International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『縄文時代の信仰について・5』 菅田正昭


 レジュメに日本三大方言――本土方言、沖縄方言、八丈方言というふうに書きました。ちょっと誇張してます。で、八丈方言というのは言語学会における位置付けとしては、かつては明治から戦前までは関東方言の一変種だというふうに言われてきました。ただし一部の学者では所属不明の方言であるというふうに言われていました。そして、戦後の時期は、戦後も前期ですね、これは日本にはこれだけの方言がある――琉球方言、八丈方言、東部方言、西部方言、九州方言と言われていました。この東部方言の中にはいわゆる東北弁、――みんな今でも東北と九州がすごく離れてるから全然違うみたいな感じに思う人がいるわけですけども、東部方言――東北、関東、東海ぐらいまではほとんど、そう変わりない実はね。ただ地域によって口の開きが違うために音韻に変化があって、聞いた発音がちょっと違うというんで分かりにくいということはあるわけですけれど、基本的には東北、関東、東海というのは東部方言でひとつに括られちゃうわけです。西部方言というのは北陸、関西、四国、中国、これでひとつ。で、九州がひとつ。それが戦後の後期になりますと、琉球方言、八丈方言、東部方言、西部・九州方言という形になるわけです。東部方言はひとつ括りで残るんですが、西部方言、つまり北陸、関西、四国、中国、九州がひとつで西部・九州方言というふうに言われて、四大方言になってしまうわけです。そして、ついに今や本土は一括りにされつつあるわけです。それでも八丈方言と琉球方言は残ってるわけです。つまり、私はもともと島派なもので、こうじゃなきゃいけないというふうに思うんですけれど、島は二大方言で残ったものの、本土は基本的にひとつだという感じです。もちろん個々はいろいろあるわけです。

 言語学者は琉球方言というのは日本祖語――日本語の祖語、祖語だっていっぱいあるわけです、5000年前の縄文語が…。青森から鹿児島まで見たとしてもすごい距離があるわけですから、当時だって縄文時代においてすでに方言があったと思います。でも、すぐ理解できたでしょう。そういう日本祖語という形で、一括りにすると八丈方言は琉球方言より先に分かれたというふうに言われているわけです。沖縄方言というのは実はかなり後なので、そういう意味では八丈方言というのは非常に縄文的な要素が強いのではないかというふうに言われているわけです。まあ、私は偶然そういう所に住んだわけですけれど、八丈の持つ意味というのが実は非常に重要視されているんだと思います。しかも八丈では縄文土器も全島でいろいろ出ているわけです。ただ僕自身は個人的には八丈というのはミクロネシア系の影響が基底部部にはあるんじゃないか。こう言っては変なんですけれど、八丈の人は顔が違います。本土の人と明らかに顔が違います。まあ沖縄の人もヤマトゥとはと違います。八丈人はウチナンチュとも違う感じです。たぶんどこかで南太平洋的要素が、縄文以前にあったんだと思うんです。まあ、伊豆諸島では青ヶ島が一番最南端にあるんですが、もう少し先になると、小笠原になるわけです。小笠原というのはボニンアイランドというふうに言われていて、ボニンというのは無人島、巽無人島なわけです。巽無人島の無人島が訛ってボニンになって、それが英語でボニンアイランドになってるわけですけれど…。この小笠原にはミクロネシア系の無土器文化が発見されてます。だからたぶんその基層が八丈でも見つかっているんです。底辺では八丈にはそういうものがあるんではないかと思われます。ちなみに、話がボンと飛びますけれど、八丈ではカヌーのことをカノーというんです。青ヶ島でも船のことはカノーというんです。これが青ヶ島なんかでもそうなんですけど、台所のことをコック場というんですよね。これはクックから当然きているわけですけど、そういう事実もあることだから、実は小笠原の影響というのがあります。小笠原諸島には幕末の時には日本人は住んでなかったんです。住んでたのはナサニエル・セボレーを中心とした欧米系の人とカナカ人がいたわけです。カナカ人というのはこの辺もいろいろ問題があるんですけれど、ハワイの原住民、そういう人たちがやって来て、混血して、そこへ日本人が明治以降になって入ってくるという形です。カヌー文化もカノーもそのときに来たというふうに言われているんです。ところがどうもカノーという言葉が小笠原が無人島で欧米系島民、普通は欧米系島民と言うんですけど、東京都が美濃部都政の時から使っている用語だと「在来島民」と馬鹿なことを言ってます。「欧米系島民」と言うと差別語であると彼らは言うんで、官庁用語的には在来島民。在来系の人たちが小笠原(父島)に来る前の、完全無人島の時代にどうも八丈では船のことをカノーと呼んでいた。ということはカノーというのはもっと古い可能性があるわけです。そこで思い出すのは伊豆に狩野川という地名がある。狩野。この狩野川で、これは『古事記』にも『日本書紀』にも載ってますけれど、古代に伊豆の国から木を切り出して、それを献上して、2度、枯野(カラノ)――本来はルビ振ってないんです、これを普通はカラノというふうに訓読しているんです。枯野という船を非常に大きな、今の長さにすると30数mの刳り舟ですね。それを朝廷に献上した。一方淡路島に井戸がありまして、そこの井戸の水はきれいだというんで、そこから汲んで運んでたという記述がある。このタンカーが枯野なんですが、これをカノと読むことができます。この枯野は伊豆の国から産出したと書いてある。船の材料の原木ですね。だから当然ここの場所の可能性が強い。

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