International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・6』 新津健


<最終回>

イノシシ飼育の問題③

 この意味は山の幸への感謝といわれております。図20のまつりの行程③の「銀鏡神社大祭・イノシシのまつり」に整理してありますが、奉納されたイノシシの頭、それがオニエですが、神楽の一番最後に「ししとぎり」という祭りが行なわれます。この「ししとぎり」という祭りは、三三番行われる最後の神楽になるのですが、三二番まで終わった段階で神楽の舞台が全部片付けられまして、周りを囲んでいたヒモロギ~葉のついた木々の枝なのですが、それを全部崩して山のようにする。そこにイノシシのモデルになるものを隠しまして男の神様と女の神様が二人で出てきて、トギリをするわけです。トギリというのは猟師の言葉で足跡によって獲物の大きさとかいつ頃通ったとか、どこにいるとかそれを予測することです。シシトギリということですから、イノシシを探すやり方なのです。その祭りを二人の神様が演じて最後見事イノシシを仕留めて引き上げるというわけなのですが、その祭りは豊猟祈願というふうに言われております。神楽自体は農耕社会の、いわゆる豊作を願う祭りです。その中にイノシシの豊猟を願う祈りまで入っているという、狩猟社会と農耕社会の混在した形がここに残っているということなのです。ところでお供えされていたイノシシの頭はどうするのかというと、シシトギリが終わった後、一匹を除いて全部解体して食べてしまいます。直会(なおらい)で食べる。そのときに我々見学者にも振舞ってくれるのです。ところで猟師さんがイノシシの頭を解体するところを見せていただいたのですが、素早い。手際が実によいのです。まず火で剛毛を焼くと、やっぱり黒いブタのように見えます。その下顎に猟師さん、ナイフをぐーと差し込んで、そして両側へ剥ぐようにナイフをもぐらしていくのです。本当に顔面の皮をむきとっていくような感じです。そして剥ぎ取った皮付きの肉を細かく切って、あるものは神棚に上げて、残りはさらに細かく切って雑炊に炊き込むのです。これをシシズーシというのですが、これがほんとうにおいしい。こうして料理してしまうのですが、一頭は残しておくのです。その残した一頭は翌一六日の朝早くから「ししば祭り」に使う。近くを銀鏡川(しろみがわ)が流れているのですが、その河原で火を燃しそして一頭のイノシシを焼いてそこで供養をするわけです。供養をした後集った我々見学者も一緒になって、そのイノシシの肉を切って串刺しにし、塩を振りかけながら焚き火で焼き、焼酎を飲みながら頂戴するのです。イノシシへの感謝という気持ちが湧いてくる祭りです。図19はししば祭りにて河原でイノシシの頭を焼いている様子です。こういうふうな作法が実際にちゃんと残っています。先に鉤がある木の棒にイノシシを吊るして焼いていますが、三脚のように組んである下の木をホタギと言いまして、これもちゃんとした作法があるのです。さらにここで使ったホタギは燃さずに、祭りをするところに大石があるのですが、その石の脇において来年の薪に使うということも窺いました。ししば祭りの意味についても、図20の③に示したように鎮魂、要するにイノシシの魂を鎮めるために行なうのだそうです。シシトギリの祭りでは豊猟を祈願して、ししば祭りで魂を鎮めるというのです。なお、最後に猟師さんから聞いたのですが、食べた後の骨は裏の山に埋めるそうです。いつ埋めるか、どこに埋めるかはその担当でないとわからないということで、これだけの祭りをやった後、骨はちゃんと山へ返すというような、温かい心構えというか作法でやります。こういうふうな民俗例をそのまま考古学の世界へ持って行くということはとても出来ませんが、ひとつの参考にはできると思うのです。例えば最後に骨を埋めるということになりますと、金生遺跡での穴の中に埋まっていた焼かれたイノシシの骨というのは、実はそこに至るまでにイノシシを用いたなんらかの祭りの最後の段階を表しているのではないかということなのです。銀鏡の場合は神楽・お供え・ししば祭りという流れがあるわけで、それと同じようないくつもの段階が縄文時代にもあったのではないかと考えたのが図20の①という模式なのです。これを簡単に説明すると、まずイノシシを捕まえるのが1、次に体から頭を切り離しますが、頭が分離した状態の2になって以後、祭りが繰り返されながら解体が進んだり焼かれたりして、最後は埋納されるといった流れなのです。焼いたものを埋めたのが金生遺跡の例ですが、焼かれていない個体も貝塚地帯ではずいぶん出土します。例えば福島県の大畑貝塚とか岩手県の宮野貝塚などでは火を受けていないイノシシの下顎骨がみられます。焼かなくても祭りの後の奉納があるのかな、と思うわけです。図の中にある12の段階ですが、頭を取ってしまった身体の方についても、最後に埋葬されている例もある。千葉市の加曾利貝塚とか、市川市の向台貝塚からはイノシシの幼獣の頭がなくて、体だけが埋葬されたように穴の中から発見された事例もあります。そうすると、頭は頭で別に使って、体は体で別の祭りに使ったのかなというようにも考えられるのです。さらに食用にした場合も多かったと思いますが、その後も図の15番以降のようにいろいろな行為があったのかなとも考えております。最後に20番目に「撒く」というのがありますが、19の砕くといった行為とともに撒くという状況は縄文時代中期以降、後期晩期には特に多く見られるのです。後期や晩期の遺跡を掘りますと、土層全体から細かく焼けた獣の骨がいっぱい出土します。特に土を篩いにかけると細かくなった焼けた骨がたくさん見つかるのです。やはりイノシシを食べた、あるいはお祈りをした後に焼いて細かくしたものを地面に撒くことによって、それら動物がよみがえるといったような思想があったのかもしれません。このような推測は民俗例も含めた中で考えることが大切ではないかとも思っています。

金生遺跡の意義

 以上、いろいろなテーマを入れてしまい、まとまりがなくなってしまいました。本当に最後になりますが、ここで金生遺跡の意義というのをまとめてみます。

 まず、縄文時代後期・晩期のまとまった住居と、それから非常に集団性を表すような、ある意味では宗教的な色彩の濃い大規模な配石遺構が一体となって発見されたところに意義があると思うのです。全国的にも珍しいというか貴重な組み合わせということで史跡に指定されということです。配石遺構の機能とかそれを支えた集団のあり方など、これから解決すべき課題もたくさん残っていますが、これらが現地にそのまま残されているということは大変良かったと思います。なおこの時代の祭祀や生業を考える上で、イノシシのデータは大変重要かとおもっております。縄文人にとってのイノシシの役割や、祭祀のあり方、さらには飼育や栽培の問題にまで発展するからです。

 また、今回ふれることができませんでしたが、山梨における後期や晩期の文化が実は多方面からの影響というか接触で形成されていたことが、金生遺跡から出土した土器からわかってきたことも、大きな成果であったと思っています。図21に「さまざまな地域の土器」という図があります。山梨県というのは内陸部にあるのですが、東日本各地の特徴を持った土器が出土しております。特に1から6は東北地方の影響ある土器、18から20は北陸地方の特徴がみられる土器、それから13から17などは東海地方でも特に静岡東部から愛知、三重辺りの色が濃い土器なのです。一方では7、8、9といった関東の土器もみられますし、10、11、12というのは山梨の郡内を中心として広がっている土器なのです。でも意外なことに、関東からの直接の影響が少ないようにも思われます。むしろ東北とか北陸方面のものが長野とか群馬をワンクッションして入ってくる。あるいは静岡を経由して入ってくるような感もあるのです。今でこそ中央線とか中央道で関東との結びつきが強いのですが、当時は少し事情が異なっていた、あるいは縄文ルートの特異性があったのかもしれません。もちろん長い縄文時代のなかでの一つの現象なのかもしれません。

 なお、金生遺跡中空土偶の系譜、この土偶は金生遺跡を代表する一つですが、これにもふれておきます。図22の右下の13がこの中空土偶です。全国的にもきわめて類例が少ない土偶でして、その系譜をたどってみたのが図22なのです。晩期の終末に近い時期の土偶ですが、この源流は東北地方の遮光器土偶にたどれるというのが私の見解なのです。例としてあげたのが、図の左上1番のような土偶が各地に広まって、山梨にまで辿り着いたときにはこういうふうな異様な形になっていたのです。ご承知のように遮光器土偶というのは亀ヶ岡文化を代表するものですが、その縁辺部、例えば右の一番上の群馬県板倉遺跡の土偶(9)になると本来の遮光器土偶が大分変形してくるのです。このようなものから、8や10、11などを経て13へと展開する可能性考えたのです。このような土器や土偶ばかりでなく、金生の地にて晩期集落が形成された背景には、奥深い文化の流れやあったのです。金生遺跡が抱えている問題は、まだまだ多いのですが、今回はその一端について、想像も交えながらお話しさせていただきました。ありがとうございました。(終)

(図19) 宮崎県西都市銀鏡大祭ししば祭りの猪

(図20) まつりの行程(①縄文時代の例 ②銀鏡神社大祭 ③同 猪のまつりの意味

(図21) 金生遺跡から出土したさまざまな地域の特徴を持った土器

(図22) 金生遺跡出土中空土偶の系譜

■図の出典

図1、15 大泉村教育委員会『史跡金生遺跡』

図2~4、6~12 山梨県教育委員会一九八九 『金生遺跡』Ⅰ

図13、14 新津「縄文集落と道」

図16 新津「八ヶ岳山麓における縄文後晩期集落の動態」

図17 各報告書より(①山梨県教育委員会一九九四『天神遺跡』 ②山梨県教育委員会一九七八『安道寺遺跡調査報告』 ③山梨県教育委員会一九八九『金生遺跡』Ⅰからトレース ④(財)市原市文化財センター一九九五『市原市能満上小貝塚』 ⑤山梨県教育委員会一九八七『上の平遺跡』 ⑥上川名昭一九七一『甲斐北原・柳田遺跡の研究』 ⑦西桂町教育委員会一九九三『宮の前遺跡発掘調査報告書』

図5、18~22 筆者撮影、作成

新津 健
元山梨県埋蔵文化財センター所長

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