International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『環状集落から環状積石遺構へ・2』 安孫子昭二


多摩ニュータウン№446遺跡の環状集落

 今、武蔵野から多摩地区の縄文中期の研究は「新地平編年」と呼ばれる、非常に細かく分けられた土器型式の編年を基準にして進められています。昭和40年代からこの方、大規模開発にともない多摩地区の方々で発掘調査されてきて、土器のセットが住居跡単位でどんどん出土しました。研究者の宿命というか、資料が増えるとそういう土器セットに差異を追及して新旧に分けたくなる。2軒住居が出れば、どちらが古い、新しいのと区別したくなる。中期の始まりをだいたい五千年前、終わりを四千年前としますと、中期の存続年数は一千年間となります。最新の「新地平編年」によれば、この間を大きくは一四期、その中がさらに細分化されると、実に30期ほどに細別されているのです。一千年を30細分すると、平均33年ほどになる。だいたい土器の形なり文様なりの属性が30年ほどの単位で少しずつ変化したと考えられるわけです。それで、多摩ニュータウン№446遺跡ですが、新地平編年の8a期ないし8b期に移ろうかという20年足らずだけ営まれた環状集落になります。20年足らずといえば、昭和天皇が亡くなってもう平成15年になりますか、ついこの間のような気がしますが、それくらいの期間の出来事なのです。

集落の構成 この遺跡は八王子市堀之内地区に所在します。多摩ニュータウンでも西の外れ、野猿街道に面して大栗川の沖積地がありますが、大栗川左岸の支丘陵から東に張り出した舌状の台地に在るのです。さきほど多摩ニュータウン地域で最も大きな環状集落と紹介した№72遺跡の北東500mにあります(図2)。№72遺跡は6a期に始まって14期まで、およそ700年間もつづいた拠点集落なのですが、その8a期から8b期辺りのごく短い期間、この№446遺跡にそっくり集落が移転したと考えられるのです。

<図2>№446遺跡と№72遺跡の位置関係
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 どうして移り住んだのかと云いますと、拠点集落には大勢の人が住んで居ますが、同じ所に長く住みますと、いろんな弊害も生じるわけです。毎日の煮炊きには薪が入用ですし、食料も近間で調達するには限りがあって不足してくるように、周辺の資源がだんだんと枯渇してくる。糞尿処理のなど衛生上の問題もあるから環境も劣化します。ですから700年もの間、ずうっと常駐したというわけではなくて、大栗川流域には、こうした弊害を回避するため条件に適うような場所がいくつかあって一時的に移転し、資源が回復する頃にまた回帰したと考えられるのです。№446遺跡もその一つですが、それにしてもわずかに0.5㎞しか離れていない指呼の間に、そっくりムラが移ってきたわけです。

 それで、№446遺跡の全体図(図3)ですが、皆さんにはこれが環状集落に見えますか。住居跡が台地の縁辺、斜面にへばり付くような位置に配置されているのです。どういうことかといいますと、広場の用途と機能の必要上からなるべく広い範囲を確保したいからではないか。住居跡が確認された順にナンバーが付されていますが、奈良、平安時代の住居跡も見つかっているので、住居番号は飛び飛びになっています。その図に、N‐1、N‐2、N‐3、S‐1、S‐2、S‐3という記号を付し、その中間に軸線を引いてみました。ここに見える住居跡を数えますと18軒です。18軒ですが、同じ場所で建て直しした住居がおそらく6軒あります。建て直す前の住居と、建て直した後の住居をそれぞれ一軒分と数えますと、この集落には住居が24軒残されたのだろうと思います。

<図3>№446遺跡 中期中葉の集落
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 24軒になるというのはその次に話しますが、それでこの集落形態は全く円形ではなくて東西方向に長い地形の傾斜に合わせて楕円形になっている。その楕円形になっている中央に、台地の裾の側と斜面上方の中央を結ぶ主軸線を引いて、北側のN群と南側のS群の二大群に二分し、さらにその中を三小群に分割してみました。住居構成をみますと、N‐1に3軒、N‐2に4軒、N‐3に3軒あります。Sの方は、S‐1に2軒、S‐2に4軒、S‐3は、裾の方が農家を構築するにあたって大きく土取りされ、そのとき住居一軒分が壊されたと見ています。それでこの集落の規模ですが、f住居群の内側を辿ってみますと広場の面積は3200㎡になります。結構広いのですが、台地が狭まっているN‐1とS‐1のところが32mくらい、それからN‐3とS‐3の広いところで75mくらいになります。かなり大規模のようですが、それでも№72遺跡の集落規模に比べるとかなり狭いのです。

 次の図(図4)をご覧下さい。ここでは炉形態による住居の違いとともに、住居の入口を示しています。先ほど住居総数を24軒と申しましたが、住居番号を四角で囲ってある住居、例えばN‐1の6号は建て直された住居で2軒分とします。住居の炉が重複して位置がずれているとか、柱の穴は4本あるいは5本が基本ですが、もっと乱れて本数が多いとか、壁際の周溝が二重になっているとか、そういう属性で住居が建て直された見当つくのです。S‐1の7号と2号住居は、両方とも建て直されているから4軒分になります。それに対してN‐2の区域は建て直しされずに4軒とも新築です。それからN‐3も28号住居が立て直しされているし、S‐2の方は最初から1A・1Bとわかります。このように集落は大きくはN・Sの二大群で、大群が三分節されて、分節内に住居跡が4軒ずつ残されていたことになる。

<図4>炉形態による住居の違いと住居出入り口
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  • 2014年01月05日(日) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『環状集落から環状積石遺構へ・1』 安孫子昭二


【平成15年1月 講演録】

拠点的な環状集落の情報量

 ご紹介いただきました安孫子です。私は生まれ育ちが山形県の山形市で、昭和37年に国学院大学に入学して42年の3月に卒業しました。その頃は卒業しても考古学の就職口といで、私はその下で調査補助員をやらせてもらい、考古学を続けることができたのです。

 それで、今日は多摩ニュータウン地域にある縄文時代中期の拠点集落の話が中心になります。小林さんには、1973年に書かれた「多摩ニュータウンの先住者」(1973)という論文があります。いまニュータウンは各地から入居した新住民で占められていますが、多摩丘陵には何千年も前の縄文遺跡がたくさんあって、それらの遺跡を残した縄文人たちが先住者としていたのだという、そういう観点から発掘してきた成果と分布調査で得られた知見をまとめた論文なのです。縄文時代の集落にも住居跡が何百軒も密集している長期的な遺跡から、住居が何軒かだけの小さな集落、あるいは遺物しか出ない遺跡もあるし、遺物はほとんど出ないけれども、陥穴だけみつかる遺跡もある。そういった規模・性格がことなるいろんな遺跡をAからDの五つにパターン化して、Aパターンの拠点集落を中心にして丘陵地の環境に適応した有機的なシステムが機能していた、という仮説を提示したのです。当時はそれほど調査が捗っていたわけではないのですが、小林さんはもっとも活況ある縄文中期の拠点集落、Aパターン遺跡をニュータウン地域に五箇所あると想定したのです。調査がほぼ終了した今、この仮説に照し合わせてみますと、典型的なAパターン遺跡というのはこれから話しする№72遺跡と三沢川流域の№9遺跡の二箇所だけで、そのほかのAパターンと目された遺跡は、BもしくはCパターンの集落だったようです。

 ところで、拠点集落というと、存続年数が長期にわたって住居が何度も建替えられ、したがって2300軒もの多くの住居跡が環状に配置されているような集落、その典型として岩手県の西田遺跡がございます<図1>。東北新幹線の建設にともなって調査されたもので、この遺跡の出現によりはじめて環状集落の構造が問題意識に上ったのです。この集落が形成されたのは大木8a式ですから、勝坂式のころに形成されたものです。中央に墓坑群があり、それをとりまいて平地式建物、竪穴住居、貯蔵穴が同心円状に配置された構造ですね。それまでは環状集落の中央部は広場という概念で、なにか行事があれば大勢が参集して祭りごとをやるという意識であって、こういう施設が広場にあることはあまり意識されてこなかったのです。

<図1>西田遺跡の環状集落
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 ところが実際に細かく調査されて、真ん中に墓が出てきて、それからこの外側に4本柱ないし6本柱の掘建柱建物があります。どういう性格の建物かというと、その集落で死者が出たりしますと、すぐに埋葬するのではなく、死を受け入れて埋葬するまでの準備期間は喪に服する(もがり)期間であって、その建物に遺骸を安置したのではないかという考え方があります。それから、一番外側に貯蔵の穴がありますが、貯蔵の穴は地面を掘って芋などを貯蔵する施設、佐々木藤雄さんは、掘建柱建物をクラとするとこちらはジグラとして使用されたというのです。この西田遺跡の中心部をよく見ますと、たくさんの土抗墓が放射状に配置されていますが、その真ん中に土抗墓が二列になっていますね。この北側と南側の二列に意味があるとすると、長期にわたって住居をはじめいろんな遺構が構築されて環状のように見えます。

 谷口康浩(2005)さんは、環状集落には分節構造と重帯構造という重要な二つの構造があるというのです。分節構造とは、中央部で墓抗が2列になっているのは北と南の二大群からなる集団があって、広場をはさんで墓群、掘立柱建物帯、竪穴住居帯、貯蔵穴墓群、住居群、それから捨て場などが、空間的に区分されて向き合う構造です。さらに大群の中がいくつか血縁的な集団の敷地として分節されているというものです。これに対して重帯構造というのは、中心に墓域があり、その外側に掘立柱建物帯、竪穴住居帯、貯蔵穴帯という施設が同心円状に、計画的に配置されている構造です。

 それで、環状集落が二大群でできている背景には、おそらく当時の縄文社会が双分制社会であったことを反映してのことで、縄文集落を分析することによってその姿を追求できる可能性があるのです。ところが長期にわたる環状集落ですと、残された情報量もそれだけ膨大な量が残されているのですが、竪穴住居がくりかえし同じ敷地で建て替えられますと、その以前にあった竪穴住居跡を損傷したりしますから、以前の情報も損壊することになります。当然、情報が入り乱れているはずです。このように環状集落はたいてい長期にわたるので、住居跡が300軒とか遺物も多種多量、膨大な遺物量が出土しますけれども、失われた情報も多いはずです。だいたい複雑すぎて分析するにも手間が掛かるし、土台、難しい条件なのです。

  そういう意味ではもっと短い期間だけの単純な環状集落の方が情報が残っていて、分析しやすいはずなのです。これからお話しする多摩ニュータウン446遺跡は、幸いにしてそういう条件を備えた環状集落だったのです。

 その前にこの環状集落ですが、ゆったりした台地に築かれた環状集落も終末近くなると次第に内側に縮小してきて、中期終末には解体し分散してしまうのです。中期に繁栄した環状集落の人びとは何処に行ってしまったのか、よく分からないのです。それが思いがけなくというか、たまたま多摩ニュータウンに隣接する町田市田端にある環状積石遺構に認められるのです。中期の環状集落の社会構造が後期中頃の田端環状積石遺構に受け継がれていたのではないか、こういう話題を仮説として提示してみようということです。

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