International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『環状集落から環状積石遺構へ・4』 安孫子昭二


広場の役割 次に、なぜこの村には大勢の人がいて、広場が広く取られていたかを検討してみます。ひとつの鍵になるのは、N‐2の15号住居跡から出土した、大形の深鉢2個体と大形の浅鉢などの勝坂式土器セットです(図6)。これで食べ物を煮炊きしようとすると、この住居の一家族が日常的に使っていたとはとても考えられない。1は口径32㎝、高さ56㎝、2は口径35㎝、高さ52㎝ほどもある超大形の土器です。これを口まで食べ物を入れて煮炊きしますと、土鍋と同じように沸騰点に達すると、一気にぶわーっと吹きこぼれますから、せいぜい膨らんだ口縁部の下にある隆帯あたりまで、八分目までしか容れないはずです。そこまで水を入れて計って見ますと、1は12ℓくらい、2は13.6ℓくらいも入るのです。合わせると26ℓほどにもなる。だいたい豚汁をお椀に一杯200㏄とすると、130人分は賄える勘定です。

<図6>15号住居跡出土の勝坂式土器
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 それから3の浅鉢は直径が52㎝、45度で立ち上がる。浅鉢は煮炊きに使うのではなくて、団子のような食べ物を盛り付ける器ですから、相当な大きさです。45度の角度で立ち上げようとすると粘土の重さでたわむから、この大きさが作れる限界のようなものかも知れない。土器はこうして腐らないで残っていますが、当時は木鉢や竹籠のバスケットも相当あったはずなのです。それで、私は埋蔵文化財センターで展示担当していたとき、試みにこの浅鉢にアンパンがいくつ入るのか盛ってみたいものだと話したら、奇特な調査員がいて、二軒のパン屋さんを回って30個調達してきてくれた。これを盛り付けましたら、ようやく内側に稜線がある辺まででした。ですから、口まで水平に盛ろうとするとアンパン100個くらいは優に入ったのではないかと思うのです。この他、4,5の土器なども立派な作りの土器なのです。

 だからこれらの土器は、この家族が日常使用するような什器ではなく、冠婚葬祭のような折に周辺の方々に移り住んでいる関係者も大勢参集するときの賄いで使われた土器であろうと考えるのです。この広場というのは、そういう祭りなどのときに大勢の仲間が集まるための広場とすると、やはり相当に広い面積が必要ということなのですね。

八王子市神谷原遺跡の環状集落

 私なりに、№446遺跡の環状集落の構成から集落が営まれた年数、集落の人口と広場に埋葬された二四人の死者の性格などを、従来の研究の視点とは違った方法でかなり大胆に分析してみました。すると、果たしてこのような分析の仕方がほかの環状集落にも通用するのだろうか、ということになります。そこで次に、八王子市椚田町に所在する神谷原遺跡の事例を検討してみます(図7)。

<図7>神谷原遺跡の集落構成
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集落の概要 神谷原集落の始まりが新地平編年4b期の五領ケ台2式で、終焉は8b期の勝坂2式前半までですかね。だから先ほどの№446遺跡は20年くらいでしたが、もっとかなり長い。八王子市教委の新藤さんが担当した報告書(1983)では、神谷原Ⅰ期、Ⅱ期、Ⅲ期と遺物が出土しなかったため時期不明とされた白抜き住居跡が一軒ある。先ほど分析した№446遺跡の事例をそれぞれの住居跡を当てはめてみると、Ⅰ期・Ⅱ期・Ⅲ期とスクリーントーンで表示されている住居の時期というのは、住居が廃絶された後に捨てられた土器の時期であって、住居が営まれていた時期ではないのです。

 この住居跡を一軒ずつ細かく見ていきますと、同じ場所で建て直しをしたことが分かる住居跡とよく分からない住居跡がある。№446遺跡で建て替えられた住居番号を四角で囲みましたので、ここでも同様に見ていきますと、左側の方を西側のW群、右側の方を東側のE群に二大群に分けてみると、W群の遺構密度がずいぶん濃いです。それから、この集落は正円のようですが、右下が発掘されていないために環状集落の東南側が大きく欠損しているのです。本来は広い台地の縁辺に営まれた正円の環状集落だったのですが、一部が崩落してしまったのです。そう考えるのは、台地の下を西から流れている湯殿川、それに南側の支谷を流下してきた川が、この台地裾の少し上流で合流する地形に着目すると、百年に一度のような超大形豪雨台風の襲撃でもあって、この台地裾を鉄砲水が直撃したために崖線がオーバーハングし、環状集落のこの部分が崩れ落ちたのでしょう。実は、南関東の中期の大規模集落は往々にしてこうした台地縁辺に立地していて、同じように勝坂式の後半を境に途切れ、別の場所に集落が移転するなりして再出発する拠点集落が多いのです。その意味でも、この神谷原集落は災害に遭って、おそらく西側五〇〇mにある椚田遺跡に集落をそっくり移ったようなのです。

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