International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・3』 新津健


配石遺構の発見

 もうひとつの金生遺跡の大きな特徴、それは先ほどもお話いたしました配石遺構ですね。配石遺構という言葉も難しい。石があれば何でも配石遺構かということですが金生遺跡の場合、ひとつにはお墓というものを中心にして、そこで祈りをした場所という機能を考えています。そのうちの一番メインになったものが「1号配石」という遺構です。図7にその平面図が示してありますが、他にも11、12図がこの1号配石のそれぞれの箇所なのです。11図には円形石組みと大型石棒とが写っています。直径一mくらいの円形に石が並んでいまして、真中の空間部に石棒が立っているのですが、この石棒は先ほど言いましたように発掘したときはここにゴロンと横になっていたものです。それを起こして写真を撮ったのです。この写真の背景には八ヶ岳が聳えていますが、石棒と八ヶ岳の間にも立石が一本みられます。

 ところでこの1号配石の全体像ですが、もう一度図7をごらんになってください。これによって1号配石の構造がだいたいわかります。まず尾根に対して横長になっているのですが、その横の長さは六〇mくらいあります。図の下が南で斜面の下の方に当たります。そして上に向っての幅は一〇mくらいあります。つまり一〇mの幅で六〇mの長さに尾根を横切って構築されているのです。南北の中央辺りに大きな石を背骨のように連続しながら置いてありまして、その手前の斜面の下の方が丸い石組み、上の方が四角っぽい石の配置というようになっています。図7にてペンで丸とか四角とかで囲んであるのがそれです。方形の配石など周石住居と同じような形で、四角に石が並んでいるのです。

 さらに12のような面白い石組も発見されました。位置としては図7にある②ブロックのペンで囲った左側の箇所がこれなのですが、まるで古墳の石室とか弥生時代の石棺みたいな感じで長方形に石が並んでいるのです。実はこの中から人骨が出土しています。但し人骨とは言っても、頭蓋骨の一部、骨盤の一部、手の一部、足の一部ということで体のそれぞれの部分が少しずつここに入っていたのです。しかもこれらは全部火を受けていた、つまり焼かれていたのです。ですからこの石棺状遺構には、焼いた身体のうちのそれぞれのパーツをここへ納めたのかなという感じですね。

 もともと石棺状遺構といいますのは、山梨では後期から広くみられるようになります。それは長さ一m五㎝から二mくらい、幅五〇㎝から八〇㎝くらいまで石をきれいに並べて造られていまして、船形の石棺みたいにきれいに整っています。石の蓋については、残されているものも少しはあるのですが、大方には見られません。青森を始めとして東北地方から関東・中部にはたくさんあります。後期の中頃以降、こういう石棺が非常に増えています。この石棺状の配石遺構とはいったい何なのでしょうか。生身の人間を本当に埋めた一次埋葬なのかなという感じもしますが、人骨が残っている例は非常に少ないようなのです。従っていったん埋葬したのを骨だけになったのを取り出して、別の場所に埋めなおすといった埋葬方法もあったのかとも考えられます。そうした場合、一旦埋葬を行う場所がこの石棺状の施設ということになるのかもしれません。金生遺跡の先ほどの例では焼けた人骨の破片が出土しておりますので、二次的な埋葬施設とも考えております。でも1号配石遺構の下面にも石棺状のものがいくつもあるようなのですが、これらが全て二次埋葬施設であるとは言い切れません。なぜならばこの1号配石遺構は後期の中頃からつくられ始め、晩期前半期まで機能していたことがわかっているからです。つまり長い期間この場所が石棺状遺構やそれに伴ういろいろな石組施設をつくる場所であったわけであり、少なくとも晩期には焼かれた骨が納められるようになったということでしょう。

 では、この配石遺構全体の用途は一体何であったのでしょうか。確かにひとつにはお墓だと、ただお墓だけども普通のお墓じゃなくて、やっぱり特定の人を埋葬してそこでお祈りするような場ではなかったかなと思うのです。大小の石棒もあるし丸石もあるし、土偶も非常に多いということから、墓を中心としてその祭りに使ったような施設がここにあったのかなというような感じがするわけであります。だからこそこういう石をいっぱい集めたのでしょう。で、ここで問題となるのはじゃ誰がこんなに石を集めたのかな、ということになります。図11からもわかるように、膨大な量ですよね。これだけ多くの石を金生の集落の人数だけで運ぶことができたのかな、という問題が生じます。例えば一番大きく発達した晩期前半のムラは七軒か八軒の住居から構成されていますが、それだけの人間だけで運ぶことができたのか。かなりこれは疑問に思います。この時期の八ヶ岳南麓の遺跡を見ますと、大きな遺跡の周辺には一、二軒の住居から成る小さなムラが分散するような傾向が見られるのです。このことから小さいながら複数のムラが集って金生遺跡の場でいろんな祈りや祭りをしたのではないかな、とも思うのです。八ヶ岳の南麓のムラが集る拠点となる集落だったのかなということです。そういう人たちの力によって石が集められたのではないでしょうか。これらの石の大半は金生遺跡周辺で採取することができる安山岩ですので、人数さえいれば集めてくるのもそう難しいことではないでしょう。

 ところがこの八ヶ岳山麓では産出しない花崗岩類も目立って使われているのです。例えば図11に写っている石棒の後ろ、ここに白っぽい大きな石が横になっているのがおわかりになりますか? これは花崗閃緑岩ですが図11には他にも円形石組の後ろに平たい大石がありますが、これらも石英閃緑岩等の花崗岩類なのです。これらの石、実は金生遺跡から最短で八㎞ほど西方にある釜無川という大きな川の河床にはゴロゴロしているのです。釜無川というのは富士川の上流にあたりますが、この川の右岸つまり西側が花崗岩地帯になります。どうもこのあたりから「白い石」を採集して来たと推測しております。

 話がちょっとズレます。皆様ご承知かと思いますが南アルプスという山地がこの一帯を構成しているのです。ここに甲斐駒ケ岳という名山があります。この山は花崗岩から形成されておりまして、この一帯を源流とする川は川底が真っ白なのです。花崗岩の砂なのですね。付近にサントリーのウイスキー工場があるのですが、その理由として花崗岩を抜けてきた清涼な水が豊富な土地ということのようです。やはり花崗岩と言うのがこの地域の特徴ということになるのです。

 この釜無川から八ヶ岳山麓に出るのには、河床から高さ数十mの崖を登ることになります。一旦山麓に上がればあとは比較的平坦な土地となります。でも尾根と谷とを何度も越える必要があります。そのルートを八㎞から一〇㎞たどって金生ムラに行きつくのです。最初どうやって運んだのかなと考えている時、ちょうど京都の金閣寺の前庭の発掘で修羅(しゅら)が発見され話題となりました。これをヒントに木造の橇の類で運んだのかなと思ったものです。でも今思うとそこまでしなくとも、担いで運べるのではないのかな、つまりモッコのような編み物と丸太があればよいのかもしれないのです。例えば金生の白い石でも長さが一・二mくらいですので重量一t近くありましても、それなりの丸太に吊り下げ何人かで担げないかな。その方が山道の通行は楽かもしれません。つまり橇やコロや丸太やモッコなど、何でも利用しながら大勢で取り掛かれば、大きな石でも金生ムラに運び込みができたのでしょう。いろいろなことを言いましたが、ここで言いたいことは金生に住んでいた人たちだけでなくどうも八ヶ岳の広域的なムラの人たちが共同の力によって石をここに運び上げたのか、そうしますと逆に金生遺跡の配石遺構の意味合いがそういう広域的ないわゆる拠点集落としての意味のある配石遺構ではなかったかということであります。

<b>縄文の道

先ほど金生遺跡に運ぶ花崗岩のルートについてお話致しましたので、ここでちょっと縄文集落と道についてすこしふれてみます。

 本来、集落にはいろんな道があったのではないかと考えております。まず典型的な例として千葉県船橋市にある高根木戸集落の模式図を図13に示しておきました。この遺跡は中期後半のものですが、中央が広場になっていてその広場を囲むかのように住居群が環状にめぐっている集落なのです。住居は全部で七〇軒ほどがあるのですが、実は完全に円形に並ぶというよりも、二つの弧が向き合っているような住居配列なのです。二つの弧の端のあたりが空間になっているのですが、実はその切れているところが集落に出入りする道ではないかと私は考えております。この空間部にそれぞれの弧の住居群に属す墓域があることも、集落に出入りするその箇所に祖先が埋葬され、ムラ人を護っているのかな、とも考えています。この集落は舌状台地という、細長く続く尾根からベロのように張り出した台地上に作られておりまして、ベロの先端の下はもう谷になっているのです。図13に示した「水場」とか「谷道」というのが低い部分に当たりまして、弧状集落の切れ目から下るとこの谷に降りられることになるのです。つまり谷に降りる通路がこの箇所にあったのではないかと思っています。この谷への道の反対側、つまり広場の先にはさらにひろく開けられた弧状集落の切れ目がありますが、この箇所が尾根道でありまして、他のムラに通ずる道路が延びていたのではないかと思っています。同時に食料や木材などを獲得する生産の場へも至る重要な道であったとも考えています。実際に発掘調査によって「道跡」が発見されたわけではないのですが、縄文のムラがあるわけですから道が存在したことは確実であったと思います。それは自分たちのテリトリー内での、今でいえば「野良道」「山道」「水場道」といったものとか、領域を越えて隣ムラに行く「村道」、少し遠くまで通ずる「県道」、さらに地域間を結ぶ「国道」などが網の目のようにあって日本列島全体の縄文世界が繋がっていたのではないかということを考えております。その中のムラ周辺の道について高根木戸遺跡をモデルに図示したのが図13ということになります。

 それと同じことを金生遺跡で考えますと、図14のようになります。この図は先ほど言いましたように晩期のⅡ期という、ムラの構成からは最もまとまった時期の様子です。この時期には一号配石といくつかの小配石群、それに住居などから構成されています。図の下が南、上が北ということになりますが、南から見ていきますと、まず一軒だけ住居がありまして、その北側は広い空間地をへだてて1号配石が横に広がっています。その後ろ側には等間隔に緩やかな弧を描きながら五軒程の住居が並んでいます。そして広場状の空間地があり、その北側には住居数軒と墓とみられる小さな配石群が見られます。この集落の最も重要な施設が1号配石でありまして、先にも話しましたように特定の墓を中心とした祈りの場と考えられるところなのです。この祈りの場は下から見上げられるかのように石が配列され積み重ねられていることから、南側の広場が大変重要になるのかなとも思っています。ここには土器捨て場があったり、黒曜石の小さな破片がいっぱいあったりしまして、やはりこの広場で周辺のムラから集まった大勢によって様々な祭りや祈りが催されたのではないでしょうか。

 この広場から1号配石を抜けて後ろの住居方面に行くには、配石の間を向けて行けばよい。実際1号配石はいくつかのブロックから構成されておりまして、図14の1号配石に①から④まで番号が付けてあるのがこれです。この②と③との間に空間がある。私はこの部分を通路と考えたのです。そしてこの住居群の北側にはまた広場があり、さらに小配石間を抜けると尾根への主要道に繋がっていく、そのようなことを考えてみたのです。さらに重要なのは、この集落の北側が浅い谷になっていることです。ここは水場であるとともにさまざまな生産の場、あるいは加工場として金生ムラにとって大変必要な場であったと思うのです。この北側の浅い谷のことについては次にお話ししますが、ここに通ずる道も当然あったことになります。そして石を運ぶルートについては先ほど「白い石」を運ぶ道のところでお話ししたとおりであります。

(図12) 1号配石②ブロックの石棺状遺構

(図13) 千葉県高根木戸集落の模式図

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