International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『大森貝塚とモース博士vol.2』  関俊彦


大森貝塚に暮らした人々


モースが発掘した地点

 明治10年9月16日から翌年3月まで調査した場所は、地主の櫻井甚右衛門に補償金50円を東京大学が支払った書類が東京都公文書館に残っていることから確認できます。
 現在、≪大森貝塚≫碑が建つ一帯、東京府荏原郡大井村2960番地字鹿島谷(品川区大井6-21)です。しかし、地表に散っている土器片や貝を拾った地点は多くあったことから、大森貝塚を点ではなく、面でとらえたほうがよいです。
 人々が生活した場、遺跡は広く、大田区内にある≪大森貝墟≫碑やJRの線路敷地も含まれます。というのも、昭和40年代前半ごろまでは各地点で土器片や貝殻を見かけています。

貝塚をとりまく自然環境

 大森貝塚のある台地は海抜13から14m前後で、人々が住み始めた4240年前(紀元前2290年)頃は、台地の近くまで遠浅の浜が迫っていました。現在、大田区と品川区との境界になっているラインに沿って、昭和30年代まで小川が流れていましたが、今はコンクリートで覆(おお)っています。その水源は西大井2の原(はら)の水神池で、こんにちも湧き出ており、この小川を大森貝塚の人たちは飲み水や木の実のアク抜きのために水さらしに使っていたことでしょう。また、JRの線路東側の崖下(がけした)にも伏流水が今も湧いています。
 大森貝塚がある地点は、武蔵野台地の東南部、荏原台の東端にあって北に立会(たちあい)川が、南には内川と呑(のみ)川が流れ、南北にある台地が接し、付近には枝状の小さな谷がいくつもあり、起伏(きふく)に富んだ地です。
 この地形は動物や植物が生育するにふさわしく、シラカシ、アカガシ、スダジイ、タブノキ、ヤブツバキといった常緑広葉樹の森が広がっていました。
 このうちカシ類(アカガシ、アラガシ、イチイガシ、ツブラジイ、スダジイ、マテバシイ)は、サポニンやアロインなどの渋味を水にさらすだけでとれます。
 大森貝塚周辺では落葉広葉樹のクヌギ、カシワ類が繁り、これらの実を製粉し、加熱処理と水さらしで強いアクを抜きました。
 いわゆるドングリとよばれる類は、石皿と磨(す)り石を使ってくだき、粉にし、それを土器に水を入れ、手で混ぜ、デンプンを沈殿(ちんでん)させ、上澄(うわず)みを何回も捨ててアクを抜きます。アク抜きには、貝塚のそばを流れていた小川を利用したと思います。
 大森貝塚の人たちはクリやドングリといった木の実を主食としました。アク抜きした粉をジネンジョと捏(こ)ね、それをクッキーやクレープ状にして焼石の上にのせ焼いたり、貝類や海藻(かいそう)を入れ、スープにしたりして食べたことでしょう。
 大森貝塚の人々は、9月下旬から10月上旬はドングリ拾いを家族全員でおこないました。9月上旬にはドングリの木の周囲の草を取り、いわゆるムシロを敷き、採集しやすくする準備など、働きづめでした。彼らはドングリを全部拾わないで、それを好むイノシシ、サル、リス、それと新しい生命を生む木のために残すというおもいやりをいつも持っていました。相互扶助(ふじょ)の心を親はドングリ集めをする子供たちに教えたことでしょう。

大森貝塚の人たちの生活用具

≪石製品≫
 打製石斧(分銅(ふんどう)・撥(ばち)形)、石棒、石剣、石皿、砥石(といし)、石鏃(せきぞく)
≪角骨牙製品≫
 釣り針、ヤス、銛頭(もりがしら)、牙鏃(がぞく)(イノシシ製)、へら状骨製品、錐(きり)(イノシシ犬歯(けんし)製)、刺突(しとつ)具、角製彫刻品、犬歯穿孔(せんこう)品(犬)
≪貝製品≫
 貝輪、貝刃(かいじん)
≪土製品≫
 土版(どばん)、耳栓(じせん)、土製円板、蓋(ふた)状土製品、小型土偶、紡錘車(ぼうすいしゃ)形土製品
≪土 器≫
 後期(4420~3200年前頃:紀元前2470~1270頃)
 晩期(3220~2730年前頃:紀元前1270~780年頃)

・大森貝塚のムラ

 現在のところ≪大森貝塚≫碑のある地点より高いところから、地面を30㎝前後掘り込んでつくった竪穴(たてあな)住居の跡が6軒見つかっています。このうち2軒は方形をしていますが、他の住居は壊されており、形がつかめません。
 4軒の住居跡は、3820から3470年前頃、1軒が3470から3400年前頃です。この家に住んだ人々は、大森貝塚が繁栄をきわめた時期に暮らしていました。1軒あたり4から6人ほど、ムラ全体でも一時期に30人くらいが生活していたと推測されます。

大森貝塚の特徴

・大森貝塚の人々は、眼の前に広がる穏やかな海を見る海抜13から14m前後の台地に約1000年間住み続けました。
・彼らは潮が引くと女子供らが浜に出てハマグリやアサリや海藻を採取しました。
 男たちは丸木舟を沖に漕ぎ出してアジを捕獲しましたが、3200年前頃から捕れなくなると、体長30㎝前後のスズキやクロダイなどを釣ったり、ヤスや銛(もり)で突いたりしております。この漁は2700年前頃までおこないました。
・秋になると男らはシカやイノシシを射(い)るために出かけ、最も多く捕まえたのは3680から2850年前頃でした。
・大森貝塚が活気にみちた3820から3470年前頃は、加曽利B式という土器をつくった時代です。
・大森貝塚の人たちは丸木舟を内湾沿いに漕ぎ出し、現在の利根川下流や霞ヶ浦のムラと交流したり、あるいは銚子あたりから漁撈民の小集団が移り住んだりしたとも推測できます。
 それは土器や釣り針などに共通性が見られるからで、さらに仙台湾岸でつくられた土器か、それを模したものが出土している点からです。
 神奈川県西部のムラとも交流していたらしく、土器のデザインに類似性がうかがえます。
 いずれも出土例は少ないですが、東西地域と接触が活発だったことが、大森貝塚が長く繁栄していた要因ともいえます、
・大森貝塚のたそがれは、2950年前頃から迫り、2730年前くらいにはピークになったとみえ、この期間に人々の願いを託(たく)したと思われる土版が6例も出ています。普通、この時期のムラからは1つ出るか出ないかです。
 大森貝塚は一部しか発掘されていないのに、土版が多く見つかっています。ここが東西地域をつなぐ有力なムラだったといえます。

縄文人からのメッセージ

・縄文人は動植物をはじめ、生き物を自分たちと同じ仲間という意識がありましたので、必要以上のモノを手にしませんでした。それはやさしさとおもいやりのあらわれといえます。
・彼らは海、森、山、川、大地といったものによって生かされているというおもいを強く感じていたことでしょう。そのために、これらに畏敬(いけい)の念を持っていました。だからこそ、人と自然が共生できたのです。
・人と争うのを嫌(きら)い、互いに助け合って苦難をのりこえました。これは自然を侵略しないことにも通じます。

モースに学ぶ

・モースは、小中学校も卒業できず、先生から問題児あつかいされていましたが、少年の時に興味を持った腕足(わんそく)類の採集と研究を一生続け、名門の大学や博物館の要職に就きました。
・長いあいだシャミセンガイを調べ、日本に多く生息することを聞くや、旅費のために1年間猛烈に働き、来日する情熱と探究心は40歳になっても変わりませんでした。
・彼は科学者として日本と日本人をとらえています。視線は低く、あらゆるものに好奇心をそそぎ、広く深く観察し、分析し、記録しました。スケッチすることで、日本人の繊細な心や美を読みとり、彼を感化させ、この国に強い愛情を抱き、価値観を変えたのです。
・明治という新しい時代の流れに取り入れられず、消えゆく伝統品を買い集め、そのコレクションを後世に残し、多くの人々に日本人の心を知ってもらおうと、ボストンやセーラムの博物館に寄贈し、公開しました。日本文化のすばらしさを見抜き、その保存を実行した人物です。
・モースは日本人の考古学・人類学・動物学・生物学・博物館学の礎(いしずえ)を築くとともに弟子を育て、学問に科学精神を植え付けました。
・親日家の先駆者としてボストンを訪れる研究者をあたたかく受け入れ、日米交流の橋渡しを担いました。
・大森貝塚の発掘状況やダーウィンの進化論など、いちはやく学問の成果を市民に還元しました。

文化財の活用

 国史跡≪大森貝塚≫の名は広く知られておりますので、これを地元は、どう活用し、歴史や文化財を一般人に関心を持ってもらうかという案を掲げますので、ご検討ください。

 南から北へ。大森郵便局-善慶寺(義民六人衆の墓)-熊野神社-薬師堂(桃雲寺) -望翆楼跡-山王遺跡-大森ホテル跡-射的場跡-大森テニスコート-八景園跡-天祖神社-大森駅-大森貝墟碑-日枝神社-円能寺-大森貝塚碑(大森貝塚遺跡庭園) -鹿島神社-品川歴史館-来迎寺-西光寺-古東海道-光福寺

・私たちが後世に残すモノは≪文化≫です。そのためには行政単位を超えて考えるのが望ましいです。

≪歴史・文化の道≫ ≪ヒストリー&カルチャー・ロード≫など、親しみある名称をつけるとよいですね。

付記 大森貝塚を調査したシーボルト

 モースは『日本その日その日』の中で大森貝塚を「誰かが私より先にそこへ行きはしないか」と書いています。その人物とは在日オーストリア・ハンガリー帝国公使館の通訳ハインリヒ・フィリップ・フォン・シーボルト(1852~1908年)で、幕末に西洋医学などを広めた大シーボルトの次男です。
 モースが大森貝塚を発掘した明治10年にシーボルトやエドムンド・ナウマンらが大森貝塚を調査して、土器や石器をヴィーン民族学博物館に送っています。これを確認したのはボーン大学のヨーゼフ・クライナー教授です。
 残念なことにハインリヒは大森貝塚の報告をしておりません。しかし、明治12年に日本語で『考古説略』というヨーロッパにおける考古学の研究法を紹介した著書を出しています。同年、ヨーロッパの考古学者を対象とした日本考古学の概要を記した書 Notes on Japanese Archaeology with Especial Reference to the Stone Age 『先史・原史時代の日本』を刊行しました。
 当時、欧米の研究者に日本文化を紹介したモースとハインリヒは顔を合わすことなく、2人の運命を大きく変えさせたのが大森貝塚でした。
 それは≪大森貝塚碑≫と≪大森貝墟碑≫の存在を思い起させます。それは互いを触発させたのです。

本文に用いた図はエドワード・エス・モース(矢田部良吉口訳・寺内章明筆記)『大森介墟古物編』1979年、東京大学。Money Hickman and Peter Fetchko; Japan Day By Day. An Exhibition Honoring, EDWARD SYLVESTER MORSE and Commemorating the Hundredth Anniversary of His Arrival in Japan in 1877. 1977. Peabody Museum of Salem.
石川欣一訳『日本その日その日』全3巻。1970年、平凡社。関俊彦編『大森貝塚-大田区史・資料編、考古Ⅱ-』1980年、大田区。関「採集狩猟社会での女性」『史誌』30号。1988年。関「ハインリヒ・シーボルトと日本」『歴史と人物』141号、1983年。

関 俊彦(せきとしひこ)

 これまで学習院、青山学院、武蔵野美術大学で日本と外国の考古学、日本文化史を講義するかたわら、ネパールのチラウラコット遺跡(釈迦が青年期まで過ごした地)、ミクロネシアのファウバー遺跡(17から19世紀の高地性集落)、ハワイ島のマウアケア鉱山跡(カメハメハ王所有の石斧製作地)、マルタ島巨石神殿跡(世界最古の巨石記念物)、ベトナム・ホイアン(17世紀の日本人町跡)、国内では神奈川県潮見台、神庭(かにわ)その他の遺跡の発掘と調査をおこなう。

―著 書―
『弥生時代文献解題』全5巻(小宮山書店、東出版)、
『東日本弥生時代地名表』全3巻(小宮山書店、東出版)、
『弥生土器の知識』(東京美術)、
『平原先住民のライフスタイル』、『カリフォルニア先住民の文化領域』、
『サンフランシスコ湾岸部の先住民』、『カリフォルニア先住民の文化』(以上、六一書房)
―共 書―
『潮見台遺跡』(中央公論美術出版)、『長尾台遺跡』『東神庭遺跡』『神庭遺跡』(以上、東出版)、
Preliminary Archaeological Investigations on the Island of Tol in Truk』(Azuma Press)、
『日本考古学の視点』(日本書籍)、『日本史の基礎知識』(有斐閣)
『考古学の先覚者たち』(中央公論社)、『関東の考古学』(学生社)
『大森貝塚』(大田区)

―訳 書―
『考古学の基礎知識』、『考古学への招待』(雄山閣)、
『人類学としての考古学』、『考古学ハンドブック』(六一書房)

 現在の研究領域は、日本人と先祖を同じくする先史モンゴロイドとその子孫らのライフスタイル(北アメリカ、オセアニア)、新石器時代の巨石記念物。
 大田区史編纂専門委員として20年余にわたり『大田区史』『史誌』の執筆と編集をおこない、地域ボランティアとして大森貝塚保存会で50年余り活動する。

・大森貝塚とモースに関する著作
「大田区の遺跡(1)日本考古学発祥の地-大森貝塚-」『史誌』1、1974
「公開された≪大森貝墟の碑≫」『考古学研究』24巻3・4号、1977年
「大田区の遺跡(8)大森貝塚発掘100周年」『史誌』8、1977年
「エドワード・S・モースの素描」「大森貝塚とその時代」、『大森貝塚発掘100周年』大森貝塚保存会、1980年
「大森貝塚の土版について」『史誌』13、1980年
「大森貝塚に生きた人びと」、「大森貝塚の研究をかえりみて」『大森貝塚、大田区史(資料編)』考古Ⅱ、大田区、1980年
「大森貝塚の安行式土器(1)」鈴木と共筆、『史誌』17、1982年
「大森貝塚の安行式土器(2)」鈴木と共筆、『史誌』18、1982年
「大森貝塚の安行式土器(3)」鈴木と共筆、『史誌』19、1982年
「ハインリヒ・シーボルトと日本」『歴史と人物』141、1983年
「エドワード・S・モース論」『縄文文化の研究』10、雄山閣、1984年
「東京都大森貝塚-近代日本考古学の出発-」『探訪・縄文の遺跡-東日本編-』
有斐閣、1985年
「ハインリヒ・シーボルトと日本考古学」『考古学の先覚者たち』中央公論社、1985年
「縄文時代」『大田区史』上巻、大田区、1985年
「モースによる大森貝塚の発掘とその後」『都市周辺の地方史』、雄山閣、1990年
「考古学とモース―日本考古学の先駆者―」『関東の考古学』、学生社、1991年
「大森貝塚」『郷土・東京の歴史』ぎょうせい、1998年
「シンポジウム―大森貝塚の歴史と現在―」『品川歴史館紀要』18、2003年

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