International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『縄文人の霊魂観・2』 萩原秀三郎


 阜新市の台地にある遼寧省の査海遺跡から、玉器の一番古いものが出ました。六千年から四千五百年前の住居址、五十九軒があり、縄文土器に似た物も三百点くらい出ています。住居址の中、中央には石積みの龍が発見されて、墓地からは、玉玦(ぎょくけつ)も出た。この玉玦が一番発達したのは、上海近くの良渚文化です。これは紀元前三千年くらい前、今からおおよそ五千年前です。そういうものと日本の縄文の玦は、関係があると考えられます。

 獣型勾玉というのは、寺地だけではなくて、日本海文化のシンボル的存在であり、北陸のシンボル的存在としても知られています。それとはまた別に、九州では、コ字型勾玉というふうにいわれている。これを、かつて梅原末治さんは、中国の殷文化と結びつけました。しかし中国にはこういう勾玉はありませんし出てきていません。玉文化はありますが、勾玉は日本で作ったものだと思います。藤田富士夫さんは『縄文再発見』の中に、長江下流域で七千年前、河娒渡で出てくる玉玦がありますが、日本列島では、六千年くらい前、おおよそ中国で玦が流行りだしたと同時に、日本でも流行りました。ですので、玦状耳飾は関連があると言っているわけです。

 縄文時代の耳飾、耳栓、首飾り、腕輪、こういった装身具を考古学者の多くは、美への渇望と言っています。どれを見ても、おしゃれだと書いてある。縄文土器の美しさは空前絶後の素晴らしいものだと思いますが、全然それとは関係がない。美的感覚によってこういうものを作ったわけではありません。例えば髪を縄文時代に巻き上げているのも、これは江戸時代の女性の髪型と比べると双璧であると。社会が豊かになると女性は飾り立てると言っていますが、そんな現象が縄文時代にあるわけがないのです。

 少し話は変わりますが、雲南省に石林という観光地があります。そこに、イ族という民族がいてイ族の女の子が石林を案内してくれるのですが、彼らは既婚、未婚の区別をハッキリさせるために、髪型や帽子で区別しています。霊魂の出入りというのは、多く女陰からというのはもちろんありますが、頭のてっぺんから出入りするというのも多いのです。どの民族もそうですが、頭に手をやることを非常に嫌います。それは霊魂の出入りをする大切な場所を触れられたくないという観念です。イ族の女性の場合、未婚の女性は、男性から頭に手を触られるとその人の嫁にならなくてはいけないという伝承があります。そのときに案内してくれた女の子がそう言っていたので、一緒に行ったテレビのスタッフが触ろうとしたら、血相変えて逃げていったと。そのくらいですので、飾りということは絶対にありません。
ペー族の子どもは、一歳の誕生日に歳月帽という帽子を被ります。非常にカラフルな図案があって、それは全て呪術的な意味を持っています。それはもちろん、帽子というのは魂を保護するためのものです。あるいは頭に白い物を巻いたり、例えば神道でも仏教では、傘や天蓋がある。それは、みんな霊魂を保護するためのものです。これはもちろんどこへ行っても、東南アジアやインドでも、同じ霊魂観があるわけです。

 そして先ほどの、節々を固める飾りと言われている、首輪、耳輪、腕輪を、ミャオ族では命を守る保命圏、保命竹とも言います。これがないと命が保てないのです。それを無くすと、鬼がやってきて、魂を奪い取るといわれていて、シャーマンを呼んでいろんな儀礼を行います。そのときのシャーマンは鬼師(リンコウ)といいますが、地域によって呼び方は違います。ミャオ語で、ダッシュというと、落とす魂、魂が消えるという意味を持ちます。子どもが何かにつまずいて、うっかり魂を落とす、あるいはびっくりしたとき、魂が一時的に失神状態になる、そのときにシャーマンを呼んで招魂の儀礼を行なうわけです。いろんな事例があるのですが、最終的にシャーマンが行う儀礼の中で、葉の先にクモを見つけてきて、それをはけ壺の中に入れる、そうすると魂が戻ると。クモを魂とするのは、日本でも朝グモ夜グモなど、いろんな占いに使います。あるいは、お盆のときにチョウが入ってくると魂が戻ってくる、いろんな虫に魂を仮託する観念というのはどの民族も強いです。

 このように、魂が抜けて行けば病気になり(一時的に抜けたのが脱魂の場合)、完全に脱魂すれば魂のヌケガラとなり、死んでしまう。これを防ぐために、腕や足、胴、首などの体の節々、それから穴の開いているところ、目玉、鼻、九孔といいますけど、耳や女陰、孔の開いているところ全てに閂をかけなければいけないのです。それが、考古学者が言っている飾りなのです。(写真17)

 これは、体力のある年齢のとき、男性ははずしています。老人や子どもは、もちろん付けています。誕生祝でそれを貰って、体力があるときははずして、また歳をとってきたらそれを付けて、男も女もみんなやります。ですから、出たがる魂を閉じ込めるためには、輪に輪をかけてセーブする必要がある。年に何回か、特に六月の末と十二月の末に茅の輪潜りというのがあって(輪を潜る)、あれはみんなそうです。もとは腰に付けた小さなものですから。平安時代の茅の輪などもそうです。

そのシャーマンには男も女もいて、リンコウというのは男、フバ(巫婆)はお婆さんと書きますが、若い女性ももちろんいます。特に男性のシャーマンは公共の大きな儀礼を行なって、女性の場合は個々の個人の病気などに携わることが多いです。

 バイツウは白い棘と書きますが、樹肌が真っ白な木があって、その棘をあちこちいろんなところに立てて、あるいは白い紙をかけて魔を祓うということをやります。それと同時に赤を魔よけに使うことが非常に多いです。また、中国貴州省黔南あたりでは、ミャオ族が、竹の輪っか七つ繋げたものを門口に立てて、これを魔除けとして使っています。これは一種の魂結いです。魂を結わえ付ける、魂結い、それを意図しているものです。この他、鴨居のところにかけるのは、水牛の角であったり、魚を捕縛する網や鏡をかけたり、ありとあらゆる呪物を鬼払いの方法として行なっています。能登半島の真脇でも、いわゆる朱彩の遺物がたくさん出ています。もちろん玦状耳飾、耳栓、櫛、土偶、石塔、くり型木器など、全てベンガラ、朱で染まっていたということは、何も縄文人の色彩感覚で、赤と黒の対比だのそんなことは関係ない。ともかく呪物なのです。 

 例えば、身体装飾、お化粧をしたり、それから刺青にしても全部、ある意味手本になっているのは獣であったり、人間以外の強い物です。そういうものを真似たり、あるいは性的なアピールで、鳥の羽を頭につけると。あれも全部鳥の真似をしているわけです。そういうふうに、意味があってみんなやっていることを、縄文人は美的感覚でやっているというのは、絶対ありえません。

 それから、生育儀礼の中で大事なのは掛け橋、つまり橋をかけること。なぜかというと、橋の向こうに本来霊魂が居て、橋をかけることによってこちらに引き寄せると。前世と他界、あの世とこの世の間には川がある。それが障害となって魂がこちらに来られないので、例えば子どもが欲しいときには小川や堀などに橋をかける。また、それだけではなく、今度は家の中にも非常に象徴的な橋を埋め込みます。事例がありますが、一~二歳でバオミンヅォ(保命竹)といって、竹取物語のように竹を作ります。竹の中から子どもが生まれるでしょう。桃太郎でも、瓜子姫でも同じこと。竹を作って飾り立てる。保爺と書いてバオイェと言いますが、本当の父でない仮のお父さんが、子どもが生まれる前に願掛けで橋をかけます。最初に渡った男の人が義理のお父さんとなり、義父には、コメ一升、金一両を贈り、その他親戚たち、特に兄弟親族にもコメや銅銭などを贈ります。それらを元にして、子どもの腕輪や首輪を、銀や鉄、銅を素材にして作ってもらう。また、二月二日は敬橋節(けいきょうせつ)といって、橋に鍋を吊って食べ物を入れて、橋を通る人にいろんなものを食べさせるという儀礼をやります。このように、橋が霊魂の橋渡しをするということは、非常に重要なことです。また、作った指輪や首輪などは、全て十何歳頃まで着けます。その後ははずして、四十四歳に着けるというのがだいたいの決まりです。もちろんこの通りにはいきませんが、おおよその目安です。竹のことを、花の木、あるいはミャオ語でトウシャと言います。トウというのは木のことでシャというのは護るという意味です。腕輪はミャオ語そのままでいうとシュシャと言います。シュシャというのも護るという意味です。

 沖縄の八重山群島では、木から落ちたり、あるいは躓いて倒れたりすると体から魂が抜けるということで、転んだその場で小石を3個懐に入れて戻ってくると、魂が戻るというふうに言われています。石そのものが魂の象徴をする、これを忘れてしまうと病気になるわけです。その時は、魂呼ばい(たまよばい)の儀礼をやる。それは、かみつと言ってシャーマンを呼び、麻糸を撚って七つに結ばせて、魂を司る神、便所神にお線香上げます。撚り糸を神殿に供えて、魂を返してもらう祈願をするわけです。これをタマシイユールと呼びます。つまり魂縒り、魂結いです。沖縄では便所神のことをふるがみとか不淨神と言って、非常にセジ(霊力)高い神だというふうに言います。ふるがみがよく拝まれるのはマブイグミ、魂を込めるとき。そうするとふるがみというのは、魂をどこからか探してきてやる、というふうに信じられています。(写真10)

 本島の方では、産神(うぶがみ)です。山の神、厠神、箒神の全てが産の神、産神です。なぜかというと、霊魂との関係が深いのです。雪隠参り・便所参りをする風習がどこにでもあります。便所というのは井戸と同じように草葉の陰と言って、つまり霊魂というのは地下の霊界に生きるという感覚がある。八月遊びというのは八月の歌垣で、そのときは産井戸、あるいは死に水を取る井戸などの巡拝もあります。日本でも中国ミャオ族でも、子供の誕生儀礼は似ていて、生まれて三日目の便所参りや橋参り、井戸参りが行われます。

 例えば、私の住まいは千葉県市川市北国分ですが、便所参りのときは、赤ちゃんのオムツを頭に乗っけて、霊魂を保護して便所にお参りします。つまり赤ん坊というのは暗闇の冥界から顕界に、この世に現れている世界に入ってきても、日が浅いからあの世の者ともこの世の者ともつかない。だから保護しなくてはならないので、頭に物を載せたりする。魂は非常に不安定なんです。

 それから、生後百日目にお食い初めというのがあります。なぜお食い初めのとき、石を脇に置くのかというと、あれが魂なんです。つまり食べ物自体の高盛飯でもそうですが、食べ物は魂そのものです。なぜかというと、人が死んだら物を食べられない。食べればエネルギーが出て温かくなる。だから魂なんです。食べ物と魂は、非常に密接な関係があります。(写真20)

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■ 『縄文人の霊魂観・1』 萩原秀三郎


 縄文人の霊魂観というのは難しいですが、これはまず、人の遺骸をどのように扱ったかという墓地や墓標、こういうものから類推していくしかないと思っております。定住生活が確立してくる縄文前期になりますと、住居を環状、輪の形に配置して、その内部を墓地に、あるいは墓地を含む広場、いわゆる環状集落が成立します。そして、中期になると岩手県の西田遺跡のように非常に完成した形になるわけです。

 西田の場合は、二百基の墓が、径二十八メートルくらいの環状に放射状になっています。真ん中の方には長方形分の建物があって、竪穴住居がおよそ十四棟、さらにその外側に貯蔵穴があります。つまり墓地を中心にして集落が同心円状にあり、これは精神を読み取れる典型的な例だと思います。墓は八つに区域が分かれていて、集落を拓いた始祖たちの墓を最初に作った後、そこを中心にまわりに埋葬を続けていった結果、このようなものが出来上がったのではないかと。これは春成秀樹さんが、小学館の「古代史の論点」の中で述べています。

 中国の江南の少数民族の場合には、集落の中心にお墓はありませんが、広場があってそこに建物あるいは柱が認められます。つまり祭場が中心にある。ミャオ族の場合はそこで芦笙を吹いてお祭りをします。牛を殺したり、(写真2)供儀のための牛を繋ぐ柱でもあります。春・秋、春社、秋社というのがあり、お祭りは、その柱を中心にして行なわれるわけです。それから、トン族の場合、木鼓で作った太鼓を楼台に吊るし、その下で政治をしたり、お祭りをします。集落をみて、もし楼台が三つあれば、血縁的共同体が三つあるという事です。ミャオ族ですと一つが多いですが、血縁集団のグループが何個もある宗族もあります。また、祭場の建物は、一種のアイデンティティを求めている記念柱的な意味があります。その場合に行うお祭りは稲の祭りではありますが、あくまでも亡くなった人、死者へのアイデンティティへの確認の祖霊祭でもあるわけです。そういう意味で公共の広場は、縄文のお墓の広場と全く同じ性格を持っています。

 高取正男さんという、早くにお亡くなりになられた方なんですが、平凡社から『神道の成立』という本を出版されています。それによると、「死を恐れ、死の前に慎むのは人間に普遍の感情であって、淨穢、吉凶の対立概念を操作して死を厭う。そういうものを、死を忌むのは初歩的活動の所産として歴史的に形成されたものであった」と書いてある。この萌芽は記紀の中にも出て来ていますが、これが本格化したのは奈良時代の末であるという、いわば新しいという事をおっしゃっています。私もまったくその通りだと思います。死や異界を忌み嫌う、という感情を持ったのは、特に貴族の間に広まってきた。いわば庶民ではない都会で歴史的に形成されたものだと。ましてや、縄文人に遺体と同居している観念の中に死穢というものはないわけです。お産の意味など後からいろいろ出てきますが、狩猟民にしても、血の忌みというのは全くありません。

 縄文時代は、さきほどの西田遺跡方式や、三内丸山のようにお墓が列状で、一種の要から収斂していく形式があります。また、有名な多目的な祭場として中期から晩期にかけてできた、海沿いにある新潟県寺地遺跡があります。東南の隅に四本柱が建っていて、さらにその向こうに第一次葬の埋め墓があります。それに対して、東南側に積石環状列石、路上の配石があり、勾玉状の形をした遺跡があります。ここからは十一個体分の人焼骨が見つかっていて、人の骨を焼いた二次葬です。焼骨がある方が参り墓ですが、この第二次葬の方に意味があると思います。四本柱の積石遺抗群からは晩期の土器や、石棒などいろんなものが出ています。いずれにしても東南から西北にかけての軸が、聖なる軸であることは明らかです。

 この遺跡の全面には、標高十二~十五メートルの階段砂丘があり、この低地の集落を砂丘が守っている。ここは、強い季節風が吹く地域で、この遺構は西北の季節風と非常に関係が深いと考えられています。ここから、サメ、ツキノワグマ、ニホンジカ、イノシシなど、焼けた骨が出ており、それとは別にサメ一体分の焼骨、サメの椎骨(ついこつ)を加工した耳飾(・・)(‥をつけた理由は後ほど)等も見つかっています。

 さて、勾玉の形についてですが、縄文時代の勾玉の場合、弥生時代以降のものと違って頭部の全面に刻み込みがあります。寺地遺跡のものも典型的な古い勾玉の様相を示しています。一般的には獣形勾玉と言っています。田中基さんは、勾玉は人間の胎児の形になぞらえているとお考えですが、私はそうは思いません。『自然と文化』の中で、田中さんは、胎児と言っても初期のエラ状のものを想定して、エラにあたるとお書きになっています。

 新潟県青海町の辺りは翡翠の原産地としてよく知られています。翡翠の技術集団が勾玉を作っているだとか、その勾玉の形を模して、こういう積み石状の遺跡を作ったのではないかとか、それについては間違いではないと思います。ただ古墳時代の人物埴輪の勾玉を見てもいろんな勾玉があります。弥生でいえば、丁字頭勾玉や獣型勾玉、櫛形勾玉、子持勾玉などの種類が知られます。しかしこういうものの祖形は、縄文時代の牙や骨で作った飾り物(・・・)(かどうか)に求められると思います。
少し話を変えますが、シャーマンは今でも勾玉をつけています。沖縄にはニイガン、ノロといった神女がいて、その他にイタコのようなユタという民間のシャーマンがいます。もともと、神官的なものが本来のシャーマン的なものであって、途中から二系統に分かれて、神官的な祭祀を主にやるノロ系統と、イタコのようなユタ系統になったのだと思います。 

 沖縄の琉球王朝時代、聞得大君(きこえおおきみ)の統制下に、ピラミッド状に神女組織というのがあります。そのときに、チンベー=君南風という、琉球王朝時代三十三君と言われた人たちの中の一人で、久米島のノロ系統の司祭者がいました。いわゆる高級神官ですが、そういう人が未だにいます。
チンベーは、六月末日にお祭りをやります。このときには山から切って来たノシランという細長い葉をギザギザに折って、円形に組んで頭に被り、首から大きな勾玉を下げて司祭します。非常に神々しい雰囲気を持っていて、この人の配下には、いろんな神々がいます。

 一方、東北のイタコは、死霊を招くときに、弓とかオシラサマ、それから数珠というものを使います。これはつまり、霊力を高めるために使うわけで、例えばその「弟子上がり」といって、新しくイタコを受け継ぐ人にこれを渡す、三種の神器みたいなものです。また、イラタカの数珠といって、仏教の数珠とは違って、黒無垢の実を繋いで削る。数珠は二連のものもありますが、一連の場合はシカの角、牡鹿、それからイノシシの牙、全部オスです。クマ、鷹の爪、キツネの頭蓋骨などもあります。もう一連の方には、メスの角やメスキツネの下顎骨、あるいはメスのイノシシの牙など、いろいろつけます。いわゆる山伏のイラタカの数珠に繋がるものと考えられています。しかし、こういうものは手に持つもので、首に掛けるものではありません。全て宗教的な霊力を高めるためのものです。獣や猛禽の牙、角や爪を用いるというのは、そういう意図があるわけです。ですから、それらを持って最初に勾玉を作ったと、それを模して今度は玉にして、玉の勾玉が出来る。本来そういう祓いの意図のある、呪力のある呪物であるわけです。

 いずれにしても、勾玉は一個ではなくて五百玉で出来たものです。これは、田中基さんの解釈では説明がつかないと思います。田中さんが、胎児の形にこだわったのは霊魂観を考えたからです。日本書紀の一書に、ワニの姿を勾玉の形に重ね始めていたのではないかとあります。さらに、サメの始祖神でもあった可能性があると、田中さんはおっしゃっていますが、着想が非常に面白い。なぜかというと、海の彼方から季節的に回遊してくる動物を、サメが連れてくることがあると、特に縄文時代は、日本海のサメ漁のルートを重要視していたわけです。それに対して彼は、トーテム的な祖霊を想定しました。中国の古代、長江流域では、ウナギ、ヘビ、サメなどのトーテムは非常に多い。最も、動物トーテムだけではなく、古代においては太陽や月や星もみな、祖霊的、トーテムです。肥後和男さんが、『新撰姓氏録』を使って氏氏の祖先を洗い出していくと、結びの神とするものと、火の神が半々であるといっています。また、アマツヒツなどと言いますが、アマツ日継というのは太陽霊を継いでいるというのでしょう。天皇に限らないわけです。祖先は太陽だと言っていたようなもので、その前は動物であることが多かったのです(『新嘗の研究』)。こういった自然現象も、明らかにトーテム的な意図で引き継いでいるというのがあります。勾玉の場合、おそらく最初は骨や牙で、そこから玉に変わったんだろうと考えられます。玉を尊ぶことは、明らかに中国の玉文化が背景にあると思います。玦状耳飾にも、すごく立派な玉があります。

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■ 『日月を放つ縄文の巨木柱列・7』 萩原秀三郎


(写真15)
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オロチョン・三角テント。大興安嶺近くのオロチョンの儀礼。大興安嶺といっても満州族がねずみの山だとバカにしてる。全然低いんです。汽車で行っても、高い山は見えたことが無い。どこに山があるのかわからない。なんとなく高くなって、なんとなく降りて、そこに川は流れ、オロチョンも川のほとりで儀礼をやる。テントの真ん中にあるのが中心の柱で、梯子状になっている。本当はもっと大きなテントでしたが、テントの皮がないんです。

(写真16)
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テントの中です。

こういうふうに真ん中にミニ宇宙樹があって、太陽や月や鷹が止まってますね。いろんな神様が置いてある。これ柳の木なんですけどね。こういうふうにクリスマスツリーみたいに、太陽も木も、梢の先からぱっぱっと出ていってたんですよ。地下から入ってきてね。


(写真17)
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鳥がシャーマンの両肩に、止まっていて、これは回転するようになっています。で、神霊が憑依すると、小鳥が今何の霊が憑きましたよと教えてくれる。口ヘンに隹(とり)と書いて、「ゆい」と読みますよね。唯々諾々、鳥の言う事は素直に聞くものだと、唯々諾々(イイダクダク)。江戸時代になると、なに御託(ゴタク)並べやがってと、御託というのは託宣のことですね。だんだん権威が落ちてくるわけです。本来はちゃんと神託は素直に聞くべきものなんです。

(写真18)
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これは百鳥(ひゃくちょう)といって、柱の先に鳥がいっぱい止まっている。キツネとかオオカミとか、守護霊がいろいろあるんですよ。ダフール族のシャーマンによってね。動物霊が多いですね。



(写真19)
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社というのは柱が中心になるんですけど、その場合、2通り考えられると思いますね。天地神明造り、いわゆる伊勢神宮、それから出雲大社。もともと神霊が宿る所は、臨時に宿る山とか依り代とかそういうものが考えられたけども、本殿を作るようになったのは、神明造りと出雲大社の大社作りですね。だけど神明造りの場合は、穂倉といって、稲の穂をお祭りしたのが中心で、神社が成立したといわれてますね。出雲大社の場合は、大国主とスセリヒメの婚姻が行なわれて、新居として建てられたと日本書紀に出て来るもんだから、神の宮居というか、寝殿が原型になったというふうにいわれてます。だけどそんなことはないですね。出雲でいろいろ調べてみても、本当は柱からはじまってヤシロの原型は穂倉なんです。写真は福島県棚倉町箕輪の穂倉で、神明造りふうの平入りですね。

 古代においては、妻入りが多い。あそれは、妻がころんで出ていると、雨にかからないもんだから、こっちから出入りする。平入りなのはその後の段階ですね。平入りの穂倉の形をとっている。毎年じゃなくて、4年にいっぺん点点と移動して行なわれて、新しく立替ながら行なわれているものが、お桝明神(お桝小屋)というものです。今穂倉じゃなくて、穂を入れた、桝。それをお祭りしてるのはこういう形の神社の原型みたいなものです。(終)

萩原秀三郎
民俗学者

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■ 『日月を放つ縄文の巨木柱列・6』 萩原秀三郎


(写真11) 
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西海岸。石の上に鳥。

これは、三星堆の宇宙樹ですが、こういう宇宙軸の思想というのは、大林さんにしても、上田さんにしてもみんなヨーロッパからやってきたといったんですよ。ところが三星堆はヨーロッパからやってくる前、つまりスキタイが活躍するのが前何世紀ですね。それより前に三星堆にちゃんと宇宙樹があるんで、全然今までの考え方というのが通らない。スキタイの騎馬民族がシャーマンの杖の先に鳥が止まって、音が出るように鈴になっているんです。こういうものがスキタイ騎馬民族が運んできたんだと。宇宙樹の原型になるようなものを。それで中国の東北部のシャーマンに広まったんだというのが従来の説なんです。でも全然あてはまらない。中国には古くからあるんです。

(写真12)
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エヴンキの背中絵、神木2本、太陽、月、星、虹、竜。天と地を繋ぐものです。宇宙樹がありますが、宇宙樹は2本である場合が結構多いです。それはなぜかというと、梯状にして、昇ったり降りたりするからですね。このまわりをシャーマンがタイコを叩いて舞って、交信するわけです。先ほど言ったように本来神霊は降りてきて、降りてきた神霊が連れていくというのがパターンです。

(写真13)
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シャーマンが儀礼をする中心の場所です。アンテナが何本もあります。太陽の力が真東で昇ったときは弱いけど、東南に来ると非常に強くなる、一番元気がいい。その太陽をキャッチする柱があって、神道(カミミチ)があり、中心へ向かっているんです。円形幕舎が本当ですが、中が見えないからとわざわざ三角テントにしてくれた。真ん中の宇宙樹は2本、これ梯子状に横桟がある。こういうふうにシャーマンが2人以上いないと大きな祭りはできないんです。

(写真14)
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同じ場所で回って回り返すことをやるのが内モンゴルです。シャーマンの儀礼なんですが、鏡をいっぱいつけてるのは太陽ですね。回って回って回り返す。本当にご苦労さんというように、よたよたしてるものだから、「その辺でいいんじゃないか」といったらとんでもないと言われました。だいたい鏡は30㎏以上ありましたね。

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■ 『日月を放つ縄文の巨木柱列・5』 萩原秀三郎


日月を放つ縄文の巨木柱列⑤

(写真6)<楓香樹>
柱の楓香樹が血族を表す。ひとつの血縁集団が、まとまりで、個人の祖霊という、個人の意識というのはあまりないですね。楓香樹から、始祖、民族の始めの祖先は生まれるというふうに考えられている。

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(写真7)
これは、トン族の集落ですけど、トン族の場合は血縁集団ごとに塔を建てます。これは4つ見えますね。4つ見えたら4血縁集団がいるということ。だからおそらく縄文時代の柱が建つ所はそこにひとつの血縁集団がいたというふうに考えていいと思います。塔の中の中心の太鼓に祖先をお祀りしてるんです。この下で長老会議が行われる。つまり合議制。

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(写真8)
ベトナムの高地民の場合は、長老制で合議制なんですけども、若者は若者宿を作って、柱を建てて、これを中心にして牛を殺して首を供える、あるいは模擬戦、戦争やります。それで勝ったものが長老に選ばれる。だから弥生でもいろいろ模擬戦があるけども、みんなお祭りだと思います。実際に戦争などやりません。だから、実戦用のものは出て来ないです。木製の剣であったり、あるいは単なる石つぶてであったり。

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(写真9)
人が亡くなると、1~2年でお墓を放棄してしまう。そのときに重大なお祭りがあって、このような宇宙観を表す建物を建てるんです。この下に遺体が埋まっていて、お酒を注ぐ竹が刺さっているんですけど、鳥がいて星があって、全体が世界を表しています。人が亡くなるときに世界、宇宙というものを体現するというか、しみじみと思うみたいです。なぜ人の死が宇宙と関係してるかといえば、亡くなった人を前にして祖先との系譜ですね。

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(写真10)
韓国の東海岸。鳥が三羽止まっいて、西北、乾を向いているんです。これは風難、火難、水難の3つの難を除けるために見張りを立てている。つまり西北の方から風が吹いてきて、いつもそれをいち早く察知するのは鳥だからというわけですが、いずれにしても、西北です。なぜ西北かというと、北半球でも南半球でもそうですけど、高緯度の地帯は、北西風偏西風が吹いてますね。天気予報を見てるとわかりますよね。雲がずっと流れてて、ああ、あっちから流れてるなと。つまり季節が変わる、それは死霊がそっちからやってくるということでもあるし、神霊がそっちからやってくるということでもあるし、つまり自然の変転をまず西北からの方位で、察知するんです。西海岸で、この先はどこかって聞いたら中国の山東省だと言ったけど、殷の時代、死霊は西北の隅から去来するっていうふうなことでもあります。

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