International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・2』 新津健


金生遺跡の発見

先程、県営圃場整備事業に先立って発掘調査をしたという話をしたのですが、一九八〇年当時は圃場整備事業が始まったばかりでしたので、このあたりにはどのような遺跡があるのか我々も全く把握していませんでした。通常遺跡と言うのは遺跡台帳や地図におよその範囲が記載してありまして、開発するときには教育委員会に照会することになっています。その遺跡の台帳とか地図を作るためには、我々が長い時間をかけて実際に現地を歩き、土器とか石器が落ちている範囲を確認し、その成果によって遺跡の有無や時代、範囲をつかむのです。この作業、畑ではかなり確率高く遺跡の所在を知ることができます。つまり畑の場合は深く耕されますから、下のほうに埋まっていた土器や石器が細かくなって地表に散らばってくるのです。ところが水田では耕作土の下に、水が浸みてしまわないように床土という層が広がっています。床土以下は耕作しませんからそれよりも下に埋まっている遺物は地表には上がってこない。だから水田を歩いても土器は拾えない、遺跡かどうかは分からないということになります。

 ところで私共は金生遺跡調査の一年前、隣の尾根上にある「寺所遺跡」という平安時代の遺跡の発掘をしておりました。そこは畑だったことから、土器がいっぱい落ちていまして、最初から遺跡だとわかっていました。そこの発掘中の一〇月頃、県の農務の担当者から来年は隣の地区の圃場整備をやるけれど、あすこは遺跡ないですよね、と言われたのです。そこで見に行ったら全部田圃、何も落ちてない。これは弱ったなと。試掘しないとわからないという事で打ち合わせを行って、寺所遺跡の調査が終わった一二月に試掘調査を行いました。図3はこの時のものです。試掘調査なので重機は使わず全て手掘りです。

 一枚の田圃に一辺が一・五mから二mくらいの四角い穴を二箇所くらいずつ、作業員の女性二人一組で掘っていきました。最初のうちはスコップで掘るので、立って作業を続けているのですが、そのうち深くなっていくにつれ作業員さん達だんだん見えなくなってしまいます。背丈以上深くなったというのではなく、座っちゃうのです。どうしてかというといっぱい出てくるのです、土器が。それを移植ゴテで掘ることから、座ってしまう。見ると今まで山梨ではほとんどみたことがないような縄文時代後期・晩期の土器でした。

 山梨では縄文中期の遺跡は非常に多いのですが、後期になるととたんに遺跡が少なくなり、後期中頃以降ではさらに無くなる。関東の海岸地帯の方へ人が移り住んでしまったのではないかと言われるくらい、遺跡数が激減します。それがこれまでの山梨の後期晩期の状況だったのです。実際は遺跡の立地が、中期とそれ以降とでは異なっていたということがその後わかってきたのですが、それはまた別の機会にお話しすることとします。

 こうして試掘調査によって金生遺跡が発見されたのですが、この時もう一つの金生遺跡の特徴をつかむことができました。それは石が多く用いられている遺跡ということです。狭い試掘穴での成果ですから詳しいことはわかりませんが、住居の炉の回りや床に石が敷いてある例、つまり敷石住居がたくさん有りそうだということです。これは大変な遺跡だということで県の農務部や村の土地改良部局と打ち合わせしまして、翌年一年間かけて発掘しましょうということになったのです。ただその時点では、国の指定になるほどのすごい遺跡というようなことは予測できませんでした。通常発掘調査というのは記録保存が大きな目的ということで、発掘して報告書を作れば工事に着手できるというのが、教育委員会と開発部局との話し合いの筋になっていたのです。ところが調査中に大規模な配石遺構や珍しい遺物がたくさん出土し始めたことから保存問題も浮上してきまして、開発部局からは大変怒られてしまったというのが実情なのです。金生遺跡発見の背景にはこのようなことがあったのです。なお付け加えると、県営圃場整備事業に関わる発掘調査では、後年にはその発掘費用の七二・五%は農務サイドが負担し、残りの二七・五%を文化庁の国庫補助と県文化財部局とで折半するという方法を採るようになったのですが、寺所遺跡や金生遺跡ではまだそのようなルールを適用せず、全額県の文化財部局が負担し県が直接発掘調査を実施したのです(註7)。

配石遺構の発見

一九八〇年(昭和五五)五月から本格的な発掘調査が始まりました。すでにお話ししたように夏過ぎた頃からさまざまな石が組み合わさった配石遺構の全貌が顔を出し始めたのです。配石遺構は全部で五基が調査されましたが、このうち特に大規模なのが一号配石です。この配石は東西六〇m、南北一〇m程の広がりをもっているのですが、この様子は平面の実測図である図7に示しておきました。細かく見るといくつかのブロックに分かれ、しかも円形とか方形とかの小さな石組が密集していることが分かるかと思います。

図11は1号配石を西方向から見たもので、この辺が配石の③ブロックです。右側(南側)には円形石組が並んでいるのがわかるでしょうか。太い大きな石棒が立っている箇所もあります。この石棒は実際には立っていたのではなく、横に倒れていたのを起こして写真に撮ったのですけども、こういうふうな石棒とか丸石も配石中にはたくさん含まれているのです。

 このような配石遺構が八月過ぎくらいからだんだんはっきりと掘り出されて来たのでありまして、新聞とかニュースで大きく取り上げられる。そうすると見学者が大勢訪れるようになる。その頃の山梨県の人は遺跡の発見に燃えておりまして、発掘中の様子が報道されると特に日曜日なんか大勢の人が現場に来てくれます。でも農作業がだんだん忙しくなるような時期に、農道など周りの道が車の列になってしまう。地元からは農作業の邪魔になって困るとか言われ、ちょっとしたトラブルにもなってしまいます。

 でもかなり話題になっていったことは確かです。そして一〇月頃文化庁からも担当官が視察に来ました。その間大学の考古学関係の先生や研究者の方々、上智大学の八幡一郎先生、明治大学の戸沢充則先生、国学院大学の小林達夫先生を始めとしまして各地から大勢みえられ、いろいろと教えて戴いたのです。県としても史跡指定を視野に入れながら、地元や文化庁との打ち合わせに動き出しました。

 ところでこの頃、昭和五〇年代の初めですが山梨県内では大きな発掘調査が続いておりまして、遺跡を保存しようという運動が活発であった時期でもありました。まず考古博物館の一帯は甲斐風土記の丘となっており、そこで上の平遺跡の発掘が行われ、方形周溝墓がなんと一二八基も発見されたことがありました。この遺跡をかわきりに金生遺跡を経て、大量の土偶が出土した縄文時代中期の大集落釈迦堂遺跡へと保存運動が展開したのです。釈迦堂遺跡は中央自動車道のパーキングになったものですから遺跡自体は残りませんでしたが、釈迦堂遺跡博物館を建設することになり、現在釈迦堂パーキングから直接行くことができる博物館として運営されています。いろんな保存運動があった時期の、いわば山梨県民が燃えた時期のひとつの遺跡がこの金生遺跡であったということができるでしょう。

では、県民が燃えたその内容、発掘の成果についてもう少し詳しくふれてみましょう。

発掘成果の詳細~住居跡の発見

まず図6をご覧になってください。これは遺構の配置図です。住居や配石遺構がどのように並んでいるのかといったことがわかる平面図です。下のほうに3から13とか、左の横の方にBからGとかありますが、これがいわゆるグリッドのマス目番号でして、一辺が一〇mずつあります。一〇mのマス目が組んでありますので、横に長い方が3から13、つまり11ありますから一一〇mありますね。アルファベットの方が6ですから六〇mあります。それから単純にいいまして、六六〇〇平方メートルの範囲がこの図の中にあるわけです。矢印が載っていますが、その方向が北、つまり右の方が八ヶ岳になっております。それから丸とか四角でスクリーントーンがかかっていたり、それから丸ポチがあったりするのが住居の跡です。住居跡は全部で四一軒発見されましたが、この四一軒が一度に作られて人が住んでいたわけではないのです。最終的な住居の位置がこうなるということでありまして、縄文前期から晩期までの住居があるのです。

 小さくて申し訳ありませんが、図の左上の方に凡例があります。ブロックみたいなマークのものが前期初頭を表し、「2住」というのが第2号住居跡と言う意味です。その2住が前期初頭、その上方に位置する1住、3住とある二軒が中期です。この三軒以外は全部後期から晩期ということになるのです。ところで後期から晩期といっても細かい時期に分類できまして、例えば横筋のスクリーントーンがかかっている5住、6住、7住、これらが後期後半の住居です。この遺跡で一番住居数が多かったのが晩期の前半という時期でして、ここでいいますと、10住、11住、13住、14住、18住それから右端の方へ行きまして31住、それに左端の16住。これが晩期の前半のひとまとまりの住居だと考えております。一定の間隔をもって並んでいるようですね。

 図14をご覧になって下さい。これはあとで別な意味のところで使う図ですが、この図にある住居や配石遺構が晩期前半の一定の時期のまとまった遺構群ということになります。詳しく言うと、金生集落では晩期を四つくらいの時期に分けることができたのですが、その晩期でも最初から二番目の時期の晩Ⅱ期の集落ということになります。この時期が一番まとまっておりまして、七軒程度の家と配石遺構や墓などから構成されるムラということになります。一軒が四~五人くらいのスペースとして三〇人か四〇人くらいの村なのかなという非常にアバウトな計算ができるかもしれません。一つの時期としては、晩期前半のⅡ期が一番大きいムラだったのかなと、あとは三軒から四軒、せいぜい五軒くらいの家が集ってひとつのムラを成していたというような感じがいたします。

 では、そのような住居はどんな形態なのかということについてふれましょう。図8(次ページ)をご覧ください。これは12号住居という後期前半の住居ですが、住居の床面に石が敷かれている、いわゆる「敷石住居」と呼ばれるものなのです。中央に石で囲まれた炉がありますが、このような住居は縄文時代中期の末から後期の始めにかけて非常に発達します。地域的には関東の山寄りのところ、神奈川・東京・埼玉・群馬から山梨・長野にかけて盛んに造られました。金生遺跡でもこういうふうな敷石住居が出てくるのです。ところがですね、それがだいたい後期の中頃、土器でいうと加曾利B式土器の時期まではこのような石を敷いた住居が造られているのですが、後期の中頃を境にして晩期などではこのような敷石住居は無くなってくるのです。縄文時代の研究者、山本揮久さんがその辺のことをしっかりと主張されています。ただ石を使った住居が無くなるのでなくて、金生遺跡では石を敷く替わりに回りに石を並べるといった住居が見られることは注意が必要です。図9(次ページ)や図10(次ページ)の住居です。私はこれを、石が巡る住居という意味から「周石住居」(しゅうせきじゅうきょ)と呼びました。敷石住居に似ているのですが、厳密な意味では床に石を敷いたというのではなくて、プランに添って石を並べてあるような感じですね。

 このような事例を集めてみますと山梨・長野・静岡辺りの一部にこれがあることがわかってきました。しかもプランが四角なのです。その中でも非常に面白い例として、図10(次ページ)のような入口のわかる周石住居があるのです。写真奥に写っているのが長方形気味に石で囲まれている住居なのですが、この一部から右方向に石敷きが張り出しているのが分かるかと思います。この張り出し部分を入口と考えたのです。これは18号住居というのですが、図6の遺構配置図を見て戴きますと中央の上のあたりに18住というのがあります。柄鏡みたいな張り出しが付いていますね。本体は周石住居で、そのコーナーから入口が張り出しているのです。このような形態は図6の13住でも見られます。つまり四角い住居のカドに入口をつけてあるわけです。金生遺跡の現地には、このような入口を持った住居が復元してあります。しかしコーナーに入口がある例はまず無いのではないか、と言う研究者もおりますが、根拠は住居の角に張り出している石敷きということになります。柱穴の配置によってこのことが確認出来ればよいのですが史跡として残すことになったため、石をはずして床面の下まで発掘することができませんでした。いずれかの時期に、じっくり調査することもあるかなと思っております。

 ともかく金生遺跡では後期の終わりから晩期の終わりまで、このような石で囲まれた住居が主体になっているのです。

(図6) 遺構の配置

(図7) 1号配石遺構(ブロック№は左から①②③④)

(図8) 敷石住居(12号住居)
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(図9) 周石住居の例(11号住居)
→次ページ参照

(図10) 入口がわかる周石住居(18号住居)
→次ページ参照

(図11) 1号配石③ブロック(石棒や丸石も見える)

(図14) 金生集落晩Ⅱ期のムラ

■註 7 その後圃場整備事業に伴う発掘調査は当該市町村が、国と県の補助金を
活用して発掘を行っている

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