International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『文字の理解』 土肥孝


文字の理解

 
文社会は文字の概念を持っていない。

文字とは2次元のものであり、それを概念化・図形化することは人類にとって高度な知識・技術といえる。それ故、文明は文字を持つことが必要条件となる。文字を持たなければ契約・コマーシャル(商行為)・徴税は存在しえない。少なくとも日本列島においては3世紀後半でその水準にまで至っていない。

 中国から渡来した鏡を模倣して製作された鏡は反転文字が見られる。つまり鏡の外帯に記された文字を理解出来ず、文字を図像と見ていた。また、「仏獣鏡」という鏡が存在するが、日本列島には仏教公伝以前に仏の姿は存在していた。この図像を当時の人々は仏として見ていたのではなく、「図像」として理解していた。

 したがって、大陸でB・C1800年頃に出現した「文字の概念」を、日本列島地域は2000年以上後まで、ついぞ理解出来なかった。この2000年以上という時間はキリスト誕生から現在までの経過時間と同一である。

 これは社会発達史上、額面通りに受け取れば、「遅れていた」ことになる。「文明」という概念を導入して当時の社会を通観しても、それは妥当な見解である。

「文字の導入」の遅れを悲観的に見るのではなく、これを楽観的・肯定的に見たとしたらどうなるのか・・・・・。

 縄文弥生時代は、2次元上に別の概念を表現することはしなかった。しかし、縄文式土器(中期)を見れば、見事に胴部に「踊りの一瞬」<写真1>や「踊りの風景」<写真2>を描出している。


(写真1)" class="protect" alt="ファイル 23-1.jpg" width="180" height="300" />
(写真2)" class="protect" alt="ファイル 23-2.jpg" width="287" height="300" />
 したがって「縄文時代に絵画が描けなかった」という見解は明らかに誤りである。「平面に図像を描く能力はもっていた。しかし文字の概念を受容することはなかった」ということが真相なのだろう。縄文時代は2次元表現として、「新しき概念」として文字を採用しなかったが、その半面で立体的な造形に長ける。それは縄文時代の代表的精神遺物である「土偶」を見れば一目瞭然である。

 土偶は同時代世界各地の人物表現を通観しても世界最高水準の作品であった。これは立体的造形表現に長けていた証拠である。

つまり、3次元で見えるものは2次元に写すことはできるが、文字は受け容れなかった。それは目に見えない、あるいは当時の知識を駆使しても理解出来ない現象をただちに崇め奉ってしまう縄文時代の行動様式とイコールになる。だから後世の「八百万の神」なのである。諺にもあるように、「さわらぬ神に祟りなし」として流してしまう。つまり、知識・理解を超えた「超常現象」を崇め奉るが、くよくよ考えないのである。しかし、多くの共感を得た事象は「伝説」・「神話」となり、人々の心の中に引き継がれる。それが「日本列島地域内で生き抜く知恵」であった。

縄文時代は2次元の図像も3次元の立体物も言葉で伝えることはしなかった。「見て、自分が理解すればいいの」である。

したがってオリジンである人間が首と胴を切られ、表・裏面を同一面に描こうと<写真3>、頭部の周囲を腕が巡るような図像<写真4>を表現しようと一向に構わない。それが縄文時代の人々の「見たまま」なのだから。

(写真3)" class="protect" alt="ファイル 23-3.jpg" width="300" height="270" />
(写真4)" class="protect" alt="ファイル 23-4.jpg" width="237" height="300" />

※写真:『日本の美術10 No.497縄文土器中期 土肥孝(至文堂)』より

しかし、それらは現代の美術視点では「シュルレアリスム」と呼ばれてしまう。縄文時代の図像表現は、3500年以上後に起こったシュルレアリスムを獲得していたのである。これは縄文時代に限ったことではない、世界各地に点在する「無文字社会」にしばしば見られる現象である。

土肥 孝(東洋大学大学院講師)

  • 2011年05月02日(月) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『歴史の見方・文化の見方』 土肥孝


歴史の見方・文化の見方

 時の経過の中で感性のシンクロ(レヴィストロースは「気になる類似」と唱える)が時折見受けられる。

そのシンクロを近い昔、そしてちょっと遠い昔に見出すとき、人間の進歩とは何かを考えてしまう。

 テクノロジー、エネルギー源活用の進歩は認めよう。しかし、それは思想・哲学の変還とは別物である。これを混同して歴史を語ってはならない。この視点を見失えば、歴史はレヴィストロースがいうように“近代”の最後の神話作りになってしまう。

 現在の史観は時間的経過を連続させて物語風に叙述するものである。しかし、それは「現代が最も進化した社会」という「後(アト)から目線」で昔を見ている物語である。

 数千年という時間を超越してプラトン哲学・ユダヤ教・キリスト教がヨーロッパで支持されている。東洋では儒教思想、そしていくつかの地域では仏教が継続している。つまり、数千年とういう時間を経ても、基盤の強固な思想や哲学は神話や伝説にもならずに現代の行動規範となっている。

 美術・文化の見方は思想・哲学的見方で行わなければならないのである。したがって私は文化を観察する時、その処理用語として「未開・野蛮」は用いない。同様に「人種・民族」も用いない。

 それが、ちょっと昔の人々をフィルターなしで見る方法である。

情報の誤伝達と最新の科学

NASAから

「地球外生命体について重要発表を行う」というアナウンスがあった。

これを受けたマスコミは「地球外生命体=宇宙人」と勘違い(勝手に)して「NASAが宇宙人の発表をする」と大騒ぎをした。

このNASAの発表は「アメリカ・カリフォルニア州モノ湖(サンフランシスコの東300kmに所在する湖)の湖底微生物(バクテリア)中に、リンを摂取せず、リンを砒素に置き換えて生命を維持するものが存在する」ということであった。

これは冷静に受け取れば(私に言わせれば)「地球内生命体について重要な発表」とすべきことを「地球外」とアナウンスしただけのことである。

このアナウンスの裏側には、NASAの存在誇示、予算獲得、過大な実績報告、という「粉飾」が見え隠れする。

このアナウンスを勘違い(早トチリ)して「宇宙人についての重要発表」として放送したのがマスコミである。

実際には「宇宙人」の話ではなく「バクテリア」の話だったのである。誤伝達・勝手な解釈・早トチリをタレ流すトンでもない形になってしまう典型である。

勘違いしたマスコミは「宇宙人」の発表と勝手に報道した。まさにマスコミはNASAのジョークに見事にのってしまった。 誤伝達とはこのような状況下で起こり、それらがしばしば歴史を変えてしまうこともある。

科学的に簡単に言えば、この発表は「リンを必要としない生物は<地球上には・・・筆者註>」いない。という定義を根底から覆したもので、科学的には重要な発表であることは間違いない。そのバクテリアは「CFAJI」という。

2006年から始まる「冥王星の太陽系惑星からの脱落(冥王星は1930年に発見されるが、結果的に発見時から勘違いが始まっていた。つまり地球並の質量をもつ星と考えられ、太陽系の惑星に組み込まれるのだが、調べていくうちに冥王星は月より小さい星となってしまい「準惑星」に降格された。この一連の経過は冥王星には何の罪ものなく、「降格」は人間の都合・科学の都合であった)」、ダークエネルギー(宇宙膨張の原因と考えられる仮想的存在)仮説、そして今回のバクテリアの発見と、現在までの科学の常識を根底から覆す流れ、つまり「科学のパラダイム・シフト」が現在進行中である。しかし、これは「新しき発見」ごとに引き起こされることで、これが「科学技術の進歩」の実態なのである。つまり「最新の科学」ですら完璧とは言えないのである。

(平成22年12月3日)

「母と子」の像

 縄文時代の代表的精神遺物とされる「土偶」の中に「母親(祖母か姉の可能性もある)が子供を背負う土偶」(図1)と「子供に授乳する土偶」(写真1)が存在する。この姿形の中には当時(縄文時代中期前半)の思考が表現されているのではないだろうか。

" class="protect" alt="ファイル 22-1.jpg" width="150" height="150" />(図1)          
" class="protect" alt="ファイル 22-2.jpg" width="149" height="170" />(写真1)

一般的には、この2つの土偶は「おんぶする場面」「授乳する場面」とされ、微笑ましい光景を描写したものと考えられている。

しかし、この2つの土偶をさらに共通する「母と子のスキンシップ」としてとらえたらどうだろうか。

 医学界では「母と子のスキンシップの大切さ」を教える例として、神聖ローマ帝国フリードリヒ2世(1194-1250)の「悲惨な社会実験」がとり上げられる。

 この「悲惨な社会実験」とはフリードリヒ2世が赤ん坊数人を母親から引き離し、その赤ん坊たちが一切人間的な触れ合い、コミュニケーションを遮断された状態でどう育つかの実験である。

 実験の内容とは授乳(母親から引き離したので母親の乳首からの授乳ではない)や栄養補給(食事)や入浴による衛生管理など、生きていくために必要な世話を行っても抱っこや添い寝・話しかけは一切行なわず育てるというものだった。

 この実験の結果、その被験者となった赤ん坊は全員、言葉を話す前に死んでしまった。

 つまり「赤ん坊(子供)」は最低限の栄養や衛生状態が整ったとしても、それだけでは生きてはいけず、母親(母親が出産直後に死んだとしても代理母の)の愛情とスキンシップ、手厚い世話がどうしても必要だということである。

 そして、それらの愛情・スキンシップが「赤ん坊(子供)」→「成人」と最長するためにはなくてはならないものであることを明らかにしたのである。

 前述の二つの土偶の姿形を「場面」、「光景」」としてとらえるのではなく、「母と子のスキンシップ」としてとらえると、何が子供にとって重要なのかを示している土偶になる。

 つまり、縄文時代中期前半の人々は数千年後に実験によって得られた結果をすでに共通認識としてもっており、その重要な「母と子のスキンシップ」として「おんぶ」や「授乳」を土偶に表現したのではなかろうか。子供達は将来のコミュニティーを継続していくために重要な存在と見られていたのである。

 この考えは、21世紀・現代の「子供手当」の考えとなんら変わりない「母親によるスキンシップ」ではなく、「現金」に変わってしまったことが、縄文時代の思考より後退していると思えるのである。

 この土偶は製作された時期は、縄文時代の中で集落(コミュニティー)が形成され、完成に近づく時期である。その形成過程の中で得た経験(子供が成長してコミュニティーの重要な一員になるためには母親のスキンシップが大切だということ)を教育的に形で表現、あるいは経験情報を伝達する媒体としてこれらの土偶を作ったのではないだろうか。

 そのような意図で作られて土偶があるとすれば、土偶造形を画一的に考えることはできず、当時の人々の心情・試行・哲学を写し出す鏡ともなるのである。

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■ 『日本列島の巨石文化・2』 佐治芳彦


日本列島の巨石文化

 日本列島にも巨石文化が存在したことは先史考古学的な事実である。

 日本の巨石文化の特徴は、まず巨石記念物のスケール規模や使用された岩石のサイズ寸法が一般に小形である点がまず挙げられる。 たとえばカルナック(仏)の列石は長さ一~六メートルにおよぶ巨大な自然石を幅100~百数10メートルの間に10~13個直立させ東西方向に列状に配置されている。 それは三群に別れているが、短いもので長さ100メートル、長いものでは1120メートルにおよび、列石数は全体で3000個に近い。 このような巨大なスケールの列石は日本には見あたらない。 また、イギリス南部ソースベリー平原のストーンヘンジと秋田県の大湯の環状列石とは比較にならない。

 だが、日本の巨石文化の最大の特徴は、神道だけでなく仏教的民俗のなかに現在もなお生きていることだろう。

いわさか磐境

 ふつう「いわくら磐座」とならび称されているが、「磐境」は「ひもろぎ神籬」とともに神社の原始形態とされる(神域を示す)。 その「磐」の原意は「山の石」(岩)であり「海の石」(磯の石=小石)に対するものだ。 つまり、大きな岩=巨石である。 したがって磐境とは、たんなる斎場ではなく、巨石によって囲まれた神域だったと考えられる。

磐座

 磐座は、神のいます���固な座(席)ではなく、神がいます山中の巨石をさしていた(この巨石は山麓から運んだ自然石とかぎらず地上から露頭している巨石の場合がある)。

 なお、いわゆる「日本のピラミッド」(後述)といわれる御神体山には、中腹に磐境、山上付近に磐座に相当する巨石・巨岩が見られる。

 この磐境や磐座の存在する御神体山は、日本の巨石文化の特徴の一つである「日本のピラミッド」のレリック残存、いや生きているエビデンス証拠といえるかもしれない。

環状列石

 代表的な環状列石である大湯遺跡(秋田県)は、万座と野中堂の二つのストーンサークルからなっている。 この二つの環状列石は夏至のときに太陽が沈む方向をかなり正確に意識して造られていることが分かった。 そこから「日時計」の考察にウエイトをおく天文考古学がアピールされたが、たしかに夏至や冬至、さらには春分や秋分での日没を意識した、つまり縄文カレンダーの基準となるモニュメントの配置がなされている環状列石が全国に散在している。 なかでも中部高地(長野県の阿久遺跡、上原遺跡)からは環状列石や集石機構をもつ大集落の出現と、ハイ・レベルな縄文文化の存在が示されている。

 だが、それらの環状列石が周辺集落の墓地であったことも否定できない。 ここから、ストーンサークルを祖先祭祀の場とする見解が出てくる。 複数集落に分散した縄文人が、たとえば後世のお盆帰りやお彼岸の墓参と似た目的で、このような聖域を共同で建設し、かつ維持したのではないかという発想だ。 つまり、縄文共同体の地域的アイデンティティ維持のために造ったという発想である。 とすれば、この種の遺跡分布の密度の濃い東北地方の人々のお盆における帰省願望(かつて小松左京氏は、東北人のお盆の帰省願望の熾烈さから「東北出身の人々は月世界に出稼ぎにいっても地球カレンダーでお盆の季節になれば帰省するのではないか」とったことがあった)は縄文以来のものである可能性もある。

積石塚

 積石塚(ケルン)は、礫石などをピラミッド型に積み上げたもので、盛り土での墳丘と同じく墓の標識として、また、墓の装飾や保護のために造られたものと思われる(周囲に環状列石をめぐらした例も少なくない)。 このケルンは現在では登山者の道標なり、記念物とされている。 日本では、スポーツとしての登山が移入されてのちのものと思われているが、その起源は巨石文化の記憶に求められるのではあるまいか。

 また、「地蔵和讃」の賽の河原の積石(ケルン)は、中世以降、民衆に広まった。 この賽の河原の「賽」とはもともと「境」を意味する。 つまり、この世とあの世の「境」に在る我が子への哀惜が、この仏典的には根拠がない「賽の河原」の「地蔵和讃」を創った… 私は、これも民衆のあいだに生きている巨石文明のレリック(残存物)と見たい。

巨石広場

 巨石記念物(とくにメンヒル)を中心とした広場をさす。 それは世界各地の巨石遺跡に見られるが、日本の縄文集落遺跡にも見られ、祭祀場であり集会の場であったと考えられる。 この事実は重要である。 すなわち、古代アテネのアーゴラ広場を例にとり、民衆の広場の不在をもって日本の民主主義を云々する人々がいるが、そうした見解は縄文の巨石広場の存在についての無知に基づくのではないか。 私はこの巨石広場での共同体の祭祀や儀礼やデスカッションに古代世界にほぼ共通した原始民主制の存在を主張したい。 つまり、環状住居の中央にこのような巨石広場をもっていた縄文社会は原始民主制社会だったということである。 私が、この広場を中心とした縄文集落の空間デザインに注目したのは、D.フレーザーが、アフリカのムティ・ピグミーの円形の村落設計から原始平等主義を読み取ったこと。 また、北アメリカのオグララースー族は、宇宙を円と考え、その観念を自分たちの村落のデザインに投影しているが、いずれも住居が広場の中心から等距離に弧状に配置され、しかも入り口はすべて広場に面しているということに示唆されたからである。

  D.フレーザーは、採集民であるムプティ・ピグミーの場合、ある男が自分の住居の戸口で、いくらわめいても、それはあくまでも個人的(私的)な発言で、それ以上の重みをもたないが、彼が広場の中央に立って話すときは、その発言は部族にたいする公的な発言として受け取られるという。 この例から縄文人と巨石広場との関係について考えると、縄文階層社会説(奴隷所有! )を大声で主張するのはいかがなものであろうか。

巨木遺構

 巨石ではなく巨木のモニュメント記念物の存在は、これまでインドのアッサム地方やミャンマーの山地民族の例が知られていたが、日本でも真脇・チカモリ・寺地、三内丸山などの縄文遺跡からも明らかとなった。

 このチカモリ遺跡や間脇遺跡、寺地遺跡など巨木の列柱をウッドサークル(環状列柱)と呼んでいる人も多いが、ストーンサークル(環状列石)とちがって天文観測的な機能は明らかでない(ただし、三内丸山の場合は夏至を意識している)。 したがって信仰的な意味合いがより濃いと見るべきだろう。 天降る神のヘリポートとして立てられたと見る人(梅原猛氏)もいる。 だが、縄文晩期のチカモリ遺跡ならまだしも、はるかに古い真脇遺跡(縄文前期)の場合、はたして天降神信仰があったかどうかは疑問である。

 それにしてもなぜ石でなく木か? 縄文人は「石の文明」に結局はなじまず、「木の文明」を指向したのか。 つまり「砂漠の思想」と「森林の思想」との違いか。 それとも建設素材入手(と運搬)の問題から巨木を選んだのか? ちなみに古代の巨木の生産地として有名なレバノン地方からウッドサークルの遺跡は報告されていないようである。

日本のピラミッド

 日本の巨石文化の特徴の一つにピラミッドがある。

 戦前、日本のピラミッドの存在を提唱したのは酒井勝軍だった。 彼の所説は戦後の古史古伝ブームとともに復活し、「サンデー毎日」の大々的キャンペーン(1984年)によって、多くの超古代研究者によって取り上げられることになった。

 祭祀考古学���立場からこの問題にアプローチしている鈴木旭氏の所属する環太平洋学会の定義によると、

 山容が四角錐の形をしている事。 それは、自然山でも、人工造山によるものでも構わない。
  山頂部が祀り場になっており、それに通じる参道がある事。
 山の周辺にも祭祀場があり、その山と一体となっている事。
 エジプト系のピラミッド群と区別して、環太平洋型ピラミッドと呼称する。

 ただし、これらの条件を一応満たしている人工的整形を施した山(日本のピラミッド)としては秋田県の黒又山を典型とするというのが鈴木氏の見解である。 なお氏はピラミッドというよりも「山岳祭祀遺跡」として捉えるほうがよいと考えているようだ。 脱古史古伝派の鈴木氏らしいアプローチであるが、ピラミッドであれ山岳祭祀遺跡であれ、山上や中腹に、しかも方位や太陽観測など考慮して、磐境や磐座とされる巨石を配置するという技術は、日本の巨石文化のユニークな達成である。

 だが、日本のピラミッドを山岳祭祀遺跡と限定してしまうことは、ある意味で巨石文化の矮小化に繋がりはしないかというのが日本のピラミッド・ファンの危惧である。 UFOとの連絡施設などというのは一応論外としても「太陽の神殿」としての可能性が考えられる。 ちなみに太陰(月)信仰から太陽信仰への移行は古代文明の大きな画期である。

 なお、環太平洋学会では、このような日本のピラミッドと同じ様式の遺跡が、韓国やインドネシア、太平洋諸島、さらに中南米に散在していることから、古代の環太平洋文明の存在の可能性を主張しているが、古代の環太平洋文化圏論者である私にも賛成できる仮説である。 すなわち、鈴木氏らも無意識裡に私と同じく「古代航海民」の活躍を前提としているようである。

なぜ巨石記念物を造るのか

 日本にはストーンサークルを含む配石遺構が500以上ある。 縄文人がそれらをなぜ造ったのだろうか。 ストーンサークルについてはすでに述べたが、メンヒル(立石)やドルメン(支柱石=支柱墓というが墓だけとはかぎらない)のような巨石記念物建設の動機はなにか。 これについて納得のいく説明は文化人類学でいう「勲功祭宴(feast of merit)」説であろう。

 勲功祝祭とは、インド、東南アジア、オセアニア、さらにはマダカスカルを中心に見いだされるポトラッチ型の祝宴である。 ここでいう勲功とは、ふつう外敵からの集落の防衛、大型野獣の捕殺、家畜など財産の大量放出である。 そして、勲功者(祭宴の主催者)には、その栄誉を顕彰する意味で、ある種の称号や自宅に特別な飾り付けをする権利を与えられ、また、木柱や巨石記念物(メンヒルやドルメン、ストーンサークル、石壇など)が記念として設立される(この建設自体も祝宴の一環とされる)。 それによって、勲功者の霊魂が生前の社会的地位に対応した来世での幸福を保障されるとする。 このような古代人の観念をハイネ=ゲルデルンは「時間的・系譜的な世界観」とよんだ。 この世界観が、古代文明地域において、天体の運行や宇宙の構造と人間の運命が依存しているという「空間的・呪的・宇宙的世界観」に取って代わられたとき、エジプトのピラミッドが建設されたのだろうか。 ピラミッドを巨石記念物に含めないのは、その世界観の違いによるのかもしれない。 そうだとすれば、いわゆる日本のピラミッドがピラミッドであるかどうかは、その世界観によることとなる。

岩刻文様-岩石文字

 巨石文化伝播の仮説に有力な援軍が現れた。 それはハーバード大学の名誉教授(海洋学)バリー・フェルの『紀元前のアメリカ』のペトログリフ岩刻文様(ロック・アートとも)の研究である。
 
彼はコロンブス以前のアメリカ移住者の存在を示す神殿・巨石記念物・墳墓などとともにペトログリフ石に刻まれた碑文を取り上げ、古代における壮大な文化移動を立証しようとした。

 一方、日本では彦島(山口県)で発見された岩石文字(ペトログリフ)のなかにシュメール文字が見い出されたというショッキングな報告が吉田信啓氏からなされた。 だが、古事記をシュメール語で読めるとか日本の地名をシュメール語で解読? できるなどという情報に食傷していた私には川崎真���氏の問題の碑文の全文解釈についても懐疑的であるが、鈴木旭氏は日本のペトログリフからシュメールの神性を象徴する「七枝樹」が見えることから、古代シュメールと古代日本の文化的交流を仮定している。 だが、この「七枝樹」はオリエントの「生命の樹」であり、その日本への渡来については私なりの仮説を持っている(小著『謎のシルクロード』徳間書店、1980 参照)。 したがって、現在もっとも肝要なことは、各地から「発見」されるペトログリフにたいするオリエント古語の専門家による解読作業だろう。 その結果、もし、それがシュメール語であることが、学問的に確認されたならば、それは日本の古代学研究にとっての革命となるからである。

むすび

日本の巨石文化が終焉したのは、巨石記念物と結びついた宗教や呪術の衰退と、それによる技術集団の解体であり、それをもたらしたのは気候の寒冷化と食料難による共同体の衰弱であろう(勲功祭宴の社会・経済的余裕などなくなった)。 したがって、日本列島に巨石文化建設に匹敵する国家的土木事業が誕生するのは、水田稲作による社会的富の蓄積がすすみ、その富を独占するファラオ的な権力者の発生した古墳時代以降となる。

(岐阜県位山の岩座)" class="protect" alt="ファイル 25-1.jpg" width="490" height="327" />
 
(寺地遺跡巨大木柱)" class="protect" alt="ファイル 25-2.jpg" width="490" height="326" /> 

佐治 芳彦(さじ・よしひこ)

国際縄文学協会会員
作家

会津若松生まれ。 東北学院英文科卒。 東北大学文学部史学科卒。 現在は古代から現代史まで幅広い分野の 執筆で活動中。
『九鬼文書の謎』(くかみもんじょのなぞ)、『縄文の神とユダヤの神』など著書多数

  • 2011年05月01日(日) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『日本の巨石文化・1』 佐治芳彦


日本の巨石文化

はじめに

人間は生存のために他の動物と同じく自然環境と適応関係を保っていく。人間の、この自然環境にたいする適応体系が「文化」である。これは、特定の社会の人々によって習得され、共有され、伝達される行動様式ないし生活様式の体系といってもよい。

さて、人間の文化は、発生の段階から「石」と大きくかかわってきた。人類と石器とのかかわりは250万年以上に遡るが、未加工の石の利用はさらに古く、それは約400万年以前の人類の発生にまで遡るだろう。つまり、彼らは道具を使用することで人類となったのであり、その原初的道具に石が含まれていたからである。やがて、石は加工されて石器となり、さらに建造物の素材として広く利用されるようになった。

考古学的な時代区分でいう石器時代は、ふつう旧・中・新の三期に別れるが、その最後の段階である「新石器時代」(日本ではほぼ縄文時代にあたる)に世界の各地域で、面取りや化粧仕上げなどの加工が比較的少ない大きな石を用いて作られた建造物、すなわち「巨石記念物」(megalithic monument)を特徴とする文化が生まれた。これが「巨石文化」である。

巨石記念物

 巨石記念物にはいくつかの種類がある。その代表的なものとして次のようなものがある。すなわち、自然石ないし多少の加工を施して地上に立てられた単一の柱状の石である「メンヒル(立石)」。つぎに「立石群」、これには「環状立石(ストーンサークル)」と「列石(アリニュマン)がある。二基ないしそれ以上の支石で一枚の扁平の蓋板石を支えたテーブル状の構築物である「ドルメン」これには墳墓(支石墓)ドルメンと記念ドルメンとがある。なお、イースター島のモアイは巨石記念物に含められるが、ピラミッドやスフィンクス、オベリスクなどは除外される。

巨石文化の分布

 この文化は、新・旧両大陸の主として沿岸部にひろく分布している。すなわち、北欧(スカンジナビア半島)からドイツのバルト海沿岸部、フランスのブルターニュ地方、対岸のイギリスのケント地方、イベリア半島の大西洋、地中海沿岸部、南フランス、イタリー半島、北アフリカの地中海沿岸部、黒海沿岸部、紅海・ペルシャ湾沿岸部、アフリカの大西洋・インド洋沿岸部、インド亜大陸のアラビア海、ベンガル湾の沿岸部、インダス・ガンジス河流域、デカン高原、ヒマラヤ山麓などの内陸部、ミャンマーのベンガル湾沿岸部、インドシナ半島の南シナ海・タイ湾沿岸部、インドネシア、オセアニア。中国の東シナ海沿岸部、中国東北部の渤海湾沿岸部、シベリア日本海沿岸部、朝鮮半島、日本列島、さらに新大陸の北・中・南アメリカの太平洋・大西洋沿岸部にわたっている。

伝播の問題

 巨石文化は、上記のように南極大陸をのぞく地球の諸大陸の沿岸部に広く分布していることから、当然「伝播」の問題が浮上してくる。伝播とは文化要素が一つの文化から他の文化に移る過程をさす。

 伝播論で有名なイギリスのエリオット・スミスらの太陽巨石文化移動説(人類文明エジプト起源説)は、現在受入れられていないが、巨石文化の伝播そのものを否定することは難しい。かつて「コンティキ号の冒険」を試みたトール・ヘイールダールは、日本の代表的人類学者から「エリオット・スミスの亡霊」と酷評されたが、彼の「ラー号の冒険」によってエジプトと中南米との葦船による航海の可能性が実証されたことによって伝播説は甦ったともいえる(なお、オーストリアの民族学者のハイネ=ゲレデルンは、この伝播に従事した人々を「エニシエント・マリナーズ古代航海民」と呼んだ)。

(岩手県樺山遺跡)" class="protect" alt="ファイル 24-1.jpg" width="490" height="326" />

(坂井遺跡環状列石)" class="protect" alt="ファイル 24-2.jpg" width="490" height="326" />

(新潟県朝日村三面遺跡)" class="protect" alt="ファイル 24-3.jpg" width="490" height="326" />

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■ 『東京の縄文ランドスケープ観測の遺跡』 安孫子昭二


東京の縄文ランドスケープ観測の遺跡

はじめに
 縄文人は、年間の日の出や日の入りなどの天体観測により二至二分を認知し、往々にして観測する特別の場所に記念物を構築していたことが、次第に明らかにされつつある(小林達雄編 2002)。
 記念物となる環状列石や巨木柱列が設営されたような場所からは、春分・秋分・夏至・冬至に神名備型をした山の山頂付近に日の出や日の入りが観測できることがある。町田市小山町にある「田端環状積石遺構」もそんな記念物のひとつといえる。

環状積石遺跡の現況
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田端遺跡調査報告書より
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出土した遺物の色々
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積石遺構の調査概要
 遺跡の発見は昭和43年(1968)にさかのぼる。「畑の土中に石が埋まっている・・・・」という耕作者の通報を受けて、町田市文化財専門委員で玉川学園考古学研究会を指導していた浅川利一氏が中心になり、3月から5月にかけて170㎡を発掘した。田端の調査現場は、私たちが多摩ニュータウン遺跡調査の仮事務所にしていた多摩市唐木田から、丘陵の尾根をはさんだ反対側にあった。知らせを受けた私たちは、山桜が吹雪のように散っていた春の一日、唐木田と橋本駅をむすんでいた神奈川中央交通のバスに乗って発掘見学に出かけた。一抱えもある大きな立石と積石がごろごろ姿を現していて、東京にもこんなストーンサークルがあったのかとびっくりしたことが、つい昨日のことのように想い起こされる。
 積石遺構の存在が明らかになるとともに、周囲およびその下から、縄文後期前葉の加曾利B1~B2式土器が副葬された土壙墓や周石墓の存在も確認された。ことの重大さを察知した浅川氏は、遺跡の保存を優先するために発見された状態で記録するに止め、積石の内部や下は調査されなかった。町田市は直ちに周囲280㎡を買い上げて保存整備に努め、東京都教育委員会は1971年3月に東京都史跡に指定した。 その「田端遺跡調査概報」(町田市教育委員会1969)によれば、環状積石遺構は東西に長径9m、南北に短径7mの楕円形をなしており、幅1~1.5mに大小の石塊や礫を集め、帯状に積み上げてサークルを形成しているという。東と西の部分では石が少ない状態がみられたが、これは撹乱を受けて石塊が多少抜かれたものと考え、原形は全体にほぼ同じ状態に積石がめぐらされていたのだろう、という。出土した土器から、積石遺構は後期中葉に構築されて晩期中葉まで機能したものとされた。浅川氏はこの特殊な積石遺構の性格をさぐるために、継続して台地にいくつか試掘坑を入れてみたが、積石遺構に関係する集落は発見されず、むしろ中期の集落が広がっていることが確認され、また西側に晩期中葉の包含層が検出された。
 その後しばらく進展がなかったが、多摩ニュータウンの開発にしたがい、積石遺構をとりまく状況が次第に浮き彫りにされた。まず、積石遺構のすぐ東側に都道2.1.5号線(多摩ニュータウン通り)が建設されることになり、1987・88年に町田市教育委員会が調査した(田端東遺跡)。このときも中期の住居跡群が検出されたが、積石遺構に関係する加曾利B3式期の住居跡がはじめて1軒検出され、東北地方で作られた中空土偶の頭部が出土した。
 さらに多摩ニュータウン遺跡の悉皆的な調査で丘陵側の実態があきらかになった。ニュータウンの範囲は、積石遺構からわずかに50m離れた裏山から境界が線引きされている。東京都埋蔵文化財センターが発掘調査したすぐ裏山の№245遺跡からは、縄文中期から後期前葉の集落が、奥側の№248遺跡からは、同じ時期の大規模な粘土採掘坑が検出された。ここからも後期中葉以降の集落は見つかっていない。
 平成12年度になって、町田市教育委員会は、露出展示などにより環状積石遺構が次第に劣化してきたとして、積石遺構の保護・保存を含む史跡整備事業に伴う周囲域の詳細分布調査を行った。この調査成果を要約すると、


• 加曾利B1式期の土壙墓群が積石遺構の斜面下方15mまで確認され、墓域の南限とされた。 
• 北西の斜面上方に湧水地があり、その流路に関係するらしい大規模な溝が積石遺構の西13mに確認された。
• 南側の標準的な土層と対比すると、積石遺構範囲の堆積土層は縄文中期以前の包含層が欠如しており、また15~30cmほどの厚さで平安時代の新期富士降下火砕層が積石遺構を被っている。以上のことから、
• 積石遺構の構築時または前時代の墓壙形成時に、土地が人為的に改変された可能性が考慮される。 
• 積石遺構からは南方の眺望が優れており、丹沢山地蛭ケ岳頂部に冬至の夕陽が沈む様子が確認できる。季節の節目に太陽の運行が観測できる東日本の各遺跡より報告されていることから、本遺跡もその一例に含まれ、積石遺構もしくは墓域の選地と関係があるのかもしれない、とむすんでいる(町田市教育委員会 2003)。

田端遺跡と蛭ケ岳の位置関係
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田端環状積石遺跡および同石墓-土壙
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(写真)
著保内野土偶と田端東土偶復元図
著保内野土偶と田端東土偶復元図

 なぜこの場所なのか?
地図上に蛭ケ岳山頂の方向を示した。どうしてここに環状積石遺構が設営されたのか不明であった。その謎を解いたのは、町田市教育委員会に勤務する風水研究家の松本司氏である。「冬至の日、田端のストーンサークルから蛭ケ岳の真上に太陽が沈むのがみえるのではないか・・・」と直感した松本氏によれば、「蛭」は本来は「昼」、つまり光と太陽を意味する言葉ではないかという。蛭ケ岳(標高1673m)の頂上には大日如来が祀られている。その蛭ケ岳のピークに太陽が落ち、やがて背後に太陽が回ったとき、「後光がさす」言葉の本当の意味がわかったような気がしたという(松本1999)。遺跡からS58°W、正面に位置する丹沢山地の最高峰に沈む冬至の太陽を、私も固唾をのんで見守ったことであった。
 それではこの遺構がなぜこの場所に設営されたのか、またどういう性格であろうか。この環状積石遺構の形態が、中期の環状集落の構成に共通することに、一脈のむすびつきを考えてみたい。中期に繁栄した典型的な環状集落は、環状とはいうものの中央の広場をはさんで向かい合う二大群の住居群で構成されており、それぞれ大群は3単位の住居からなる(安孫子 1997)。この積石遺構も北・南の二群に分かれており、それぞれ立石を中心にした3単位の積石群で構成されている(図参照)。
 西関東では、環状集落の規模が中期後葉から終末に向かってしだいに縮小し、やがて敷石住居に変わる頃に衰微する。しかし、環状集落を構成した集団の紐帯が離散したのではなかったらしいことが、この環状積石遺構の構成に反映されているようである。この地域の一帯に居住した末裔たちが、後期前葉になってこの場所に集団の共同墓地を設営したようなのである。それを追求し実証することは、まさにこれからの課題である。
 彼らは、冬至を境に弱まった太陽光線がふたたび甦ってくることが観測できるこの場所を集団の聖地たる共同墓地に定め、毎年冬至の日に集いあって蛭ケ岳に沈む夕日を拝みながら、先祖の加護により集団の安寧と繁栄を祈願する祖霊祭を執り行ったのだろう。だから、この地が意識されたのは集団墓地が造営された加曾利B1式期になるが、あるいはもっと以前からかもしれない。
「田端環状積石遺構」の構築とは、その平穏だった集団墓地の上に、親縁集団が総力を結集してモニュメントを築かなければならない新たな事態が生じたことによる。その構築の背景には、東関東の安行集団の侵攻による西関東の高井東集団の危機感があり、このために東北地方も北部で作られた著保内型土偶が勧請されたのではないか、と考えたことがある(安孫子 1992)。
 田端遺跡は、京王相模原線多摩境駅から徒歩5分の至近にある。町田市では、平成16年度に、これまで露出展示されてきた積石遺構を原位地で嵩上げした複製展示に切り替え、周囲を整備する計画という。この場所で縄文の人たちが仰いだ蛭ケ岳に落ちる冬至の夕陽を、これからも未来永劫変わらずに見つづけることができるよう、周囲の景観が維持されることを祈りたい。

(写真)
蛭ケ岳に沈む冬至の日没
蛭ケ岳に沈む冬至の日没

参考文献


• 1969『田端遺跡調査概報』町田市教育委員会(浅川 利一他)
• 1992「田端東遺跡出土土偶の意味するもの」『東北文化論のための先史学歴史学論集』加藤稔先生還暦記念会(安孫子 昭二)
• 1997「縄文中期集落の景観」『研究論集』16 東京都埋蔵文化財センター(安孫子 昭二)
• 1999『古代遺跡謎解きの旅』小学館(松本 司)
• 2002『縄文ランドスケープ』有朋書院(小林 達雄編)
• 2003『田端遺跡』町田市教育委員会(貴志 高陽)      

安孫子 昭二(あびこ・しょうじ)

 国際縄文学会協会会員

  • 2010年11月05日(金) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

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