International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『大森貝塚とモース博士vol.1』  関俊彦


照葉樹の森と浜辺

 世界の人類史の中で1万数千年にわたり、人間と自然とが仲良く営みを続け、文化を高めた民族はまれです。この文化を生んだ縄文人は、狩猟・漁撈(ぎょろう)・食用植物の採集で食べ物を得ていました。
 彼らの主食の大半は、クリ、ドングリ、トチといった木の実でした。もちろん、季節によっては、イノシシやシカ、サケ、クロダイ、スズキ、ハマグリ、アサリ、カキなどを捕っていました。これら動物や魚介を育むうえで森が大きな役割を果たしております。

 日本列島の植生分布は、大まかに分けると暖温帯と冷温帯です。暖温帯を代表するものはスダジイ、カシ、タブノキ類の照葉樹林で、本州、四国、九州、韓国南端に生育しています。
 照葉樹林地帯には冷温帯のブナ、ミズナラという落葉広葉樹林も混在し、北へ進むにしたがい照葉樹林から落葉樹林へと移ります。北緯37度あたりの関東北部から東北南部にかけてはアカシデ、コナラの落葉樹林の地となります。いっぽう日本海側では、同じ緯度にブナを中心とした落葉広葉樹林が広がります。
 なお、暖温帯落葉樹林のコナラ、クリ、シデの類は、中部から関東北部に分布しています。こうした植生分布は、縄文時代の後期(4420年前頃、紀元前2470年頃)あたりから形成されて現代に及んでいます。
 縄文文化の発展を支えたブナ林に暮らした人々と動植物の結び付きを追うと、人と自然との共生をモットーにした彼らの生き物に対する《やさしさ》と《おもいやり》が感じられます。
 ブナの林は、ブナ、ミズナラ、トチノキ、サワグルミなどが集まった複合林です。この森は、大量の木の実を生み出すため、イノシシ、シカ、ニホンザル、ツキノワグマ、鳥類などが人間同様に実を食べ、よい餌場(えさば)となっています。
 人・動植物にとって欠かすことのできない水、これもブナの森が源泉です。木々は降った雨をためて少しずつ地下に浸透(しんとう)し、湧(わ)き水となって小川になります。森が吸収した水は、太陽が射し込むと水蒸気となり、雨雲となって、再び雨をもらたします。これの繰り返しで、木々は成長します。
 ブナの林には、キノコ、ワラビ、ゼンマイといった山菜(さんさい)が多く生(は)え、縄文人に旬(しゅん)の味をプレゼントしました。ブナの森から流れてくる川の水には、プランクトンがたくさん含まれ、イワナ、ヤマメ、アマゴ、アユ、サケ、マスなどの餌となります。川は大量の土砂を運び、魚介類の棲む場所を広げました。
 大森一帯の海浜は、目黒川や立会川が運びだす大量の土砂によってでき、小魚や貝類が生息するよい環境を整え、人々に海の幸の恵みを与え続けました。

《大森貝塚》碑と《大森貝墟》碑

 大正14年(1925)12月20日、大森貝塚を発掘し、その名を広めたエドワード・シルベスター・モースがアメリカ・マサチューセッツ州セーラムの自宅にて87歳で死去しました。
 東京大学でモース教授の教えを受けた弟子たちは、この訃報(ふほう)を知るや先生の偉業と大森貝塚を後世に伝えようと立ち上がりました。
 モースとともに大森貝塚を発掘した佐々木忠次郎らは、石川千代松、小金井良精(よしきよ)、大山柏(かしわ)といった著名な学者に協力を求めます。この頃の日本は大正12年(1912)の関東大震災、昭和2年(1927)の金融恐慌(きょうこう)に見舞われて、東京では思うように寄附金が集まりませんでした。
 大阪でも日本で最初に発掘された大森貝塚とモース博士を永久に称(たた)えようと大阪毎日新聞社社長の本山彦一(もとやまひこいち)が呼びかけます。本山は、若き日に大森貝塚の出土品を見、そしてモースの学識の豊かさに引き込まれ、各地で発掘を行うほど考古学に熱心でした。
 昭和4年(1929)11月3日、品川区大井6丁目21番地(現在の品川区区立大森貝塚遺跡庭園内)で《大森貝塚》碑の除幕式がおこなわれ、当日は本山彦一、大山柏、小金井良精、佐々木忠次郎ら100余名が参列しました。
 碑のある地は、当時大阪の富豪殿村平右衛門邸があり、線路ぎわの斜面には貝が散布し、ここが貝塚の一部になっていました。
 昭和5年(1930)4月5日、大田区山王1丁目3番(現在マンション)で、《大森貝墟》碑建立の式典が挙行され、当日、佐々木忠次郎は『大森貝墟の由来』という冊子を出席者に配布し、モースと大森貝塚を紹介しました。
 碑は、小林脳行店主の臼井米二郎が佐々木らの要望で、自ら敷地内に建てました。大森貝塚をモースと一緒に発掘した佐々木は、50年経って臼井邸内を訪れ、地形や松の木などの状況から、ここを大森貝塚と判断し、碑を設置しました。

 品川区と大田区側にある二つの碑は、時を同じくして二人の篤志(とくし)家と研究者の熱意で建立されました。この碑がなかったら大森貝塚は消滅していたことでしょう。
 私たちは、あらためてモースと大森貝塚と先人らの偉業を後世に伝えるとともに、21世紀に生きる者として、何ができるか考える必要があります。

モースと日本


モース略年表


1838年(天保9)6月18日 メーン(メイン)州ポートランドに生まれる
1859年(安政6)11月 ハーバード大学アガシ―教授の学生助手となる
1863年(文久3)6月18日 ネリー・オーウェンと結婚(25歳)
1867年(慶応3)5月 セーラム・ピーボディ科学アカデミー創設、研究員となる
1870年(明治3) ピーボディ科学アカデミー退職
1871年(明治4) ボードイン大学教授(~1874)に就任(33歳)
1872年(明治5) ハーバード大学で講義(~1873)
1875年(明治8) First Book Zoology 『動物学初歩』出版(37歳)
1877年(明治10) 4月12日 東京大学設立
 6月17日 深夜に横浜着
 6月19日 大森駅をすぎ、大森貝塚を見つける(39歳)
 6月29日 文部省学監のマレーと日光へ
 7月12日 東京大学教授に就任(契約は2年間)
 7月21日 松村任三と江ノ島で貝採集
 9月12日 東京大学で最初の講義
 9月16日 大森貝塚で表面採集
 10月 9日 大森貝塚を発掘
 11月 5日 横浜を発ち、一時帰米
 11月19日 松浦佐用彦・佐々木ら大森貝塚発掘
 12月20日 明治天皇、大森貝塚出土品を観覧
1878年(明治11年)3月11日 大森貝塚発掘終了を東京府に通知
 4月23日 妻子とともに横浜へ
 7月7日 弟子の松浦佐用彦没
 7月13日 矢田部らと横浜より北海道へ
 8月9日モースの推挙で後任としてフェノロサ来日
1879年(明治12年)5月7日 横浜から船で九州・関西
 8月末 Shell Mounds of Omori 出版
 9月3日 東京大学との契約が満了し、帰米
1880年(明治13年)1月 『大森介墟古物編』矢田部良吉訳
 7月3日 ピーボディー科学アカデミー館長に就任(42歳)
1882年(明治15年)6月4日 ビゲローと古美術収集のため来日(3度目)
 7月26日 フェノロサ、ビゲローと陸路で東海、近畿、中国地方へ
1883年(明治16年)2月14日 単身で中国、東南アジア、欧州へ
 6月5日 ニューヨーク着
1886年(明治19年) Japanese Home and Their Surroundings
 (『日本の住まい』刊行)(48歳)
1890年(明治23年) 日本陶器収集品をボストン美術館に譲渡
1898年(明治31年) 勲三等旭日章を授与
1901年(明治34年) Catalogue of Japanese Pottery
 (『日本陶器コレクション目録』刊行)(63歳)
1911年(明治44年) 妻ネリー没
1914年(大正3年) ボストン博物学会会長に就任
1916年(大正5年) セーラム・ピーボディー博物館名誉館長となる
1917年(大正6年) Japan Day by Day
(『日本その日その日』)出版(79歳)
1922年(大正11年) 勲二等瑞宝章を授与
1925年(大正14年)12月16日 セーラムの自宅で死去(87歳)
1926年(昭和元) 遺言で全蔵書(12,000冊)を東京大学に寄贈

モース収集の主要民具

 来日したモースは眼にするモノ、耳に入る音、すべてに感動し、それらを次々とスケッチしたり、日記にとどめたりしました。江戸から明治へ時代が移り、日本人の価値観も変化し、失われていく品々が店頭に並んでいました。
「この国のありとあらゆるものは、日ならずして消え失せてしまうだろう。私は、その日のために日本の民具を収集しておきたい。」、という考えでモースは集めていきます。
 モースは3度日本を訪れ、収集した民具は680点です。これらのコレクションは、マサチューセッツ州ボストン市の北45kmのセーラム市にあるピーボディ―・エセックス博物館に収蔵されています。展示室に一歩踏み入れると、まるで江戸時代にタイムスリップしたようです。
 陳列品の一部をあげると、正月の注連(しめ)飾り、かるた、こま、凧(たこ)、羽子板、柱飾り、絵馬、迷子札、茶道具、火鉢、海苔(のり)、金平糖(こんぺいとう)、蚊取(かとり)線香、箱枕、行灯(あんどん)、提灯(ちょうちん)、団扇(うちわ)、足袋(たび)、櫛(くし)、釣り針、鋤(すき)、鍬(くわ)、大工道具、墨壺(すみつぼ)、看板(薬屋、絵具屋、団子(だんご)屋、八百(やお)屋)といったように、どれをとっても職人の真心(まごころ)と技(わざ)と感性が投影され、見ているだけで心がときめきます。
 モースは、さまざまな生活用具を集め、日本人と日本を知ろうとしました。

 モースの名著『日本その日その日』から石川欣一訳(石川千代松の子)昭和45年(1970).平凡社
・日本人はとても正直(明治10年6月:横浜)
人々が正直である国にいることは気持ちが良い。私は財布や時計に注意しようとは思わない。私は、錠(じょう)をかけぬ部屋の机の上に小銭を置き放しにするが、日本人の子供や召使いは一日に何度も出入りするのに触れてはならぬものにはけっして手をつけない。
・貧しい人々も、礼儀正しく、思いやりをもつ(明治10年6月:東京)
 簡素な衣服、整頓(せいとん)された家、清潔(せいけつ)な環境、自然およびすべての自然物に対する愛、簡素で魅力的な芸術、礼儀正しい態度、他人の気持ちに対する思慮(しりょ)…これらは恵まれた階層の人々だけではなく、最も貧しい人々も持っている特質である。
・日本人はきれい好きな国民(明治10年6月:横浜)
 日本人のきれい好きは外国人が常に口にしている。日本人は、家に入るのに、足袋(たび)以外は決して履(は)かない。木の下駄(げた)や藁(わら)の草履(ぞうり)を文字どおり踏みはずして入る。最も貧しい階層の子供たちは家の前で遊ぶが、地面で遊ぶのではなく、筵(むしろ)を敷いてもらうのである。どこの町にも村にも浴場があり、それも必ず熱い湯である。
・日本中どこにも落書きの跡がない(明治10年8月:神奈川)
 人力車に乗って田舎を通っているうちに、垣根や建物を汚(よご)すあらゆるしるし、ひっかき傷、その他の落書きがまったくないことに気づいた。
・日本人ほど自然を愛する国民はいない(明治10年9月:東京)
 日本人は世界で最も自然を愛する、最もすぐれた芸術家であるように思われる。彼らは誰も夢にも見ないような意匠(いしょう)を思いつき、それを信じられぬほどの力強さと自然さをもって製作する。彼らは最も簡単な題材を選んで最も驚くべきイメージを創造する。彼らの絵画的、装飾的芸術に関する驚嘆(きょうたん)すべき特徴は、装飾の主題として松や竹などの最もありふれた対象を使用するという点である。
・つい先頃輸入した品物をもう製造している。
・障子(しょうじ)の穴も桜の花の形の紙で修繕する。
・婦人に対する敬愛と礼儀は著しく欠けている。
・他人の面前で接吻(キス)はしない。
・モチは豆の粉にまぶして食うとうまい。
・豆腐(とうふ)はできたての白チーズのかたまりか。
・冷麦(ひやむぎ)は食うのが大変むずかしい
・大道で砂絵師が地面に絵を描いていた。

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  • 2015年11月05日(木) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『文字の理解』 土肥孝


文字の理解

 
文社会は文字の概念を持っていない。

文字とは2次元のものであり、それを概念化・図形化することは人類にとって高度な知識・技術といえる。それ故、文明は文字を持つことが必要条件となる。文字を持たなければ契約・コマーシャル(商行為)・徴税は存在しえない。少なくとも日本列島においては3世紀後半でその水準にまで至っていない。

 中国から渡来した鏡を模倣して製作された鏡は反転文字が見られる。つまり鏡の外帯に記された文字を理解出来ず、文字を図像と見ていた。また、「仏獣鏡」という鏡が存在するが、日本列島には仏教公伝以前に仏の姿は存在していた。この図像を当時の人々は仏として見ていたのではなく、「図像」として理解していた。

 したがって、大陸でB・C1800年頃に出現した「文字の概念」を、日本列島地域は2000年以上後まで、ついぞ理解出来なかった。この2000年以上という時間はキリスト誕生から現在までの経過時間と同一である。

 これは社会発達史上、額面通りに受け取れば、「遅れていた」ことになる。「文明」という概念を導入して当時の社会を通観しても、それは妥当な見解である。

「文字の導入」の遅れを悲観的に見るのではなく、これを楽観的・肯定的に見たとしたらどうなるのか・・・・・。

 縄文弥生時代は、2次元上に別の概念を表現することはしなかった。しかし、縄文式土器(中期)を見れば、見事に胴部に「踊りの一瞬」<写真1>や「踊りの風景」<写真2>を描出している。


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(写真2)" class="protect" alt="ファイル 23-2.jpg" width="287" height="300" />
 したがって「縄文時代に絵画が描けなかった」という見解は明らかに誤りである。「平面に図像を描く能力はもっていた。しかし文字の概念を受容することはなかった」ということが真相なのだろう。縄文時代は2次元表現として、「新しき概念」として文字を採用しなかったが、その半面で立体的な造形に長ける。それは縄文時代の代表的精神遺物である「土偶」を見れば一目瞭然である。

 土偶は同時代世界各地の人物表現を通観しても世界最高水準の作品であった。これは立体的造形表現に長けていた証拠である。

つまり、3次元で見えるものは2次元に写すことはできるが、文字は受け容れなかった。それは目に見えない、あるいは当時の知識を駆使しても理解出来ない現象をただちに崇め奉ってしまう縄文時代の行動様式とイコールになる。だから後世の「八百万の神」なのである。諺にもあるように、「さわらぬ神に祟りなし」として流してしまう。つまり、知識・理解を超えた「超常現象」を崇め奉るが、くよくよ考えないのである。しかし、多くの共感を得た事象は「伝説」・「神話」となり、人々の心の中に引き継がれる。それが「日本列島地域内で生き抜く知恵」であった。

縄文時代は2次元の図像も3次元の立体物も言葉で伝えることはしなかった。「見て、自分が理解すればいいの」である。

したがってオリジンである人間が首と胴を切られ、表・裏面を同一面に描こうと<写真3>、頭部の周囲を腕が巡るような図像<写真4>を表現しようと一向に構わない。それが縄文時代の人々の「見たまま」なのだから。

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(写真4)" class="protect" alt="ファイル 23-4.jpg" width="237" height="300" />

※写真:『日本の美術10 No.497縄文土器中期 土肥孝(至文堂)』より

しかし、それらは現代の美術視点では「シュルレアリスム」と呼ばれてしまう。縄文時代の図像表現は、3500年以上後に起こったシュルレアリスムを獲得していたのである。これは縄文時代に限ったことではない、世界各地に点在する「無文字社会」にしばしば見られる現象である。

土肥 孝(東洋大学大学院講師)

  • 2011年05月02日(月) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『歴史の見方・文化の見方』 土肥孝


歴史の見方・文化の見方

 時の経過の中で感性のシンクロ(レヴィストロースは「気になる類似」と唱える)が時折見受けられる。

そのシンクロを近い昔、そしてちょっと遠い昔に見出すとき、人間の進歩とは何かを考えてしまう。

 テクノロジー、エネルギー源活用の進歩は認めよう。しかし、それは思想・哲学の変還とは別物である。これを混同して歴史を語ってはならない。この視点を見失えば、歴史はレヴィストロースがいうように“近代”の最後の神話作りになってしまう。

 現在の史観は時間的経過を連続させて物語風に叙述するものである。しかし、それは「現代が最も進化した社会」という「後(アト)から目線」で昔を見ている物語である。

 数千年という時間を超越してプラトン哲学・ユダヤ教・キリスト教がヨーロッパで支持されている。東洋では儒教思想、そしていくつかの地域では仏教が継続している。つまり、数千年とういう時間を経ても、基盤の強固な思想や哲学は神話や伝説にもならずに現代の行動規範となっている。

 美術・文化の見方は思想・哲学的見方で行わなければならないのである。したがって私は文化を観察する時、その処理用語として「未開・野蛮」は用いない。同様に「人種・民族」も用いない。

 それが、ちょっと昔の人々をフィルターなしで見る方法である。

情報の誤伝達と最新の科学

NASAから

「地球外生命体について重要発表を行う」というアナウンスがあった。

これを受けたマスコミは「地球外生命体=宇宙人」と勘違い(勝手に)して「NASAが宇宙人の発表をする」と大騒ぎをした。

このNASAの発表は「アメリカ・カリフォルニア州モノ湖(サンフランシスコの東300kmに所在する湖)の湖底微生物(バクテリア)中に、リンを摂取せず、リンを砒素に置き換えて生命を維持するものが存在する」ということであった。

これは冷静に受け取れば(私に言わせれば)「地球内生命体について重要な発表」とすべきことを「地球外」とアナウンスしただけのことである。

このアナウンスの裏側には、NASAの存在誇示、予算獲得、過大な実績報告、という「粉飾」が見え隠れする。

このアナウンスを勘違い(早トチリ)して「宇宙人についての重要発表」として放送したのがマスコミである。

実際には「宇宙人」の話ではなく「バクテリア」の話だったのである。誤伝達・勝手な解釈・早トチリをタレ流すトンでもない形になってしまう典型である。

勘違いしたマスコミは「宇宙人」の発表と勝手に報道した。まさにマスコミはNASAのジョークに見事にのってしまった。 誤伝達とはこのような状況下で起こり、それらがしばしば歴史を変えてしまうこともある。

科学的に簡単に言えば、この発表は「リンを必要としない生物は<地球上には・・・筆者註>」いない。という定義を根底から覆したもので、科学的には重要な発表であることは間違いない。そのバクテリアは「CFAJI」という。

2006年から始まる「冥王星の太陽系惑星からの脱落(冥王星は1930年に発見されるが、結果的に発見時から勘違いが始まっていた。つまり地球並の質量をもつ星と考えられ、太陽系の惑星に組み込まれるのだが、調べていくうちに冥王星は月より小さい星となってしまい「準惑星」に降格された。この一連の経過は冥王星には何の罪ものなく、「降格」は人間の都合・科学の都合であった)」、ダークエネルギー(宇宙膨張の原因と考えられる仮想的存在)仮説、そして今回のバクテリアの発見と、現在までの科学の常識を根底から覆す流れ、つまり「科学のパラダイム・シフト」が現在進行中である。しかし、これは「新しき発見」ごとに引き起こされることで、これが「科学技術の進歩」の実態なのである。つまり「最新の科学」ですら完璧とは言えないのである。

(平成22年12月3日)

「母と子」の像

 縄文時代の代表的精神遺物とされる「土偶」の中に「母親(祖母か姉の可能性もある)が子供を背負う土偶」(図1)と「子供に授乳する土偶」(写真1)が存在する。この姿形の中には当時(縄文時代中期前半)の思考が表現されているのではないだろうか。

" class="protect" alt="ファイル 22-1.jpg" width="150" height="150" />(図1)          
" class="protect" alt="ファイル 22-2.jpg" width="149" height="170" />(写真1)

一般的には、この2つの土偶は「おんぶする場面」「授乳する場面」とされ、微笑ましい光景を描写したものと考えられている。

しかし、この2つの土偶をさらに共通する「母と子のスキンシップ」としてとらえたらどうだろうか。

 医学界では「母と子のスキンシップの大切さ」を教える例として、神聖ローマ帝国フリードリヒ2世(1194-1250)の「悲惨な社会実験」がとり上げられる。

 この「悲惨な社会実験」とはフリードリヒ2世が赤ん坊数人を母親から引き離し、その赤ん坊たちが一切人間的な触れ合い、コミュニケーションを遮断された状態でどう育つかの実験である。

 実験の内容とは授乳(母親から引き離したので母親の乳首からの授乳ではない)や栄養補給(食事)や入浴による衛生管理など、生きていくために必要な世話を行っても抱っこや添い寝・話しかけは一切行なわず育てるというものだった。

 この実験の結果、その被験者となった赤ん坊は全員、言葉を話す前に死んでしまった。

 つまり「赤ん坊(子供)」は最低限の栄養や衛生状態が整ったとしても、それだけでは生きてはいけず、母親(母親が出産直後に死んだとしても代理母の)の愛情とスキンシップ、手厚い世話がどうしても必要だということである。

 そして、それらの愛情・スキンシップが「赤ん坊(子供)」→「成人」と最長するためにはなくてはならないものであることを明らかにしたのである。

 前述の二つの土偶の姿形を「場面」、「光景」」としてとらえるのではなく、「母と子のスキンシップ」としてとらえると、何が子供にとって重要なのかを示している土偶になる。

 つまり、縄文時代中期前半の人々は数千年後に実験によって得られた結果をすでに共通認識としてもっており、その重要な「母と子のスキンシップ」として「おんぶ」や「授乳」を土偶に表現したのではなかろうか。子供達は将来のコミュニティーを継続していくために重要な存在と見られていたのである。

 この考えは、21世紀・現代の「子供手当」の考えとなんら変わりない「母親によるスキンシップ」ではなく、「現金」に変わってしまったことが、縄文時代の思考より後退していると思えるのである。

 この土偶は製作された時期は、縄文時代の中で集落(コミュニティー)が形成され、完成に近づく時期である。その形成過程の中で得た経験(子供が成長してコミュニティーの重要な一員になるためには母親のスキンシップが大切だということ)を教育的に形で表現、あるいは経験情報を伝達する媒体としてこれらの土偶を作ったのではないだろうか。

 そのような意図で作られて土偶があるとすれば、土偶造形を画一的に考えることはできず、当時の人々の心情・試行・哲学を写し出す鏡ともなるのである。

  • 2011年05月02日(月) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『日本列島の巨石文化・2』 佐治芳彦


日本列島の巨石文化

 日本列島にも巨石文化が存在したことは先史考古学的な事実である。

 日本の巨石文化の特徴は、まず巨石記念物のスケール規模や使用された岩石のサイズ寸法が一般に小形である点がまず挙げられる。 たとえばカルナック(仏)の列石は長さ一~六メートルにおよぶ巨大な自然石を幅100~百数10メートルの間に10~13個直立させ東西方向に列状に配置されている。 それは三群に別れているが、短いもので長さ100メートル、長いものでは1120メートルにおよび、列石数は全体で3000個に近い。 このような巨大なスケールの列石は日本には見あたらない。 また、イギリス南部ソースベリー平原のストーンヘンジと秋田県の大湯の環状列石とは比較にならない。

 だが、日本の巨石文化の最大の特徴は、神道だけでなく仏教的民俗のなかに現在もなお生きていることだろう。

いわさか磐境

 ふつう「いわくら磐座」とならび称されているが、「磐境」は「ひもろぎ神籬」とともに神社の原始形態とされる(神域を示す)。 その「磐」の原意は「山の石」(岩)であり「海の石」(磯の石=小石)に対するものだ。 つまり、大きな岩=巨石である。 したがって磐境とは、たんなる斎場ではなく、巨石によって囲まれた神域だったと考えられる。

磐座

 磐座は、神のいます���固な座(席)ではなく、神がいます山中の巨石をさしていた(この巨石は山麓から運んだ自然石とかぎらず地上から露頭している巨石の場合がある)。

 なお、いわゆる「日本のピラミッド」(後述)といわれる御神体山には、中腹に磐境、山上付近に磐座に相当する巨石・巨岩が見られる。

 この磐境や磐座の存在する御神体山は、日本の巨石文化の特徴の一つである「日本のピラミッド」のレリック残存、いや生きているエビデンス証拠といえるかもしれない。

環状列石

 代表的な環状列石である大湯遺跡(秋田県)は、万座と野中堂の二つのストーンサークルからなっている。 この二つの環状列石は夏至のときに太陽が沈む方向をかなり正確に意識して造られていることが分かった。 そこから「日時計」の考察にウエイトをおく天文考古学がアピールされたが、たしかに夏至や冬至、さらには春分や秋分での日没を意識した、つまり縄文カレンダーの基準となるモニュメントの配置がなされている環状列石が全国に散在している。 なかでも中部高地(長野県の阿久遺跡、上原遺跡)からは環状列石や集石機構をもつ大集落の出現と、ハイ・レベルな縄文文化の存在が示されている。

 だが、それらの環状列石が周辺集落の墓地であったことも否定できない。 ここから、ストーンサークルを祖先祭祀の場とする見解が出てくる。 複数集落に分散した縄文人が、たとえば後世のお盆帰りやお彼岸の墓参と似た目的で、このような聖域を共同で建設し、かつ維持したのではないかという発想だ。 つまり、縄文共同体の地域的アイデンティティ維持のために造ったという発想である。 とすれば、この種の遺跡分布の密度の濃い東北地方の人々のお盆における帰省願望(かつて小松左京氏は、東北人のお盆の帰省願望の熾烈さから「東北出身の人々は月世界に出稼ぎにいっても地球カレンダーでお盆の季節になれば帰省するのではないか」とったことがあった)は縄文以来のものである可能性もある。

積石塚

 積石塚(ケルン)は、礫石などをピラミッド型に積み上げたもので、盛り土での墳丘と同じく墓の標識として、また、墓の装飾や保護のために造られたものと思われる(周囲に環状列石をめぐらした例も少なくない)。 このケルンは現在では登山者の道標なり、記念物とされている。 日本では、スポーツとしての登山が移入されてのちのものと思われているが、その起源は巨石文化の記憶に求められるのではあるまいか。

 また、「地蔵和讃」の賽の河原の積石(ケルン)は、中世以降、民衆に広まった。 この賽の河原の「賽」とはもともと「境」を意味する。 つまり、この世とあの世の「境」に在る我が子への哀惜が、この仏典的には根拠がない「賽の河原」の「地蔵和讃」を創った… 私は、これも民衆のあいだに生きている巨石文明のレリック(残存物)と見たい。

巨石広場

 巨石記念物(とくにメンヒル)を中心とした広場をさす。 それは世界各地の巨石遺跡に見られるが、日本の縄文集落遺跡にも見られ、祭祀場であり集会の場であったと考えられる。 この事実は重要である。 すなわち、古代アテネのアーゴラ広場を例にとり、民衆の広場の不在をもって日本の民主主義を云々する人々がいるが、そうした見解は縄文の巨石広場の存在についての無知に基づくのではないか。 私はこの巨石広場での共同体の祭祀や儀礼やデスカッションに古代世界にほぼ共通した原始民主制の存在を主張したい。 つまり、環状住居の中央にこのような巨石広場をもっていた縄文社会は原始民主制社会だったということである。 私が、この広場を中心とした縄文集落の空間デザインに注目したのは、D.フレーザーが、アフリカのムティ・ピグミーの円形の村落設計から原始平等主義を読み取ったこと。 また、北アメリカのオグララースー族は、宇宙を円と考え、その観念を自分たちの村落のデザインに投影しているが、いずれも住居が広場の中心から等距離に弧状に配置され、しかも入り口はすべて広場に面しているということに示唆されたからである。

  D.フレーザーは、採集民であるムプティ・ピグミーの場合、ある男が自分の住居の戸口で、いくらわめいても、それはあくまでも個人的(私的)な発言で、それ以上の重みをもたないが、彼が広場の中央に立って話すときは、その発言は部族にたいする公的な発言として受け取られるという。 この例から縄文人と巨石広場との関係について考えると、縄文階層社会説(奴隷所有! )を大声で主張するのはいかがなものであろうか。

巨木遺構

 巨石ではなく巨木のモニュメント記念物の存在は、これまでインドのアッサム地方やミャンマーの山地民族の例が知られていたが、日本でも真脇・チカモリ・寺地、三内丸山などの縄文遺跡からも明らかとなった。

 このチカモリ遺跡や間脇遺跡、寺地遺跡など巨木の列柱をウッドサークル(環状列柱)と呼んでいる人も多いが、ストーンサークル(環状列石)とちがって天文観測的な機能は明らかでない(ただし、三内丸山の場合は夏至を意識している)。 したがって信仰的な意味合いがより濃いと見るべきだろう。 天降る神のヘリポートとして立てられたと見る人(梅原猛氏)もいる。 だが、縄文晩期のチカモリ遺跡ならまだしも、はるかに古い真脇遺跡(縄文前期)の場合、はたして天降神信仰があったかどうかは疑問である。

 それにしてもなぜ石でなく木か? 縄文人は「石の文明」に結局はなじまず、「木の文明」を指向したのか。 つまり「砂漠の思想」と「森林の思想」との違いか。 それとも建設素材入手(と運搬)の問題から巨木を選んだのか? ちなみに古代の巨木の生産地として有名なレバノン地方からウッドサークルの遺跡は報告されていないようである。

日本のピラミッド

 日本の巨石文化の特徴の一つにピラミッドがある。

 戦前、日本のピラミッドの存在を提唱したのは酒井勝軍だった。 彼の所説は戦後の古史古伝ブームとともに復活し、「サンデー毎日」の大々的キャンペーン(1984年)によって、多くの超古代研究者によって取り上げられることになった。

 祭祀考古学���立場からこの問題にアプローチしている鈴木旭氏の所属する環太平洋学会の定義によると、

 山容が四角錐の形をしている事。 それは、自然山でも、人工造山によるものでも構わない。
  山頂部が祀り場になっており、それに通じる参道がある事。
 山の周辺にも祭祀場があり、その山と一体となっている事。
 エジプト系のピラミッド群と区別して、環太平洋型ピラミッドと呼称する。

 ただし、これらの条件を一応満たしている人工的整形を施した山(日本のピラミッド)としては秋田県の黒又山を典型とするというのが鈴木氏の見解である。 なお氏はピラミッドというよりも「山岳祭祀遺跡」として捉えるほうがよいと考えているようだ。 脱古史古伝派の鈴木氏らしいアプローチであるが、ピラミッドであれ山岳祭祀遺跡であれ、山上や中腹に、しかも方位や太陽観測など考慮して、磐境や磐座とされる巨石を配置するという技術は、日本の巨石文化のユニークな達成である。

 だが、日本のピラミッドを山岳祭祀遺跡と限定してしまうことは、ある意味で巨石文化の矮小化に繋がりはしないかというのが日本のピラミッド・ファンの危惧である。 UFOとの連絡施設などというのは一応論外としても「太陽の神殿」としての可能性が考えられる。 ちなみに太陰(月)信仰から太陽信仰への移行は古代文明の大きな画期である。

 なお、環太平洋学会では、このような日本のピラミッドと同じ様式の遺跡が、韓国やインドネシア、太平洋諸島、さらに中南米に散在していることから、古代の環太平洋文明の存在の可能性を主張しているが、古代の環太平洋文化圏論者である私にも賛成できる仮説である。 すなわち、鈴木氏らも無意識裡に私と同じく「古代航海民」の活躍を前提としているようである。

なぜ巨石記念物を造るのか

 日本にはストーンサークルを含む配石遺構が500以上ある。 縄文人がそれらをなぜ造ったのだろうか。 ストーンサークルについてはすでに述べたが、メンヒル(立石)やドルメン(支柱石=支柱墓というが墓だけとはかぎらない)のような巨石記念物建設の動機はなにか。 これについて納得のいく説明は文化人類学でいう「勲功祭宴(feast of merit)」説であろう。

 勲功祝祭とは、インド、東南アジア、オセアニア、さらにはマダカスカルを中心に見いだされるポトラッチ型の祝宴である。 ここでいう勲功とは、ふつう外敵からの集落の防衛、大型野獣の捕殺、家畜など財産の大量放出である。 そして、勲功者(祭宴の主催者)には、その栄誉を顕彰する意味で、ある種の称号や自宅に特別な飾り付けをする権利を与えられ、また、木柱や巨石記念物(メンヒルやドルメン、ストーンサークル、石壇など)が記念として設立される(この建設自体も祝宴の一環とされる)。 それによって、勲功者の霊魂が生前の社会的地位に対応した来世での幸福を保障されるとする。 このような古代人の観念をハイネ=ゲルデルンは「時間的・系譜的な世界観」とよんだ。 この世界観が、古代文明地域において、天体の運行や宇宙の構造と人間の運命が依存しているという「空間的・呪的・宇宙的世界観」に取って代わられたとき、エジプトのピラミッドが建設されたのだろうか。 ピラミッドを巨石記念物に含めないのは、その世界観の違いによるのかもしれない。 そうだとすれば、いわゆる日本のピラミッドがピラミッドであるかどうかは、その世界観によることとなる。

岩刻文様-岩石文字

 巨石文化伝播の仮説に有力な援軍が現れた。 それはハーバード大学の名誉教授(海洋学)バリー・フェルの『紀元前のアメリカ』のペトログリフ岩刻文様(ロック・アートとも)の研究である。
 
彼はコロンブス以前のアメリカ移住者の存在を示す神殿・巨石記念物・墳墓などとともにペトログリフ石に刻まれた碑文を取り上げ、古代における壮大な文化移動を立証しようとした。

 一方、日本では彦島(山口県)で発見された岩石文字(ペトログリフ)のなかにシュメール文字が見い出されたというショッキングな報告が吉田信啓氏からなされた。 だが、古事記をシュメール語で読めるとか日本の地名をシュメール語で解読? できるなどという情報に食傷していた私には川崎真���氏の問題の碑文の全文解釈についても懐疑的であるが、鈴木旭氏は日本のペトログリフからシュメールの神性を象徴する「七枝樹」が見えることから、古代シュメールと古代日本の文化的交流を仮定している。 だが、この「七枝樹」はオリエントの「生命の樹」であり、その日本への渡来については私なりの仮説を持っている(小著『謎のシルクロード』徳間書店、1980 参照)。 したがって、現在もっとも肝要なことは、各地から「発見」されるペトログリフにたいするオリエント古語の専門家による解読作業だろう。 その結果、もし、それがシュメール語であることが、学問的に確認されたならば、それは日本の古代学研究にとっての革命となるからである。

むすび

日本の巨石文化が終焉したのは、巨石記念物と結びついた宗教や呪術の衰退と、それによる技術集団の解体であり、それをもたらしたのは気候の寒冷化と食料難による共同体の衰弱であろう(勲功祭宴の社会・経済的余裕などなくなった)。 したがって、日本列島に巨石文化建設に匹敵する国家的土木事業が誕生するのは、水田稲作による社会的富の蓄積がすすみ、その富を独占するファラオ的な権力者の発生した古墳時代以降となる。

(岐阜県位山の岩座)" class="protect" alt="ファイル 25-1.jpg" width="490" height="327" />
 
(寺地遺跡巨大木柱)" class="protect" alt="ファイル 25-2.jpg" width="490" height="326" /> 

佐治 芳彦(さじ・よしひこ)

国際縄文学協会会員
作家

会津若松生まれ。 東北学院英文科卒。 東北大学文学部史学科卒。 現在は古代から現代史まで幅広い分野の 執筆で活動中。
『九鬼文書の謎』(くかみもんじょのなぞ)、『縄文の神とユダヤの神』など著書多数

  • 2011年05月01日(日) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『日本の巨石文化・1』 佐治芳彦


日本の巨石文化

はじめに

人間は生存のために他の動物と同じく自然環境と適応関係を保っていく。人間の、この自然環境にたいする適応体系が「文化」である。これは、特定の社会の人々によって習得され、共有され、伝達される行動様式ないし生活様式の体系といってもよい。

さて、人間の文化は、発生の段階から「石」と大きくかかわってきた。人類と石器とのかかわりは250万年以上に遡るが、未加工の石の利用はさらに古く、それは約400万年以前の人類の発生にまで遡るだろう。つまり、彼らは道具を使用することで人類となったのであり、その原初的道具に石が含まれていたからである。やがて、石は加工されて石器となり、さらに建造物の素材として広く利用されるようになった。

考古学的な時代区分でいう石器時代は、ふつう旧・中・新の三期に別れるが、その最後の段階である「新石器時代」(日本ではほぼ縄文時代にあたる)に世界の各地域で、面取りや化粧仕上げなどの加工が比較的少ない大きな石を用いて作られた建造物、すなわち「巨石記念物」(megalithic monument)を特徴とする文化が生まれた。これが「巨石文化」である。

巨石記念物

 巨石記念物にはいくつかの種類がある。その代表的なものとして次のようなものがある。すなわち、自然石ないし多少の加工を施して地上に立てられた単一の柱状の石である「メンヒル(立石)」。つぎに「立石群」、これには「環状立石(ストーンサークル)」と「列石(アリニュマン)がある。二基ないしそれ以上の支石で一枚の扁平の蓋板石を支えたテーブル状の構築物である「ドルメン」これには墳墓(支石墓)ドルメンと記念ドルメンとがある。なお、イースター島のモアイは巨石記念物に含められるが、ピラミッドやスフィンクス、オベリスクなどは除外される。

巨石文化の分布

 この文化は、新・旧両大陸の主として沿岸部にひろく分布している。すなわち、北欧(スカンジナビア半島)からドイツのバルト海沿岸部、フランスのブルターニュ地方、対岸のイギリスのケント地方、イベリア半島の大西洋、地中海沿岸部、南フランス、イタリー半島、北アフリカの地中海沿岸部、黒海沿岸部、紅海・ペルシャ湾沿岸部、アフリカの大西洋・インド洋沿岸部、インド亜大陸のアラビア海、ベンガル湾の沿岸部、インダス・ガンジス河流域、デカン高原、ヒマラヤ山麓などの内陸部、ミャンマーのベンガル湾沿岸部、インドシナ半島の南シナ海・タイ湾沿岸部、インドネシア、オセアニア。中国の東シナ海沿岸部、中国東北部の渤海湾沿岸部、シベリア日本海沿岸部、朝鮮半島、日本列島、さらに新大陸の北・中・南アメリカの太平洋・大西洋沿岸部にわたっている。

伝播の問題

 巨石文化は、上記のように南極大陸をのぞく地球の諸大陸の沿岸部に広く分布していることから、当然「伝播」の問題が浮上してくる。伝播とは文化要素が一つの文化から他の文化に移る過程をさす。

 伝播論で有名なイギリスのエリオット・スミスらの太陽巨石文化移動説(人類文明エジプト起源説)は、現在受入れられていないが、巨石文化の伝播そのものを否定することは難しい。かつて「コンティキ号の冒険」を試みたトール・ヘイールダールは、日本の代表的人類学者から「エリオット・スミスの亡霊」と酷評されたが、彼の「ラー号の冒険」によってエジプトと中南米との葦船による航海の可能性が実証されたことによって伝播説は甦ったともいえる(なお、オーストリアの民族学者のハイネ=ゲレデルンは、この伝播に従事した人々を「エニシエント・マリナーズ古代航海民」と呼んだ)。

(岩手県樺山遺跡)" class="protect" alt="ファイル 24-1.jpg" width="490" height="326" />

(坂井遺跡環状列石)" class="protect" alt="ファイル 24-2.jpg" width="490" height="326" />

(新潟県朝日村三面遺跡)" class="protect" alt="ファイル 24-3.jpg" width="490" height="326" />

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