International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『縄文人の海と幸』釼持輝久


 横須賀市夏島にある縄文時代早期の夏島貝塚は、日本列島の中でも最も古い(約9500年前)貝塚で、砂泥の干潟に生息するマガキとハイガイを主とした第1海層からは、魚類ではクロダイが最も多く、次いでマゴチ・スズキ・ハモが多く出土している。漁撈具としては骨類の長さ2.5cmの釣針とその未製品が出土している。すでにこの時期に釣針を使った漁撈技術が出来ていたということである。
 夏島貝塚でも第一貝層より少し新しい第二貝層は、砂地の海岸に生息するハマグリやアサリを主としたものになり、海の環境が変化していったことが窺える。釣針も鹿角製で、釣糸掛用の突起のあるものや大型の釣針が出現するなど、漁撈の多様化が認められる。
 横須賀市吉井にある吉井貝塚は、マガキやハイガイを主食とする早期末の貝層と、岩礁海岸に生息するスガイやイシダタミを主とする中期後半の貝層がある。
 早期末の貝層は厚さが2mもあり、出土した魚骨の種類・量とも豊富で、なかでもマダイが最も多く魚全体の52%を占め、次いでボラ・クロダイ・ブリ・スズキと続く。マダイの体調は35~50cmのものが75%を占め、他の魚も大き目のものが多い。ところがこれらの魚は、時期が新しくなるにしたがって小型化する。マダイで中期の貝層から出土したものは、30~40cmのものが中心となる。
 漁撈具も、数多く出土している。最も多いのが鹿の角や四肢骨などで作ったヤス先と釣針である。釣針は大型と小型のものがあり、大型のものは軸が太く長さが6cmにもなる。体調が60cmを超えるブリやマダイが多く出土していることから当然ともいえる。
 ヤスはヤス先が1本のものと共に、この時期にペン先形をしたヤス先を2・3本組み合わせたものがある。また、出土したスズキの厚い鰓蓋骨の中には、ヤスで突いた痕が残るものも出土している。
 三浦半島の縄文時代早期の貝塚の厚い貝層や出土した動物遺体を見ると豊かな海の幸に恵まれていたように思える。しかし、横須賀市若松町の平坂貝塚から出土した人骨に残された、11本の飢餓線や変形関節症の痕などから、不安定な厳しい生活であったことが窺える。
 夏島貝塚や・平坂貝塚は「水産日本」原点とも言うべき遺跡である。貝塚を調べることによって、現在、日本の水産業が抱える問題を考えるヒントがあるようにも思える。
 

■ 大森貝塚発掘138周年記念講演『縄文人の海の幸』より

平成27年9月12日(土)
主催:東京都大森貝塚保存会
共催:NPO国際縄文学協会 / (社)大森倶楽部
https://www.jomon.or.jp/archives/110.html

  • 2016年02月10日(水) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・6』 新津健


<最終回>

イノシシ飼育の問題③

 この意味は山の幸への感謝といわれております。図20のまつりの行程③の「銀鏡神社大祭・イノシシのまつり」に整理してありますが、奉納されたイノシシの頭、それがオニエですが、神楽の一番最後に「ししとぎり」という祭りが行なわれます。この「ししとぎり」という祭りは、三三番行われる最後の神楽になるのですが、三二番まで終わった段階で神楽の舞台が全部片付けられまして、周りを囲んでいたヒモロギ~葉のついた木々の枝なのですが、それを全部崩して山のようにする。そこにイノシシのモデルになるものを隠しまして男の神様と女の神様が二人で出てきて、トギリをするわけです。トギリというのは猟師の言葉で足跡によって獲物の大きさとかいつ頃通ったとか、どこにいるとかそれを予測することです。シシトギリということですから、イノシシを探すやり方なのです。その祭りを二人の神様が演じて最後見事イノシシを仕留めて引き上げるというわけなのですが、その祭りは豊猟祈願というふうに言われております。神楽自体は農耕社会の、いわゆる豊作を願う祭りです。その中にイノシシの豊猟を願う祈りまで入っているという、狩猟社会と農耕社会の混在した形がここに残っているということなのです。ところでお供えされていたイノシシの頭はどうするのかというと、シシトギリが終わった後、一匹を除いて全部解体して食べてしまいます。直会(なおらい)で食べる。そのときに我々見学者にも振舞ってくれるのです。ところで猟師さんがイノシシの頭を解体するところを見せていただいたのですが、素早い。手際が実によいのです。まず火で剛毛を焼くと、やっぱり黒いブタのように見えます。その下顎に猟師さん、ナイフをぐーと差し込んで、そして両側へ剥ぐようにナイフをもぐらしていくのです。本当に顔面の皮をむきとっていくような感じです。そして剥ぎ取った皮付きの肉を細かく切って、あるものは神棚に上げて、残りはさらに細かく切って雑炊に炊き込むのです。これをシシズーシというのですが、これがほんとうにおいしい。こうして料理してしまうのですが、一頭は残しておくのです。その残した一頭は翌一六日の朝早くから「ししば祭り」に使う。近くを銀鏡川(しろみがわ)が流れているのですが、その河原で火を燃しそして一頭のイノシシを焼いてそこで供養をするわけです。供養をした後集った我々見学者も一緒になって、そのイノシシの肉を切って串刺しにし、塩を振りかけながら焚き火で焼き、焼酎を飲みながら頂戴するのです。イノシシへの感謝という気持ちが湧いてくる祭りです。図19はししば祭りにて河原でイノシシの頭を焼いている様子です。こういうふうな作法が実際にちゃんと残っています。先に鉤がある木の棒にイノシシを吊るして焼いていますが、三脚のように組んである下の木をホタギと言いまして、これもちゃんとした作法があるのです。さらにここで使ったホタギは燃さずに、祭りをするところに大石があるのですが、その石の脇において来年の薪に使うということも窺いました。ししば祭りの意味についても、図20の③に示したように鎮魂、要するにイノシシの魂を鎮めるために行なうのだそうです。シシトギリの祭りでは豊猟を祈願して、ししば祭りで魂を鎮めるというのです。なお、最後に猟師さんから聞いたのですが、食べた後の骨は裏の山に埋めるそうです。いつ埋めるか、どこに埋めるかはその担当でないとわからないということで、これだけの祭りをやった後、骨はちゃんと山へ返すというような、温かい心構えというか作法でやります。こういうふうな民俗例をそのまま考古学の世界へ持って行くということはとても出来ませんが、ひとつの参考にはできると思うのです。例えば最後に骨を埋めるということになりますと、金生遺跡での穴の中に埋まっていた焼かれたイノシシの骨というのは、実はそこに至るまでにイノシシを用いたなんらかの祭りの最後の段階を表しているのではないかということなのです。銀鏡の場合は神楽・お供え・ししば祭りという流れがあるわけで、それと同じようないくつもの段階が縄文時代にもあったのではないかと考えたのが図20の①という模式なのです。これを簡単に説明すると、まずイノシシを捕まえるのが1、次に体から頭を切り離しますが、頭が分離した状態の2になって以後、祭りが繰り返されながら解体が進んだり焼かれたりして、最後は埋納されるといった流れなのです。焼いたものを埋めたのが金生遺跡の例ですが、焼かれていない個体も貝塚地帯ではずいぶん出土します。例えば福島県の大畑貝塚とか岩手県の宮野貝塚などでは火を受けていないイノシシの下顎骨がみられます。焼かなくても祭りの後の奉納があるのかな、と思うわけです。図の中にある12の段階ですが、頭を取ってしまった身体の方についても、最後に埋葬されている例もある。千葉市の加曾利貝塚とか、市川市の向台貝塚からはイノシシの幼獣の頭がなくて、体だけが埋葬されたように穴の中から発見された事例もあります。そうすると、頭は頭で別に使って、体は体で別の祭りに使ったのかなというようにも考えられるのです。さらに食用にした場合も多かったと思いますが、その後も図の15番以降のようにいろいろな行為があったのかなとも考えております。最後に20番目に「撒く」というのがありますが、19の砕くといった行為とともに撒くという状況は縄文時代中期以降、後期晩期には特に多く見られるのです。後期や晩期の遺跡を掘りますと、土層全体から細かく焼けた獣の骨がいっぱい出土します。特に土を篩いにかけると細かくなった焼けた骨がたくさん見つかるのです。やはりイノシシを食べた、あるいはお祈りをした後に焼いて細かくしたものを地面に撒くことによって、それら動物がよみがえるといったような思想があったのかもしれません。このような推測は民俗例も含めた中で考えることが大切ではないかとも思っています。

金生遺跡の意義

 以上、いろいろなテーマを入れてしまい、まとまりがなくなってしまいました。本当に最後になりますが、ここで金生遺跡の意義というのをまとめてみます。

 まず、縄文時代後期・晩期のまとまった住居と、それから非常に集団性を表すような、ある意味では宗教的な色彩の濃い大規模な配石遺構が一体となって発見されたところに意義があると思うのです。全国的にも珍しいというか貴重な組み合わせということで史跡に指定されということです。配石遺構の機能とかそれを支えた集団のあり方など、これから解決すべき課題もたくさん残っていますが、これらが現地にそのまま残されているということは大変良かったと思います。なおこの時代の祭祀や生業を考える上で、イノシシのデータは大変重要かとおもっております。縄文人にとってのイノシシの役割や、祭祀のあり方、さらには飼育や栽培の問題にまで発展するからです。

 また、今回ふれることができませんでしたが、山梨における後期や晩期の文化が実は多方面からの影響というか接触で形成されていたことが、金生遺跡から出土した土器からわかってきたことも、大きな成果であったと思っています。図21に「さまざまな地域の土器」という図があります。山梨県というのは内陸部にあるのですが、東日本各地の特徴を持った土器が出土しております。特に1から6は東北地方の影響ある土器、18から20は北陸地方の特徴がみられる土器、それから13から17などは東海地方でも特に静岡東部から愛知、三重辺りの色が濃い土器なのです。一方では7、8、9といった関東の土器もみられますし、10、11、12というのは山梨の郡内を中心として広がっている土器なのです。でも意外なことに、関東からの直接の影響が少ないようにも思われます。むしろ東北とか北陸方面のものが長野とか群馬をワンクッションして入ってくる。あるいは静岡を経由して入ってくるような感もあるのです。今でこそ中央線とか中央道で関東との結びつきが強いのですが、当時は少し事情が異なっていた、あるいは縄文ルートの特異性があったのかもしれません。もちろん長い縄文時代のなかでの一つの現象なのかもしれません。

 なお、金生遺跡中空土偶の系譜、この土偶は金生遺跡を代表する一つですが、これにもふれておきます。図22の右下の13がこの中空土偶です。全国的にもきわめて類例が少ない土偶でして、その系譜をたどってみたのが図22なのです。晩期の終末に近い時期の土偶ですが、この源流は東北地方の遮光器土偶にたどれるというのが私の見解なのです。例としてあげたのが、図の左上1番のような土偶が各地に広まって、山梨にまで辿り着いたときにはこういうふうな異様な形になっていたのです。ご承知のように遮光器土偶というのは亀ヶ岡文化を代表するものですが、その縁辺部、例えば右の一番上の群馬県板倉遺跡の土偶(9)になると本来の遮光器土偶が大分変形してくるのです。このようなものから、8や10、11などを経て13へと展開する可能性考えたのです。このような土器や土偶ばかりでなく、金生の地にて晩期集落が形成された背景には、奥深い文化の流れやあったのです。金生遺跡が抱えている問題は、まだまだ多いのですが、今回はその一端について、想像も交えながらお話しさせていただきました。ありがとうございました。(終)

(図19) 宮崎県西都市銀鏡大祭ししば祭りの猪
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(図20) まつりの行程(①縄文時代の例 ②銀鏡神社大祭 ③同 猪のまつりの意味
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(図21) 金生遺跡から出土したさまざまな地域の特徴を持った土器
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(図22) 金生遺跡出土中空土偶の系譜
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■図の出典

図1、15 大泉村教育委員会『史跡金生遺跡』

図2~4、6~12 山梨県教育委員会一九八九 『金生遺跡』Ⅰ

図13、14 新津「縄文集落と道」

図16 新津「八ヶ岳山麓における縄文後晩期集落の動態」

図17 各報告書より(①山梨県教育委員会一九九四『天神遺跡』 ②山梨県教育委員会一九七八『安道寺遺跡調査報告』 ③山梨県教育委員会一九八九『金生遺跡』Ⅰからトレース ④(財)市原市文化財センター一九九五『市原市能満上小貝塚』 ⑤山梨県教育委員会一九八七『上の平遺跡』 ⑥上川名昭一九七一『甲斐北原・柳田遺跡の研究』 ⑦西桂町教育委員会一九九三『宮の前遺跡発掘調査報告書』

図5、18~22 筆者撮影、作成

新津 健
元山梨県埋蔵文化財センター所長

  • 2014年11月02日(日) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・5』 新津健


イノシシ飼育の問題②

 ところで金子先生の鑑定によりますと、出土した下顎からの歯の生え具合からみて、生後六ヵ月から七ヵ月ということです。生まれたのが五月とすると、一一月から一二月に命が絶たれた、つまり死んだことになります。この死んだ原因が祭りに伴って殺された、あるいは犠牲に捧げられたとするとその祭りは晩秋から初冬という時期におこなわれたことになります。一一月というのは今では狩猟が始まる時期、一二月は一年で一番日が短くなる冬至の頃でもあります。こういう時期の祭りっていったいなんだろう。ひとつには狩猟の祭祀なのかな、あるいは日が短くなった時の季節に関わる祭りなのかな、などいろいろと考えさせられます(註9)。

 飼育問題については機会を改めてお話ししたいのですが、いずれにしましても縄文人とイノシシとは大変関係がありそうなのです。最後にそのあたりについてふれておきます。

 図17にイノシシに関する事例をいくつか挙げてあります。縄文時代にイノシシの造形が始まるのは縄文前期後半の諸磯b式土器の時期なのです。図17の1がその例のひとつです。これは山梨県天神遺跡から出土した深鉢形土器の口縁部に付けられたイノシシ装飾です。よく獣面把手とか獣面装飾とかいわれますが、イノシシの顔が表現されたものです。特に群馬辺りの遺跡にいきますとイノシシがもっとリアルについたのがいっぱい出てきます。縄文時代人がイノシシ装飾を最初に土器に付けたのが縄文前期なのです。その前期の諸磯式という時期はどういう時期かというと、この時期になって集落が非常に大きくなってきます。と同時にその周りに点々と小さなムラがみられる。例えば天神遺跡の場合は大規模な環状集落で四〇件くらいの住居があるのですが、その周りには一〇軒くらいの中規模なムラがあったり、一軒しかない小さなムラがあったり、また土器だけしか出ないような遺跡もある。つまり拠点的な集落を中心に、いくつかのムラがその周辺に点在するような土地利用が行なわれているのが、この前期後半という時期なのです。このことは山麓の広い範囲に人の行動が及んで行ったことを意味するのではないか。そうするとイノシシとも出会う。出会いがあるということはイノシシにとっても被害があるし、人間にとっても被害がある。お互いにいろんな軋轢がある。そういうところでイノシシというものが縄文人の意識の中に植え付けられて、悪者になったり神様になったりするようになる。その意識の一つが土器の装飾となって造形されたのではないかと思っています。後で述べますが、私はイノシシの多産や力強さといった特徴が縄文人の祈りの対象となっていったものと考えているのです。例えば図17の3や5~7、これらは縄文時代の中期のイノシシ造形です。先ほどの天神遺跡のような前期後半のイノシシは短い間しか作られず、その後すたれてしまいます。そして中期初頭になってまた出現するようになって、中頃になりますとまた盛んになる。特に3は大変リアルで立体的なイノシシの顔が土器に付けられている。山梨県の塩山市安道寺遺跡(註10)の出土品です。5は上の平遺跡の土器ですが、口縁の上に蛇とイノシシが向かい合っている造形です。土器の奥に渦巻きながら立ち上がっているのがヘビ、手前にあるカエルが潰れたようなもの、実はこれがイノシシなのです。本当は側面からみるとよく分かるのですが、深鉢形土器の縁につく二つの装飾の片方がヘビ、片方がイノシシであり、それが相対峙して睨み合っているという造形なのです。このようなモチーフも縄文中期の特徴です。

(図17)イノシシ造形
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ヘビとイノシシとはともに縄文人が大切にした造形であり、そこには縄文神話というか物語と言うか、大変重要な問題が隠されているようなのです。機会があればこの辺の話をしてみたいなあと思いますが、この辺は田中基さんがご専門ですね。なお、蛇とイノシシの関係については民俗例からも紹介されている事例があります。例えば伊那谷でのことが松山義雄さんによって法政大学出版局から出版されています。伊那谷の猟師さんの話ですが、イノシシが増えてくるとマムシが減るそうですね。イノシシは雑食性ですが、特にヘビ、それもマムシが大好物だそうです。マムシと出会うとイノシシが鼻でブーッと息をかける。するとマムシはビックリして止まってしまう。そこをバーンと踏みつけて喰っちゃう。そのよう自然界のことが書かれているのです。また、猟師さんがイノシシの牙を腰に付けて行くとマムシに襲われないというような伝承もあるくらい、イノシシはマムシの天敵だとのことです。

 上の平遺跡の土器に対峙しているのは、別に天敵同士ということよりも、縄文人が抱いたヘビとイノシシというイメージの表現かと考えております。例えば山梨県立考古博物館の館長に今年から就任しました渡辺誠さん(註11)は、イノシシというのは女性の原理に基づく多産を表しヘビは男性を表すと指摘しています。ヘビとイノシシつまり男性と女性が向き合う、つまり両者の和合によってその土器の中の生命が育っていくのだという考え方でもあります。同じ考古博物館の小野正文学芸課長(註12)は、イノシシとヘビというのは食べ物の起源及び種の起源に関する神様でして、それらの2つの神様が土器に宿ることによって豊富な食べ物が得られるというようにとらえています。

 次に図17の6と7です。これは中期独特の釣手土器という縄文人のランプですが、これらにもイノシシやヘビが付きます。6は甲州市塩山にある北原遺跡の釣手土器ですが、アーチの上にイノシシが三匹おります。左側の図が正面からみたものでブタ鼻が三つ揃っています。右側が側面からみた図でして、可愛らしい感じのイノシシがしっぽをぴょこんと立てた造形です。7の西桂町宮の前遺跡例では、イノシシは相当に象徴化されてしまっていて、正面から見ると大きな円で表現されています。でもアーチの中央高所に大きな親イノシシ、その両側に二匹ずつ計四匹に子イノシシが並んでいる様子かと思われます。

 図の4は晩期のイノシシ土製品、つまり土で作ったイノシシの「人形」ということになります。このようなイノシシをかたどった土製品が、後期以降晩期までつくられるようになります。地域的には北海道南部から中国地方までみられますが、やはり東北や関東に多いようです。もっとも中期前半という早い時期にも中部から関東ではつくられています。イノシシへの祈りが、このような製品を生み出したのでしょう。
 
 ということで、縄文時代の前期以降晩期までイノシシの造形は縄文人の得意とする、あるいは必要とするものであったのかなという感じがします。では弥生時代にはイノシシはどのようなとらえかたがされていたのでしょうか。この時代、銅鐸には犬に追われたイノシシとか、シカとともに描かれることはありますが、土器にイノシシが付くとか土製品が多く見られるというようなことはあまりないようです。しかしイノシシ類とされる動物の下顎の骨が特徴的な出土状態を示す事例が知られています。佐賀県唐津の菜畑遺跡、これはイノシシというか、西本豊弘先生などは形質的にはブタとみられていることからイノシシ類と表現されているものですが、その下顎のちょうど頤のところに三㎝から四㎝の穴を開けてありましてそれに棒が通っているものです。棒によって何かに懸け下げられていたものとみられています。岡山県南方済生会遺跡の下顎配列もイノシシ類の下顎骨が一二個並べられ、そして真ん中辺りにシカの頭が置いてあります。下顎骨にはやはり穴が開けられている。ただこれは棒が通ってないことから、置いた際に棒をそうっと抜いたんじゃないかなどとも言われております。このような弥生の例は春成秀爾先生とか西本先生は、中国大陸から伝わってきた祭祀の一つであって、東アジア全体に共通する文化の流れだとおっしゃっています。特に春成先生は、中国や台湾あるいは東南アジアに行きますと家にかけていると。要するにお守りです。厄除け、悪魔よけという意味からだとおっしゃっているのですが、西本先生は中国から伝わってきた農耕文化の祭りに伴うものだと言われております。縄文時代とは異なった意味があるようでして、その辺については今後の課題だと思いますが、弥生時代にもこういうふうなイノシシあるいはブタを使った祭りの痕跡が出てくるわけです。

 それで実は私も、縄文や弥生のイノシシの祭りということに大変興味を持っていたところ、宮崎県西都市の銀鏡(しろみ)地区というところでイノシシに関わった神楽があるということでおととしのことですが、いろいろと見学させていただきました。国指定の民俗文化財にもなっている、大変魅力ある祭りです。機会があったらどうぞ行ってみてください。宮崎空港から二時間半くらいバスに乗るのですけども、西都市に入ってさらに一時間ちょっとバスに揺られていくことになります。神楽は一二月一四日の夕方七時くらいから翌一五日のお昼くらいまで、特に明け方までぶっ通しで三三番が演じられるのです。ずーっとえんえんと。そのお神楽を見守るところに天照大神が祀られているのですが、その前にイノシシのオニエ、つまりご供物があるのです。その年のお祭りまでに獲れたイノシシをここに供えるのですが、図18のようにこの年は七頭ほどがありました。胴体から切り離された頭なのですが、切られた角度によって高くそびえていたり、低かったりするのです。このようなイノシシの頭が並べられたその前でお神楽が奉納されるのです。

(図18) 宮崎県西都市銀鏡神楽オニエの猪頭
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■註

9 現代において金生遺跡では冬至の頃、太陽は甲斐駒ケ岳の山頂付近に沈むことが確認されている。金生ムラの人々にとって、太陽の運行と特徴的な山頂とが意識されていた可能性は高いとみられている。

10 現在は甲州市塩山安道寺遺跡

11 現在は退職

12 小野氏はその後山梨県埋蔵文化財センター所長を最後に退職

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  • 2014年11月02日(日) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・4』 新津健


北側の浅い谷~金生ムラに必要な湿地 

 縄文時代後期の中頃になりますと、集落の立地する場所が変わってくるようになります。最初に、山梨では後期、晩期になると遺跡がほとんど無くなってしまったと考えられていたというお話をしましたが、実はまったく人が住まなくなってしまったのではなく、ムラを形成する場所が変わってきたということなのです。それまでの中期の集落は高台に多かったのですが、後期中頃以降にはもっと低い場所、つまり水辺に近いような所が選ばれるようになったのです。高台では、後世に畑として耕されてきたことから埋まっている土器などが細かくなって地表に散らばりやすいのに対して、水辺に近い低めの尾根などは水田として利用されており深くは耕されない。だから下に埋まっている土器が地表に現れにくいのです。前にもお話しましたが、遺跡があるかないかを知るためには、まず分布調査といって地表を歩き回ることから始めます。従って水田では土器を採集することはできない、だから遺跡として把握することができない、後期や晩期の遺跡は非常に少ない、ということになってしまったのです。ところが金生遺跡のように圃場整備予定地の発掘でその時代の遺跡の所在がだんだん分かってきたのです。

 ここで中期と後期以降の遺跡が、同じ尾根の高い箇所と一段下がった箇所にあるという典型的な事例をお話しします。図16は八ヶ岳南麓の後期晩期の遺跡分布図です。この地図の中央から下のほうに四角いマークのついた「2」という遺跡があります。長坂上条遺跡と言いまして金生遺跡と同じ時期の配石を伴う大きな遺跡です。ところがその四角でマークしてある北側の部分は一気に標高の高い尾根になっておりまして、そこは酒呑場遺跡(さけのみばいせき)という縄文時代中期の大集落なのです。現在山梨県の酪農試験場になっておりまして、その改築工事に伴う発掘で多くの住居や土器が出土しております。つまり畑になるような高い場所には中期の大集落が形成され、そこから下がって谷に直接面しているような低い尾根には後期や晩期のムラが営まれるということになるのです。後期の中頃以降の遺跡というのは集落の一部に湿地とかあるいは水場を取り込むような立地にあるのです。それだけ水場が必要になってくる。中期の集落にとっても水は必要ですから当然水場が近くにあるはずなのですが、すぐ目の前というわけではないのです。

金生遺跡の場合も、配石や住居がある低い尾根のすぐ西側が谷になっていて、現在は水田として耕されている。その標高差はほんの五~六mといったところで、すぐ水場に行くことができるのです。この西側の谷に広がっている田んぼでは試掘に入った冬の時点でも、水が染み出していてじめじめしていたのです。地元の老人のお話ですと、若い頃はもっと水が湧いて溜まっていたということです。この谷面も発掘したのですが、八ヶ岳からの土砂崩れなどで結構埋まっていて石がごろごろといった状態でした。木製品などが埋まっていることを期待したのですが、そのような泥炭層は堆積しておりませんでした。しかし金生集落が機能してした時代、その西側の谷は水が豊富な湿地であったことは十分に考えられるのです。ムラの人々はそこに飲料水を求めるとともに、洗い物をしたり、木の実をさらしたり植物の繊維を水漬けにしたりといった用途で利用していたのでしょう。

 さらに重要なことは、後期中頃以降集落の隣接地に水場や湿地が取り込まれるようになった立地上の変化が、何に起因するのかといったことなのです。やはり水場や湿地が生活にとって大変重要な場になったということだと思います。具体的には、生産の場として湿地が活用されたものかと考えております。つまり湿地での植物栽培という見方なのです。例えば極端な話ですが、サトイモのような水場を好む作物の栽培です。長野の沓掛温泉あたりでは、サトイモ類が自生しているようですが、湿地を好むイモ類も確かにあるようです。ニューギニアではタロイモやヤムイモが栽培されていますが、台湾の紅頭嶼では水田で栽培されるサトイモもみられるようです。最近土偶の研究も進んでおりまして、学習院大学の教授であった吉田敦彦氏は特に東南アジアのハイヌウエレ神話との結びつきから、土偶は食べ物をもたらしてくれる女神ととらえています。山梨の小野正文さんは、制作方法からみて土偶は壊されることを前提につくられたことを主張しております。つまり土偶を壊して埋めることにより、そこから新たな食べ物が発生してくるという考え方です。サトイモは種イモを植えると子イモがたくさん付いてくる。まさに古いイモから新しいイモがいくつも発生してくる。土偶とサトイモ類の共通性がみられるのです。土偶はもちろん中期にもたくさん作られていますので、後期のようにムラが湿地の近くに形成されることの理由にはなりません。しかし後期になると湿地に栽培されるサトイモ類が主流になってきたのではないかと思っているのです。極端な話としては、すでに縄文時代の後期や中期にまで米の栽培が遡るという意見もあります。でも、後期の湿地指向が稲作であるとは、私はまだ考えておりません。イモ類の栽培についても、それに関する道具類やデンプン質の残存を示す遺物がないことから推測の域を出ないことは確かであります。でもこのような視点でこれからさまざまなデータを集めてみたいと思っているのです。少なくとも湿地に頼った生産とか加工の場として、縄文後期の生活を考えてみたいのです。

イノシシ飼育の問題

 金生遺跡を特徴づける大変重要な遺物の一つに、イノシシの骨があります。これは晩期の層に掘りこまれた直径一m、深さ八〇㎝ほどの穴に埋まっていた下顎のことです。なんと一三八個体もの下顎がここから発見されたのですが、そのうちの実に一一五個体が幼獣の骨だったのです。この鑑定を行った早稲田大学の金子浩昌先生によりますとそれらの幼獣は生後七、八ヵ月のいわゆるウリボウの下顎であり、全て強く火を受けているとのことでした。このことからイノシシの幼獣を用いた祭祀が行われていたとか、これだけ多くの幼獣を手に入れるためには飼育されていたのではないか、などの重要な問題が提起されたのです。最後にこの問題をお話ししてみようと思います。

 その前に、まず図15をご覧ください。金生遺跡に行かれた方はご承知かと思いますが、これは整備された遺跡の入口のところにある案内板の絵柄なのです。これ有田焼の陶板でしてね、もう何年も経つのですが色あせしなく、しかも丈夫で説明版としてはなかなかいいものです。私は「金生ムラ・ある秋の昼下がり」と名付けましたが、ちょうど縄文時代晩期初めの頃の配石と住居とがセットになったムラの様子が描かれています。問題点や言い足りないこともたくさんあるのですが、いろいろな情報が入っています。時期的には一〇月くらいですかね。

 ちょうど紅葉が始まっておりまして、イワシ雲というかウロコ雲が空に浮かんでいます。紅葉が始まるということは落葉広葉樹の森ということなのですね。村の近くには食べられる実がみのる木も植わっているのかなということで、手前には栗の実が落ちそうになっている。その下の方には花が咲いております。リンドウでしょうかね。ちょっとやり過ぎなのかもしれませんがリンドウの手前、これはトリカブトです。食べるには毒性が強いのですが、漢方薬として使われるようです。弓矢の矢じりにつけて使えば毒矢にもなる。要するにまわりは落葉広葉樹で、ドングリなどが実る非常に豊かな林が広がっているという様子がここに描かれているのです。そして奥の林の手前が湿地ということなのです。先ほども言いましたように、この湿地が加工場とか生産の場になっていたと思っているのです。住居が八軒ほど並んでいますので、三〇人から四〇人くらいのムラかなというイメージですね。先ほどもご質問が出ましたが、住居の形が普通の縄文の復元村で見るような屋根を葺きおろした家とは違うのです。つまり竪穴住居ではない。竪穴住居ではないということでしたら壁が無ければまずいのではないかということで、壁立ちになっているのです。

 例えば岩手県の「八天遺跡」、これは中期の遺跡なのですが、また東京町田の「なすな原遺跡」でも一部そうだったのですが、竪穴住居ですが、火災に遭った住居の壁の内側に土手状に焼けた土が残っていた例があったのです。あれいったい何かなと考えたのですがどうも壁の痕跡ということでも良いのではないか、と思ったのです。竪穴住居でもある程度壁立ちもある。そうすると金生遺跡のような深く掘られていない「周石住居」などは壁立ちでもよいのかな、ということなのです。でも壁が土壁なのか植物などの材料なのかといった判断はつきません。この辺は推測の域は出ないのです。入口が隅っこにあるということについてもいくつかのご批判はあります。

 ところで住居のまわりではいろいろな作業をしております。一度にこのような作業はやらないと思うのですが、左奥では土器づくり、右奥では石器づくり、右手前では毛皮干し、左手前ではドングリや栗を干しているといった日常の様子があらわされているのです。

 一番の問題が、金子先生から叱られたことにあります。金子先生という方は、先ほどもお話ししましたが、イノシシの下顎を鑑定してくださった動物考古学の第一人者で、私が学生時代からお世話になっている先生です。ちょうど絵のど真ん中に描かれている、柵の中にイノシシがいるという表現についてのことなのです。これはイノシシの子供、つまりウリボウなのです。金子先生は縄文時代でのイノシシ飼育問題については大変慎重な方で、現在研究者のなかでは飼育が当然であるといった風潮が広がっていることに対して警鐘を鳴らされております。そこで柵の中のイノシシに対して疑問をお持ちになられたのです。どうしてウリボウがここに描かれているのかということですが、先ほど話しました一つの穴から一一五個体ものイノシシ幼獣の下顎の骨が発見されたことと関係するからなのです。これらは全て焼かれていることについてもお話ししたとおりですが、これらは単に食料として食べられた後の廃棄物ではなく、祭祀に用いられた後でこの穴に埋納されたものと考えるのが妥当かと思っています。火で焼かれていること、下顎だけであること、幼獣が中心であることなどはやはり祭りに強く関わった証拠かと思うのです。そこで問題となるのが、祭りに必要な時に子供のイノシシがすぐ手に入るには、飼育がおこなわれていなければならないではないか、とも言われていることについてです。つまり縄文時代にはすでにイノシシが飼育されていたという意見があることも確かなのです。でも飼育段階を考えるには、農耕の開始とか縄文社会のしくみとかをさらに詳しく研究する必要があり、現状では断定できないと私は考えております(註8)。しかしウリボウを用いた祭りが行なわれていたことは、十分に考えられますから、その時にはこの金生ムラにとってイノシシが絶対に必要であったことになります。そこで、私は祭りが行なわれるまではムラで幼獣を飼っていたのではないかと考えたのです。イノシシは通常四月から五月に出産しますが、多産でありまして一頭あたり五、六頭、多いものでは一〇頭くらい産むのです。最後まで生き延びるのは三、四頭くらいだそうですが、夏から秋にかけてはこういうのが徒党を組んでドドドッと山から下りてくるわけです。そのような時、子どものイノシシは割と目に付くし捕らえられやすい。今でもウリボウが側溝に落ちていたり、はぐれてしまって保護されたという新聞記事を目にします。縄文時代にはこのような出来事、さらにはイノシシの群れが縄文ムラにまでやってくるような事態も往々にして生じていたのではないかと思うのです。そのような幼獣を縄文人たちが獲ってきて、祭りの時まで一時期に飼っておくということがあったのではないかと思っています。それが「柵の中のウリボウ」という表現なのです。ただしこの絵を一〇月だとすると、ウリ坊の縞はもうこんなに残ってない。縞はほとんど消えかかった時期になりますので、絵にはちょっと間違いもあります。

(図15) 金生ムラ~秋の日の昼下がり~
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(図16) 八ヶ岳南麓の後・晩期遺跡
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■註 8 このことも含め後に『猪の文化史』二〇一二雄山閣に執筆した

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  • 2014年11月02日(日) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・3』 新津健


配石遺構の発見

 もうひとつの金生遺跡の大きな特徴、それは先ほどもお話いたしました配石遺構ですね。配石遺構という言葉も難しい。石があれば何でも配石遺構かということですが金生遺跡の場合、ひとつにはお墓というものを中心にして、そこで祈りをした場所という機能を考えています。そのうちの一番メインになったものが「1号配石」という遺構です。図7にその平面図が示してありますが、他にも11、12図がこの1号配石のそれぞれの箇所なのです。11図には円形石組みと大型石棒とが写っています。直径一mくらいの円形に石が並んでいまして、真中の空間部に石棒が立っているのですが、この石棒は先ほど言いましたように発掘したときはここにゴロンと横になっていたものです。それを起こして写真を撮ったのです。この写真の背景には八ヶ岳が聳えていますが、石棒と八ヶ岳の間にも立石が一本みられます。

 ところでこの1号配石の全体像ですが、もう一度図7をごらんになってください。これによって1号配石の構造がだいたいわかります。まず尾根に対して横長になっているのですが、その横の長さは六〇mくらいあります。図の下が南で斜面の下の方に当たります。そして上に向っての幅は一〇mくらいあります。つまり一〇mの幅で六〇mの長さに尾根を横切って構築されているのです。南北の中央辺りに大きな石を背骨のように連続しながら置いてありまして、その手前の斜面の下の方が丸い石組み、上の方が四角っぽい石の配置というようになっています。図7にてペンで丸とか四角とかで囲んであるのがそれです。方形の配石など周石住居と同じような形で、四角に石が並んでいるのです。

 さらに12のような面白い石組も発見されました。位置としては図7にある②ブロックのペンで囲った左側の箇所がこれなのですが、まるで古墳の石室とか弥生時代の石棺みたいな感じで長方形に石が並んでいるのです。実はこの中から人骨が出土しています。但し人骨とは言っても、頭蓋骨の一部、骨盤の一部、手の一部、足の一部ということで体のそれぞれの部分が少しずつここに入っていたのです。しかもこれらは全部火を受けていた、つまり焼かれていたのです。ですからこの石棺状遺構には、焼いた身体のうちのそれぞれのパーツをここへ納めたのかなという感じですね。

 もともと石棺状遺構といいますのは、山梨では後期から広くみられるようになります。それは長さ一m五㎝から二mくらい、幅五〇㎝から八〇㎝くらいまで石をきれいに並べて造られていまして、船形の石棺みたいにきれいに整っています。石の蓋については、残されているものも少しはあるのですが、大方には見られません。青森を始めとして東北地方から関東・中部にはたくさんあります。後期の中頃以降、こういう石棺が非常に増えています。この石棺状の配石遺構とはいったい何なのでしょうか。生身の人間を本当に埋めた一次埋葬なのかなという感じもしますが、人骨が残っている例は非常に少ないようなのです。従っていったん埋葬したのを骨だけになったのを取り出して、別の場所に埋めなおすといった埋葬方法もあったのかとも考えられます。そうした場合、一旦埋葬を行う場所がこの石棺状の施設ということになるのかもしれません。金生遺跡の先ほどの例では焼けた人骨の破片が出土しておりますので、二次的な埋葬施設とも考えております。でも1号配石遺構の下面にも石棺状のものがいくつもあるようなのですが、これらが全て二次埋葬施設であるとは言い切れません。なぜならばこの1号配石遺構は後期の中頃からつくられ始め、晩期前半期まで機能していたことがわかっているからです。つまり長い期間この場所が石棺状遺構やそれに伴ういろいろな石組施設をつくる場所であったわけであり、少なくとも晩期には焼かれた骨が納められるようになったということでしょう。

 では、この配石遺構全体の用途は一体何であったのでしょうか。確かにひとつにはお墓だと、ただお墓だけども普通のお墓じゃなくて、やっぱり特定の人を埋葬してそこでお祈りするような場ではなかったかなと思うのです。大小の石棒もあるし丸石もあるし、土偶も非常に多いということから、墓を中心としてその祭りに使ったような施設がここにあったのかなというような感じがするわけであります。だからこそこういう石をいっぱい集めたのでしょう。で、ここで問題となるのはじゃ誰がこんなに石を集めたのかな、ということになります。図11からもわかるように、膨大な量ですよね。これだけ多くの石を金生の集落の人数だけで運ぶことができたのかな、という問題が生じます。例えば一番大きく発達した晩期前半のムラは七軒か八軒の住居から構成されていますが、それだけの人間だけで運ぶことができたのか。かなりこれは疑問に思います。この時期の八ヶ岳南麓の遺跡を見ますと、大きな遺跡の周辺には一、二軒の住居から成る小さなムラが分散するような傾向が見られるのです。このことから小さいながら複数のムラが集って金生遺跡の場でいろんな祈りや祭りをしたのではないかな、とも思うのです。八ヶ岳の南麓のムラが集る拠点となる集落だったのかなということです。そういう人たちの力によって石が集められたのではないでしょうか。これらの石の大半は金生遺跡周辺で採取することができる安山岩ですので、人数さえいれば集めてくるのもそう難しいことではないでしょう。

 ところがこの八ヶ岳山麓では産出しない花崗岩類も目立って使われているのです。例えば図11に写っている石棒の後ろ、ここに白っぽい大きな石が横になっているのがおわかりになりますか? これは花崗閃緑岩ですが図11には他にも円形石組の後ろに平たい大石がありますが、これらも石英閃緑岩等の花崗岩類なのです。これらの石、実は金生遺跡から最短で八㎞ほど西方にある釜無川という大きな川の河床にはゴロゴロしているのです。釜無川というのは富士川の上流にあたりますが、この川の右岸つまり西側が花崗岩地帯になります。どうもこのあたりから「白い石」を採集して来たと推測しております。

 話がちょっとズレます。皆様ご承知かと思いますが南アルプスという山地がこの一帯を構成しているのです。ここに甲斐駒ケ岳という名山があります。この山は花崗岩から形成されておりまして、この一帯を源流とする川は川底が真っ白なのです。花崗岩の砂なのですね。付近にサントリーのウイスキー工場があるのですが、その理由として花崗岩を抜けてきた清涼な水が豊富な土地ということのようです。やはり花崗岩と言うのがこの地域の特徴ということになるのです。

 この釜無川から八ヶ岳山麓に出るのには、河床から高さ数十mの崖を登ることになります。一旦山麓に上がればあとは比較的平坦な土地となります。でも尾根と谷とを何度も越える必要があります。そのルートを八㎞から一〇㎞たどって金生ムラに行きつくのです。最初どうやって運んだのかなと考えている時、ちょうど京都の金閣寺の前庭の発掘で修羅(しゅら)が発見され話題となりました。これをヒントに木造の橇の類で運んだのかなと思ったものです。でも今思うとそこまでしなくとも、担いで運べるのではないのかな、つまりモッコのような編み物と丸太があればよいのかもしれないのです。例えば金生の白い石でも長さが一・二mくらいですので重量一t近くありましても、それなりの丸太に吊り下げ何人かで担げないかな。その方が山道の通行は楽かもしれません。つまり橇やコロや丸太やモッコなど、何でも利用しながら大勢で取り掛かれば、大きな石でも金生ムラに運び込みができたのでしょう。いろいろなことを言いましたが、ここで言いたいことは金生に住んでいた人たちだけでなくどうも八ヶ岳の広域的なムラの人たちが共同の力によって石をここに運び上げたのか、そうしますと逆に金生遺跡の配石遺構の意味合いがそういう広域的ないわゆる拠点集落としての意味のある配石遺構ではなかったかということであります。

<b>縄文の道

先ほど金生遺跡に運ぶ花崗岩のルートについてお話致しましたので、ここでちょっと縄文集落と道についてすこしふれてみます。

 本来、集落にはいろんな道があったのではないかと考えております。まず典型的な例として千葉県船橋市にある高根木戸集落の模式図を図13に示しておきました。この遺跡は中期後半のものですが、中央が広場になっていてその広場を囲むかのように住居群が環状にめぐっている集落なのです。住居は全部で七〇軒ほどがあるのですが、実は完全に円形に並ぶというよりも、二つの弧が向き合っているような住居配列なのです。二つの弧の端のあたりが空間になっているのですが、実はその切れているところが集落に出入りする道ではないかと私は考えております。この空間部にそれぞれの弧の住居群に属す墓域があることも、集落に出入りするその箇所に祖先が埋葬され、ムラ人を護っているのかな、とも考えています。この集落は舌状台地という、細長く続く尾根からベロのように張り出した台地上に作られておりまして、ベロの先端の下はもう谷になっているのです。図13に示した「水場」とか「谷道」というのが低い部分に当たりまして、弧状集落の切れ目から下るとこの谷に降りられることになるのです。つまり谷に降りる通路がこの箇所にあったのではないかと思っています。この谷への道の反対側、つまり広場の先にはさらにひろく開けられた弧状集落の切れ目がありますが、この箇所が尾根道でありまして、他のムラに通ずる道路が延びていたのではないかと思っています。同時に食料や木材などを獲得する生産の場へも至る重要な道であったとも考えています。実際に発掘調査によって「道跡」が発見されたわけではないのですが、縄文のムラがあるわけですから道が存在したことは確実であったと思います。それは自分たちのテリトリー内での、今でいえば「野良道」「山道」「水場道」といったものとか、領域を越えて隣ムラに行く「村道」、少し遠くまで通ずる「県道」、さらに地域間を結ぶ「国道」などが網の目のようにあって日本列島全体の縄文世界が繋がっていたのではないかということを考えております。その中のムラ周辺の道について高根木戸遺跡をモデルに図示したのが図13ということになります。

 それと同じことを金生遺跡で考えますと、図14のようになります。この図は先ほど言いましたように晩期のⅡ期という、ムラの構成からは最もまとまった時期の様子です。この時期には一号配石といくつかの小配石群、それに住居などから構成されています。図の下が南、上が北ということになりますが、南から見ていきますと、まず一軒だけ住居がありまして、その北側は広い空間地をへだてて1号配石が横に広がっています。その後ろ側には等間隔に緩やかな弧を描きながら五軒程の住居が並んでいます。そして広場状の空間地があり、その北側には住居数軒と墓とみられる小さな配石群が見られます。この集落の最も重要な施設が1号配石でありまして、先にも話しましたように特定の墓を中心とした祈りの場と考えられるところなのです。この祈りの場は下から見上げられるかのように石が配列され積み重ねられていることから、南側の広場が大変重要になるのかなとも思っています。ここには土器捨て場があったり、黒曜石の小さな破片がいっぱいあったりしまして、やはりこの広場で周辺のムラから集まった大勢によって様々な祭りや祈りが催されたのではないでしょうか。

 この広場から1号配石を抜けて後ろの住居方面に行くには、配石の間を向けて行けばよい。実際1号配石はいくつかのブロックから構成されておりまして、図14の1号配石に①から④まで番号が付けてあるのがこれです。この②と③との間に空間がある。私はこの部分を通路と考えたのです。そしてこの住居群の北側にはまた広場があり、さらに小配石間を抜けると尾根への主要道に繋がっていく、そのようなことを考えてみたのです。さらに重要なのは、この集落の北側が浅い谷になっていることです。ここは水場であるとともにさまざまな生産の場、あるいは加工場として金生ムラにとって大変必要な場であったと思うのです。この北側の浅い谷のことについては次にお話ししますが、ここに通ずる道も当然あったことになります。そして石を運ぶルートについては先ほど「白い石」を運ぶ道のところでお話ししたとおりであります。

(図12) 1号配石②ブロックの石棺状遺構

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(図13) 千葉県高根木戸集落の模式図
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  • 2014年11月01日(土) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

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