されましたが、この四一軒が一度に作られて人が住んでいたわけではないのです。最終的な住居の位置がこうなるということでありまして、縄文前期から晩期までの住居があるのです。

 小さくて申し訳ありませんが、図の左上の方に凡例があります。ブロックみたいなマークのものが前期初頭を表し、「2住」というのが第2号住居跡と言う意味です。その2住が前期初頭、その上方に位置する1住、3住とある二軒が中期です。この三軒以外は全部後期から晩期ということになるのです。ところで後期から晩期といっても細かい時期に分類できまして、例えば横筋のスクリーントーンがかかっている5住、6住、7住、これらが後期後半の住居です。この遺跡で一番住居数が多かったのが晩期の前半という時期でして、ここでいいますと、10住、11住、13住、14住、18住それから右端の方へ行きまして31住、それに左端の16住。これが晩期の前半のひとまとまりの住居だと考えております。一定の間隔をもって並んでいるようですね。

 図14をご覧になって下さい。これはあとで別な意味のところで使う図ですが、この図にある住居や配石遺構が晩期前半の一定の時期のまとまった遺構群ということになります。詳しく言うと、金生集落では晩期を四つくらいの時期に分けることができたのですが、その晩期でも最初から二番目の時期の晩Ⅱ期の集落ということになります。この時期が一番まとまっておりまして、七軒程度の家と配石遺構や墓などから構成されるムラということになります。一軒が四~五人くらいのスペースとして三〇人か四〇人くらいの村なのかなという非常にアバウトな計算ができるかもしれません。一つの時期としては、晩期前半のⅡ期が一番大きいムラだったのかなと、あとは三軒から四軒、せいぜい五軒くらいの家が集ってひとつのムラを成していたというような感じがいたします。

 では、そのような住居はどんな形態なのかということについてふれましょう。図8(次ページ)をご覧ください。これは12号住居という後期前半の住居ですが、住居の床面に石が敷かれている、いわゆる「敷石住居」と呼ばれるものなのです。中央に石で囲まれた炉がありますが、このような住居は縄文時代中期の末から後期の始めにかけて非常に発達します。地域的には関東の山寄りのところ、神奈川・東京・埼玉・群馬から山梨・長野にかけて盛んに造られました。金生遺跡でもこういうふうな敷石住居が出てくるのです。ところがですね、それがだいたい後期の中頃、土器でいうと加曾利B式土器の時期まではこのような石を敷いた住居が造られているのですが、後期の中頃を境にして晩期などではこのような敷石住居は無くなってくるのです。縄文時代の研究者、山本揮久さんがその辺のことをしっかりと主張されています。ただ石を使った住居が無くなるのでなくて、金生遺跡では石を敷く替わりに回りに石を並べるといった住居が見られることは注意が必要です。図9(次ページ)や図10(次ページ)の住居です。私はこれを、石が巡る住居という意味から「周石住居」(しゅうせきじゅうきょ)と呼びました。敷石住居に似ているのですが、厳密な意味では床に石を敷いたというのではなくて、プランに添って石を並べてあるような感じですね。

 このような事例を集めてみますと山梨・長野・静岡辺りの一部にこれがあることがわかってきました。しかもプランが四角なのです。その中でも非常に面白い例として、図10(次ページ)のような入口のわかる周石住居があるのです。写真奥に写っているのが長方形気味に石で囲まれている住居なのですが、この一部から右方向に石敷きが張り出しているのが分かるかと思います。この張り出し部分を入口と考えたのです。これは18号住居というのですが、図6の遺構配置図を見て戴きますと中央の上のあたりに18住というのがあります。柄鏡みたいな張り出しが付いていますね。本体は周石住居で、そのコーナーから入口が張り出しているのです。このような形態は図6の13住でも見られます。つまり四角い住居のカドに入口をつけてあるわけです。金生遺跡の現地には、このような入口を持った住居が復元してあります。しかしコーナーに入口がある例はまず無いのではないか、と言う研究者もおりますが、根拠は住居の角に張り出している石敷きということになります。柱穴の配置によってこのことが確認出来ればよいのですが史跡として残すことになったため、石をはずして床面の下まで発掘することができませんでした。いずれかの時期に、じっくり調査することもあるかなと思っております。

 ともかく金生遺跡では後期の終わりから晩期の終わりまで、このような石で囲まれた住居が主体になっているのです。

(図6) 遺構の配置
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(図7) 1号配石遺構(ブロック№は左から①②③④)
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(図8) 敷石住居(12号住居)
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(図9) 周石住居の例(11号住居)
→次ページ参照

(図10) 入口がわかる周石住居(18号住居)
→次ページ参照

(図11) 1号配石③ブロック(石棒や丸石も見える)
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(図14) 金生集落晩Ⅱ期のムラ
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■註 7 その後圃場整備事業に伴う発掘調査は当該市町村が、国と県の補助金を
活用して発掘を行っている

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■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・1』 新津健


◆平成15年7月 講演録

 本稿は、二〇〇三年七月二六日に国際縄文学会第一六回勉強会にて発表した、山梨県金生遺跡の紹介である。事務局のご努力によりテープおこしされたものがベースになっているが、一〇年が経過した現在、市町村合併が進み当時の地名表記が変わったり、研究が進んだことから内容に変更せざるをえない場合も生じつつある。これら変更事項については、文末に註として掲載したのでご参照いただきたい。

(はじめに)
 こんにちは。ご紹介をいただきました新津です。先ほどご紹介いただきましたように、現在私は山梨県教育委員会におります(註1)。この4月から行政の仕事に戻ってまいりまして、文化財保護に関 する業務についておりますが、それまでは県立考古博物館に五年ほど勤務しておりました。昨年は創 立二〇周年記念ということで、「技と美の誕生」という特別展を開催しました。そこでは火焔形土器 から所謂水煙土器といったものまで展示しまして、山梨を中心に縄文土器の躍動感あふれる中期の土 器を紹介したところです。それ以前は埋蔵文化財センターに勤務しており、県内各地にて発掘調査を 行っておりました。埋蔵文化財センターは実は考古博物館と併設になっておりまして、一階が考古博 物館、二階が埋蔵文化財センターとなっております。このような山梨の組織はある意味じゃ合理的か なと思っております。埋蔵文化財センターの調査にて発掘された出土品を、報告書が刊行されたもの につきまして、考古博物館の所蔵品として展示しているわけであります。埋蔵文化財センターでどん どん掘ってきますから、毎年箱で言えば何百箱も出土品が増えていくことからその保管には苦慮して いるところでもありますが、有る意味では贅沢な悩みを持っている博物館ということになります。

 ところで山梨では現在県立博物館を建築中でございます。これはとりあえず歴史系の博物館ということで、平成一七年秋オープンの予定で進めております。今後、歴史博物館と考古博物館をどういうふうな整合性を持ってやっていくかということで、それぞれのあり方も検討していくべき課題ということになります(註2)。

金生遺跡という名称について

 前置きが長くなってしまいましたが、今日は八ヶ岳南麓金生遺跡の意義ということについてお話させていただきます。
  
 まず、金生(きんせい)遺跡の由来について、まずお話します。ご承知のように遺跡の名前といいますのはその土地の小字名をつけることが多くなっております。工事地区の名前とか土地にある状態、例えば、湖底遺跡とか山上遺跡といった名前も用いられますが、だいたいは小字を用いるようになっています。ですが各地には、いろいろ難しい名前があります。山梨では釈迦堂(しゃかどう)遺跡とか、姥塚(うばづか)遺跡、金ノ尾(かねのお)遺跡などあります。これらは全て小字名なのです。金生遺跡の場合も、同じように小字名から名付けたものなのです。というのも、この遺跡が発見された経緯の詳細はあとでふれますが、発掘調査が実施された昭和五五年の前年、つまり昭和五四年の冬の試掘調査によってここに遺跡があるということが分かった遺跡なのです。田んぼの収穫が終わった冬の時期に、実際に穴を掘って水田下の様子を確かめ、遺跡が見つかりました。このようにして新しく発見された遺跡でして、通常どおり地域の小字名によって金生遺跡という名前が付けられています。ここからがおもしろいのですが、どうしてこの地域が小字として「きんせい」と呼ばれていたのでしょうか。実は金生とは金精(こんせい)に繋がっているのではないかと思っております。「こんせい」とは金精様、すなわち道祖神の本体、あるいは男性のシンボルをかたどった石棒に由来するものです。縄文時代の遺跡からは石棒や丸石がよく出土しますが、金生遺跡でも発掘が進むにつれ、大小の石棒や丸石がたくさん発見されました。このことから、昔この一帯を開墾した際にもやはり石棒が数多く発見され、道祖神にもつながるような「きんせい」という呼び名がこの地に定着したものではないかとひそかに思っているのです。つまり、はからずも「きんせい」という遺跡名は、この遺跡の性格を如実に物語っていることになるのです。

金生遺跡の所在地

 では、金生遺跡は山梨県のどの辺りにあるのでしょうか。所在地を言いますと、山梨県北巨摩郡大泉村谷戸というところにあります(第1図 註3)。山梨の甲府盆地西側には北から南にかけて、北巨 摩、中巨摩、南巨摩の三郡がありますけど、一番北側のもう長野県との県境に近い一帯が北巨摩郡です(註4)。この北巨摩郡のなかでも八ヶ岳南麓の正面に細長く延びている村が大泉であります。そこ から二〇分も走ればもう長野県原村とか富士見町に入ってしまいます。この八ヶ岳南麓の標高が七六 〇mほどの緩やかな尾根上に金生遺跡が立地しています。非常に展望が素晴らしいところです。レジュメの図2(遺跡遠景)のように南の方をみると富士山がくっきりと見えます。西には南アルプスの甲斐駒ヶ岳や地蔵ヶ岳、北には八ヶ岳(図3~5)がすばらしい。そして東には奥秩父山塊の金峰山といったように、四方に特徴的な山を望むことができる立地なのです。

 ここで図3から図5の三枚の写真を見てください。背後に八ヶ岳を背負った金生遺跡の様子がわかると思うのですが、2が発掘前、3が発掘中、4が整備後という三段階の写真なのです。あたかも使用前、使用中、使用後といった状況ですが八ヶ岳連山と遺跡の立地がよくわかるものです。


(図1) 金生遺跡の位置
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(図2) 遺跡遠景(南方を見る)
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(図3) 発掘前の遺跡(北方を見る)
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(図4) 発掘中の遺跡
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(図5) 整備された遺跡(史跡金生遺跡)
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■註

1 筆者はその後山梨県埋蔵文化財センター所長を最後に定年退職
2 現在山梨県立博物館は平成一七年一一月に開館し、山梨の歴史研究や保管、
  展示の柱となって活用されている
3 平成一六年及び一八年に北巨摩郡下の白州町、武川村、小淵沢町、長坂町、
  大泉村、高根町、須玉町、明野村の八町村が合併し北杜市が誕生した。大
  泉村は北杜市大泉町となった。
4 合併によりすべて市となったため、北巨摩郡の名称は消滅。大部分は北杜
  市に属す
5 平成一七年には整備が完了し現在公開されている
6 現在この原稿を整理しているのが二〇一三年であることから、すでに三三
  年程前のこととなる

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■ 『縄文時代の信仰について・6』 菅田正昭


 それとですね、非常に不思議なのは『常陸風土記』の香島の郡こほりに――カシマといっても今の鹿島神宮の鹿島じゃなくて、読んで字のごとく鹿島・香取は本来、川を挟んでひとつの地域のわけです。その香島の中に軽野の里があります。カルノというふうにルビが振ってありますね。香島の郡のところに「郡の南20里に、浜の里あり、東の松山の中に一つの大きなる沼あり寒田といふ。四五里ばかりなり。鯉、鮒、住めり。え万と軽野との二つの里にあるところの田、少しく潤ふ。軽野の東の大海の浜辺に流れ着ける大船あり、長さ一十五丈、広さ一丈余り。朽ちて枯れて砂に埋もり、今なお遺れり」とあります。これもカノウと読むことが出来るんで、これは偶然に流れ着いたと言っているけれど、この辺でたぶん作った可能性がある。というふうに私は思うわけです。で、実はこのちょっと前にこういう記述があります。「それ若松の浦は、すなはち常陸と下総との二つの国の境なり、安是あぜの海にある沙鉄は、剣を造るに大きに利し。然れども香島の神山なれば、すなはち入りて松を伐り、鉄を穿ることは得ざるなり」ということで鹿島神宮の神山があるためにそこの松を切ってそれを材料にしてタタラ製鉄を作ることは出来ない、というふうに書かれているわけです。実際、鹿島神宮と現在ある霞ヶ浦の、あの中間のところには古代の産鉄地帯で、実はそこに居るのがオウ族です。多氏の一族がいるわけです。この一族のたぶん分派が例の行田稲荷山の鉄剣にもオウの名が出てくるんですが、そういうものがいる。鍛人(カヌチ)がいたのです。おそらく寒田のサムも鉄のサビを意味しています。

 この土地に星神のミカボシがいた。別名カガセヲといいますけれど、アメノカガセヲ=香香背男。輝く、かぐや姫のカガです。輝く。いずれにしてもアマツミカボシにしても、カガセヲにしてもホシガミ系統のアマツ神だというふうに思われるわけですけど、そういうものがいたわけです。このカガセオウというのはお話があちこちバーンと飛びますけれど、ここに書いたんですが、スサノヲがヤマタノヲロチの中から退治した時に出てきたのが後にヤマトタケルノミコトが東国遠征の際に使った草薙の剣なんですが、そのトツカノツルギの別名を天羽々斬(アメノハハキリ)といい、「古語に、大蛇を羽々と謂ふ」との『古語拾遺』の記述はそれを受けて書いているわけです。そのトツカノツルギが別名アメノハハキリという、ということで、このアメノハハキリ=アラハバキだというふうに捉える人も実際いるわけで。古代の産鉄と縄文系の人との繋がりが視えるような気がします。この辺が非常に難しい問題ですけど、ずーっと絡んでくるんですよね。実はホシガミカガセヲが退治されたときに使われている剣も実は同じ名前を持っている。『常陸風土記』とか読んで、あと鹿島神宮周辺の伝説を読んでいくと、天孫降臨の場面では我々はふつう出雲の地が天孫に滅ぼされたという感じを受けるんですが、そうじゃなくて常陸になっているんですね。場所がね。

 ただそのときに中心になったのが藤原氏の先祖だったということで、藤原氏の出身が鹿島だったということが言えるわけなんですけども、その天孫降臨の先発隊として天下った神の中に建たけ葉は槌づちの命みことというのがいるわけです。鹿島神宮の摂社として祀られているわけです。鹿島神宮の神域に入って一番小さいけれど一番ど真ん中に、参道の道のぶつかったとこにある社がこの神様です。摂社であることから、これが地主神だというふうに言われています。この神が討ち取った方なのか、討ち取られた方なのか、実際はよくわからないと思うんですね。ひょっとすると討ち取った神であり、討ち取られた神であるという二重構造になってる可能性も非常にあるんじゃないかなというふうに思うわけです。タケハヅチに討ち取られたことになっているカガセヲのカガとヤマタノヲロチのところで出てきたカガシ、カガチのカガというのは、やはりどこかで通底してくるではないかというふうに思います。今は一月ですが、あと半月と少し経つと、節分になる。青ヶ島の節分行事にフンクサというのがあります。島ではササヨと呼ばれている青臭い魚があるんですが、そのササヨを切り身にして、本来は囲炉裏なんですけど、今囲炉裏がある家がないんで、七輪を持って、その専門の社人が家々を巡ってやるんですが、フンクサの祭文というのがある。箸で魚を掴んで七輪で焼くわけです。「フーンクサ」、「フーンクサ」(「フーン」のときに箸で魚をつまんで七輪であぶって焼くしぐさ、「クサ」のときいかにも臭そうに嗅ぐしぐさをする)と言いながら「年の始めの年神様にやきやかしをしてお願い申す、カンモが千俵、万俵いってもかまって候。フーンクサ、トビヨ(飛魚)千本、万本とれてもかまって候。フーンクサ。鶴は千年、亀は万年、浦島太郎は百六つ。三浦大介八千年、海老の腰は七曲り。ここの亭主は九十九まで」。なんて言って、「あんど?」「今九十九?」「そごんだいどうばもう終わりそうじゃ」など言ってとぼけてね、まあ、いろいろバリュエーションがあるわけですけど、まあ目出度いことを付け加えて即興でやるフンクサというのがある。この中に「年の始めの年神様にやきやかしをして」と言う言葉があるんです。この「焼きやかし」という言葉は、「焼き嗅し(ヤキカガシ)」として、岩波の古語辞典にも載ってます。よくイワシの頭も信心からと言われますが、節分のときに魚の頭というか、そういうのを飾ってある家が今でもありますね。フーンクサ、つまり臭いもので邪気を払うというか、脅かすわけです。この焼き嗅しと、これがどっかで繋がってくるんだと思うのです。この嗅しとヘビのカガシがたぶんイコールで、それと案山子もたぶんイコールであるというふうに思うんです。で、案山子というのは、今は人形みたいになって、案山子自体が無くなっちゃて珍しいものになりつつあります。僕は昭和20年生まれですけれど、昭和三十、三十二、三十三年くらいまで大田区池上の、我家の裏側には田圃があって、案山子もやっぱり立っていたわけです。案山子は確かに人形みたいな形になってますけれど、古い形は、あれは御幣なわけですよね。つまり田の神様をあそこで立てていたのが変わってきちゃうわけです。つまり、もっと簡単なというか、場合によっては竹を刺してある状態ですよね。いずれにしても神のミテグラ(幣)というか、依代(ヨリシロ)というか、そういうものはおそらく案山子と元は同じであったと思うわけです。そういう案山子はたぶん田圃だけじゃなくて畑も含めてですね、農作物の収穫の頃にネズミとか、そういうものがやって来ると、それを追い払うのはヘビだったわけです。ネズミがいればヘビが追っかけて来るわけです。そういう意味ではヘビは実は田圃の神であった可能性があると思うんですね。つまり案山子はひょっとするとヘビの神だった。もちろん山田の案山子の出てくる、あのヒキガエルの久延毘くえび古こになると、まったく逆になっちゃいますけど。特にマムシの場合、青田には、マムシがいる可能性ってのはあるわけです。たぶんそういうものが全部どっかで、カガシ、案山子、カガセヲ、かぐや姫の嗅ぐ、カガも含めて、どっかでみんな繋がってるんじゃないか、もちろん語源的に繋がりがあるかというのは別としてですね、古代人が一種のアナロジー的に考えてもそういうものをひとつ一まとめにして考えていた可能性はあるんじゃないかなというふうに思うわけです。

どうもありがとうございました。(終)

菅田正昭
民俗宗教史・離島政策文化フォーラム共同代表

  • 2014年10月01日(水) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『縄文時代の信仰について・5』 菅田正昭


 レジュメに日本三大方言――本土方言、沖縄方言、八丈方言というふうに書きました。ちょっと誇張してます。で、八丈方言というのは言語学会における位置付けとしては、かつては明治から戦前までは関東方言の一変種だというふうに言われてきました。ただし一部の学者では所属不明の方言であるというふうに言われていました。そして、戦後の時期は、戦後も前期ですね、これは日本にはこれだけの方言がある――琉球方言、八丈方言、東部方言、西部方言、九州方言と言われていました。この東部方言の中にはいわゆる東北弁、――みんな今でも東北と九州がすごく離れてるから全然違うみたいな感じに思う人がいるわけですけども、東部方言――東北、関東、東海ぐらいまではほとんど、そう変わりない実はね。ただ地域によって口の開きが違うために音韻に変化があって、聞いた発音がちょっと違うというんで分かりにくいということはあるわけですけれど、基本的には東北、関東、東海というのは東部方言でひとつに括られちゃうわけです。西部方言というのは北陸、関西、四国、中国、これでひとつ。で、九州がひとつ。それが戦後の後期になりますと、琉球方言、八丈方言、東部方言、西部・九州方言という形になるわけです。東部方言はひとつ括りで残るんですが、西部方言、つまり北陸、関西、四国、中国、九州がひとつで西部・九州方言というふうに言われて、四大方言になってしまうわけです。そして、ついに今や本土は一括りにされつつあるわけです。それでも八丈方言と琉球方言は残ってるわけです。つまり、私はもともと島派なもので、こうじゃなきゃいけないというふうに思うんですけれど、島は二大方言で残ったものの、本土は基本的にひとつだという感じです。もちろん個々はいろいろあるわけです。

 言語学者は琉球方言というのは日本祖語――日本語の祖語、祖語だっていっぱいあるわけです、5000年前の縄文語が…。青森から鹿児島まで見たとしてもすごい距離があるわけですから、当時だって縄文時代においてすでに方言があったと思います。でも、すぐ理解できたでしょう。そういう日本祖語という形で、一括りにすると八丈方言は琉球方言より先に分かれたというふうに言われているわけです。沖縄方言というのは実はかなり後なので、そういう意味では八丈方言というのは非常に縄文的な要素が強いのではないかというふうに言われているわけです。まあ、私は偶然そういう所に住んだわけですけれど、八丈の持つ意味というのが実は非常に重要視されているんだと思います。しかも八丈では縄文土器も全島でいろいろ出ているわけです。ただ僕自身は個人的には八丈というのはミクロネシア系の影響が基底部部にはあるんじゃないか。こう言っては変なんですけれど、八丈の人は顔が違います。本土の人と明らかに顔が違います。まあ沖縄の人もヤマトゥとはと違います。八丈人はウチナンチュとも違う感じです。たぶんどこかで南太平洋的要素が、縄文以前にあったんだと思うんです。まあ、伊豆諸島では青ヶ島が一番最南端にあるんですが、もう少し先になると、小笠原になるわけです。小笠原というのはボニンアイランドというふうに言われていて、ボニンというのは無人島、巽無人島なわけです。巽無人島の無人島が訛ってボニンになって、それが英語でボニンアイランドになってるわけですけれど…。この小笠原にはミクロネシア系の無土器文化が発見されてます。だからたぶんその基層が八丈でも見つかっているんです。底辺では八丈にはそういうものがあるんではないかと思われます。ちなみに、話がボンと飛びますけれど、八丈ではカヌーのことをカノーというんです。青ヶ島でも船のことはカノーというんです。これが青ヶ島なんかでもそうなんですけど、台所のことをコック場というんですよね。これはクックから当然きているわけですけど、そういう事実もあることだから、実は小笠原の影響というのがあります。小笠原諸島には幕末の時には日本人は住んでなかったんです。住んでたのはナサニエル・セボレーを中心とした欧米系の人とカナカ人がいたわけです。カナカ人というのはこの辺もいろいろ問題があるんですけれど、ハワイの原住民、そういう人たちがやって来て、混血して、そこへ日本人が明治以降になって入ってくるという形です。カヌー文化もカノーもそのときに来たというふうに言われているんです。ところがどうもカノーという言葉が小笠原が無人島で欧米系島民、普通は欧米系島民と言うんですけど、東京都が美濃部都政の時から使っている用語だと「在来島民」と馬鹿なことを言ってます。「欧米系島民」と言うと差別語であると彼らは言うんで、官庁用語的には在来島民。在来系の人たちが小笠原(父島)に来る前の、完全無人島の時代にどうも八丈では船のことをカノーと呼んでいた。ということはカノーというのはもっと古い可能性があるわけです。そこで思い出すのは伊豆に狩野川という地名がある。狩野。この狩野川で、これは『古事記』にも『日本書紀』にも載ってますけれど、古代に伊豆の国から木を切り出して、それを献上して、2度、枯野(カラノ)――本来はルビ振ってないんです、これを普通はカラノというふうに訓読しているんです。枯野という船を非常に大きな、今の長さにすると30数mの刳り舟ですね。それを朝廷に献上した。一方淡路島に井戸がありまして、そこの井戸の水はきれいだというんで、そこから汲んで運んでたという記述がある。このタンカーが枯野なんですが、これをカノと読むことができます。この枯野は伊豆の国から産出したと書いてある。船の材料の原木ですね。だから当然ここの場所の可能性が強い。

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  • 2014年10月01日(水) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『縄文時代の信仰について・4』 菅田正昭


 今は埋没してしまっているんですけど、八丈島の三根のあるところにアラ神が祀られていた。近藤富蔵の『八丈実記』に出てきます。近藤富蔵のお父さんは近藤重蔵で択捉島に大日本恵土呂府という標柱をぶち込んだ人です。近藤富蔵の方は、父親コンプレックスで、お父さんにいいところを見せようと思って、幕末に隣の家との土地争いのときに逆上して隣の家の百姓を4人も殺してしまったということで、八丈島に流されるわけです。その人が八丈で『八丈実記』という伊豆諸島小笠原含めた大百科事典みたいなものを書き上げるんですが、その中にアラブ社というのが紹介されています。荒神を祀っている。冗談みたくなりますが、「アラーの神を祀ったアラブ社がある」そう言うとみんなびっくりしますが、このアラもこのアラなんです。実際は、そういうアラ神のアラなわけです。

 またちょっと戻りますが、縄文語で神のことをカピという。折口信夫が古代研究の中で、蚕のことを書いているわけです。お蚕さんの蚕は、折口以前は蚕の語源は「飼う子」だった。「お蚕さん」というくらい大事にしていますけれど、硬い殻に被った物をどうも古代はカヒ(カイ)と言っていた、いうことを折口がいろんな言葉を探してきて論証するわけです。玉子もカヒだ、というふうにいわれている。折口から見れば蚕というのはやっぱり一種の神だったというわけです。蚕も虫ですが、最初は卵でそのあと這う虫になってその後蝶になる。蝶というのはよく「蝶も鳥も飛ぶものはみんなチョウだ」と、そういうふうに言われているが、実はそれを折口が言っている。「飼う子」説というのは間違いだと言われていましたが、そういう蚕も一種ヘビとは違いますが、脱皮するものとして後に蚕は絹になるわけです。絹を取った後の蛹の中の虫はどうしていたと思います?昔の人は、あれを食糧として食べていました。無駄がありません。

 私は『古神道とエコロジー』という本の中で、江戸時代、八丈島に流された梅辻規清という神道家のことを書いていますが、その人が「天明の大飢饉の元凶は蚕である」ということを言っています。なぜそういうことを言うのかというと、江戸時、町民は絹を着てはいけないということで、武士でないと絹のちゃんとしたものは着てはダメだと。ただし屑繭というか、虫が抜けきったあとの、蛾が出てしまったものを糸にしたものは別で、これを紬といいますが、この糸は一定になっていません。本当は、繭の段階で殺して糸を取るわけですけど、屑繭になったやつを製品にしているという形で、本当は紬ではないのに紬と称しているのもあるわけです。梅辻が言うには、江戸時代はどの藩も財政難になってきているから、手っ取り早く現金収入になるのがいいと思い、田畑を桑畑に替えたりして絹の増産を図るわけです。そのため逆に農地が少なくなってくる。そこにイノシシや小動物が畑に出てくる。本来、山だったところを崩して桑畑にしていくものだから、生態系が狂って洪水が起きやすくなる。かれは「鉄砲水」という言葉をすでに使っていますが、その鉄砲水が起きやすくなる。そういうことで蚕が元凶であると言うのはちょっとシンボリック的に使っているわけですけど、そういうこともあるわけです。本来の形でいくと繭の状態で殺せば虫は食べられるわけですし、蛾となって出てしまえば食べられないということになるわけですが、蚕の中の幼虫はそういう形で食用になっていたわけです。韓国あたりでは今でもやっています。このように虫を食べる文化というのはかなりありました。先ほどの藤森栄一は虫を食べる文化のことは言っていませんが、彼が住んでいた信州というのは、まさに虫食い文化の地域です。ですから、当然縄文人もそういう虫を食べてただろうと思います。今日はみなさんにも生で食べてもらおうと思って、ムカゴを持ってくるはずでしたが、ちょっと家に置き忘れました。すいません。ムカゴというのは山のイモの葉にくっつく丸い虫です。縄文だ、縄文だという人でもそれを「やだ」と言って食べられない人が結構いるので、そういうのは偽縄文人だと僕は言っていますが、そういう人は多いです。

 ここで『常陸風土記』のところに入りますけども、『常陸風土記』にはヘビの神が出てくるわけです。『常陸国風土記』の行方なめかたの郡に夜刀神が出てきます。

ヤトというのは東日本には多い地名なんです。谷戸、谷津、谷地という地名が結構点在してますよね。谷津遊園というところに谷津というのがありますし、関東地方には谷津、谷戸が結構残っています。大田区の大森の東邦医大の近くにもありますし、神奈川県川崎市にはとても多い。そういう丘陵の谷あいの水が湧き出す地域を谷戸というわけです。その夜刀神が出てくるわけです。この夜刀神も木の上にいます。それで『常陸国風土記』で新田開発に抵抗した神とかいて「神(あや)しき蛇」というふうに書かれていますが、そういう蛇神としての夜刀神として出てきます。それも木の上にいて様子を見てて脅かされて退散したという形で出てくるんですが、そういう蛇神があります。

 それから新治(にいはり)郡のところに「駅家(うまや)あり。名を大神(おおかみ)といふ。然しかいふゆゑは、大蛇(おほかみ)多くあり」つまり神=ヘビということですね。ミは祗であるということ。ヘビのミは祗でもあるということが言えると思うんですが、『常陸国風土記』ではそういうふうに言われています。この『常陸国風土記』が書かれていた時代の、常陸の国を中心に話されていた言語というのがあるわけです。これを上代東国方言とか、万葉集東歌方言というふうに言われているわけです。これは文献的にいうと、わずか痕跡として『常陸国風土記』にあるのと、『万葉集』の東歌方言にしかない方言です。ところが現在も使われているところがある。これが八丈島と青ヶ島です。少し前までは昭和45年までは八丈小島でもしゃべられていた八丈方言という言葉があるわけですが、これが上代東北方言ないし、万葉集東歌方言とほとんどイコールです。ただし現代語ですから、いろんな要素がもちろん混ざってきているんですけれど、文法的には、語彙としても、古い上代の東北方言が残っている唯一の地域であるというふうに言われているんです。先ほども言いましたように、どういうふうな言語的特徴があるかというと、連体形が5段活用になる。あいうえおの5段活用に。普通だと「死ぬわけ」とか「読む本」「降る雨」というと「死のわけ」「読も本」「ふらう雨」というふうになるわけです。だから「芋を食べる」ことは「芋かもわ」になるし、「朝けかもわ」、夜が近づいて「ようけかもごーん」というと、大阪のヨウケかと思って、たくさんに思っちゃう人もいるかもしれませんが、「夕御飯を一緒に食べませんか」です。そういう形の方言が残っているわけです。八丈方言に関しては折口信夫が最晩年に八丈の信仰と言語に非常に注目してこれから八丈島の信仰と八丈方言について研究して行きたいと言ったとたん死にました。結局出来なかった。それから服部四郎という言語学者も晩年に八丈方言の中の非日本語的特徴という、たぶん彼自身はオーストロネシア語的特徴を八丈方言にたぶん直感的に掴んだと思うんです。そこでそのことをもっと今後は勉強していきたい、研究して行きたいというふうに思ってたんですが、そこでやっぱり亡くなってしまったということで、八丈方言について本格的に研究されているのは千葉大学教授の金田章宏さんぐらいです。ほとんどやられてません。

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