International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『環状集落から環状積石遺構へ・5』 安孫子昭二


E‐1群の分析 神谷原集落のすべての住居跡を細かく分析すると非常に面倒なので、ここでは比較的単純なまとまりのあるE‐1群を取上げてみます(表1)。住居跡は、神谷原Ⅰ期・Ⅱ期・Ⅲ期・Ⅳ期とありますが、私は時期不明とされていた白抜き111号住居跡が、もっとも古い住居だったと考えたい。小判形をした住居形態は五領ケ台式の特徴なのです。この住居とやはり小判形をしたⅠ期の113住居がセットになって機能したようなのです。次に111住居の建て替えとして10住居が新築され、10号住居が続いたときに別の120号住居が新築されて、それから2軒の住居が互い違いに一度建直しながらⅣ期まで続いたようです。これは住居跡から出土した土器で住居の時期を認定しようとすると、一番新しい土器しか分からない。住居が機能していたときに使われ壊れた土器は、別の窪地になっていた廃絶住居に捨てられたから、実際に機能していた住居の年代が見えてこないのです。

<表1>
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 例えば10号住居址ですと、2回建て直されていますから3回稼動してはずですが、これまではそういう見方をしないで、最後の時期だけで判断していたから、集落は小規模で貧相な見方しかさてなかったのです。だからこのE1のグループは二軒の住居が対で構成されていて、同じように二軒の住居が何回も繰り返された。その結果、こういう環状集落をなすようになったわけです。ところが西側のW大群の方は、非常に住居が多いし、W1には、公会堂みたいな長方形の掘立式建物跡がある。広場に面する住居ゾーンの内側に接して、大形の掘立式建物跡がある。私は、右側のE群にも同じような掘立式建物があるものと思っていたのです。それでE側にどうしてないのか、不思議だったのです。
先に重帯構造と分節構造の話をしましたが、この図に同心円状の重帯構造の線を描き、分節構造の補助線を加えたから、環状集落の構造がはっきりしてくるのです。それまで漠然と環状集落だとは云われてきましたが、どういう構造か示されていなかったのです。

 それで中央に墓抗群がありますね。その外周に細かいゴマ粒のようなのがたくさんありますが、これは西田遺跡と同じような掘立式建物の柱穴と考えられます。ところで、真ん中の17mとメモしたサークルのとろにところにしっかりした点点があるのです。どうもここにトーテンポールでも立っていたようです。その外周35mに同心円を描いたのは、住居域の内側です。この35mというのはちょっと意味があるのです。三内丸山遺跡に巨大な六本柱遺構がありますが、この柱間が420㎝、これに着目した富山の藤田富士夫さんは、住居跡の柱間をいろいろ調べたら、だいたい35㎝が単位というのです。肘の長さが35㎝位なので、縄文人はこれを長さの単位にしたらしく、いまでは縄文尺と呼ばれています。420㎝は35㎝の12倍ですか、ですからこの住居ゾーンの35mというのは縄文尺を100倍ですね。17mも本当は17.5mならもっとよかったのですけれども。この環状集落を設計した当座、リーダーが中心部の杭から35mの範囲に縄か綱でサークル描き、この範囲までを広場にしたし、住居範囲の樹木もみな伐採されたのでしょう。その住居ゾーンの外側は、私が便宜的に20mずつ区切ってみただけです。

 そんなことで、神谷原集落にはいったいどのくらいの人数がいたのかというと、まず広場面積が手掛かりになります。もうひとつは、住居の広さからある程度の人数も見当できる。広場面積では、神谷原集落は正円の広場で3850㎡ほど、№446遺跡は長楕円形で3200㎡ですから、神谷原集落の方が2割方大きいです。住居規模では、神谷原E‐1群とニュータウン№446遺跡N‐1群を比較してみると、ニュータウンの方が見劣りする。№446遺跡で大サイズの住居も神谷原遺跡では平均的な大きさですし、小サイズの住居は神谷原にはほとんど無くて、むしろずっと大きいサイズの住居がいくつもあるのです(図8)。そのずっと大きい住居は石囲炉です。石囲炉の出自は八ヶ岳方面の住居形式と云われているので、あるいは、移住して来た人が居たのかも知れません。このように、神谷原の集落人口はニュータウン№446遺跡の一二三人よりも、もっと相当に大勢いた可能性が高いことになります。先に多摩ニュータウンの方を分析して執筆した後に、神谷原遺跡に取り掛かったら相当に大人数になるようなのです。それで、③の123名と見積もった集落人口は神谷原遺跡に適用されるべきで、№446集落は②の85人ほどに抑えておくべきだったかと迷っています。

<図8>
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 次に、神谷原では埋葬されている土坑墓が76基あります。№446集落の24基の場合は、住居を一度建て替えて2度目を迎えない20年内という期間に、家父長4代替ったものと仮定した数値(6家族×4代=24基)でしたが、神谷原集落の住居は5度の建て替えなので№446集落のほぼ3倍の継続期間としますと、24基×3=72基となります。するとこの場合の76基という土坑墓はかなり接近した数値ではないでしょうか。埋葬されたのは集落の構成員のうちの家父長クラスに限られたとする見解は、これでなんとか理屈がつくのではないでしょうか。

町田市の田端環状積石遺構

 この遺跡は正面に丹沢山塊と相模野台地を望む、多摩丘陵西麓の町田市小山町に所在します。東西9m、南北7mほどの楕円状に大小の石や礫が帯状に積上げられています(図9)。発掘調査されたのは昭和43年4月で、翌44年3月に都の史跡に指定されました。現在、調査された状況のまま石積遺構が露出展示されています。

<図9>
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 石積遺構が構築されたのは、出土した土器によれば、縄文後期加曽利B2式の頃で、晩期の中頃まで機能したことがわかりますが、その前、加曽利B1式期のとき、丘陵末端の緩い斜面だったのを平坦に造成して共同墓地にしているのです。また中期にはこの斜面一帯に住居跡が散財する集落跡でもあるのです。ですから、中期の集落の上に共同墓地が作られ、さらにその上に環状積石遺構が構築されたという、いわくのある遺跡なのです。

 調査を担当された浅川利一さんは、この積石遺構が構築されたのは、富士山が噴火したとき東側の空いているN3とS3の間から内部空間に逃げ込み、先祖の霊の加護の下で安寧を祈ったのだというのです。また、反対側の礫がまばらなN1とS1の間はたまたま耕作で石が抜き取られたからで、本来は連続していたというのです。

 それで私の考えですが、N1とS1の積石遺構はもともと開いていて、この積石遺構の配置構造は中期の環状集落の二つの集団の分節構造を表象していると見るのです。Nの方で見ていきますと、一抱えもある立石(アミ掛)が倒れていますが、本来は周りの積石で根固めしていた。それが、N1・N2・N3の3小群でできている。同様にSグループの方も真ん中辺に同じような立石、あるいは中期から引き継がれてきたような大きな石棒であって、S1・S2・S3の3小群でできている。北と南ということでいきますと、先ほどの№446遺跡、神谷原遺跡の環状集落が二大群三小群の構造でしたが、まさに対応するのです。ここに注目すると、中期の環状集落は中期終末に解体して丘陵の内外に分散しまうのですが、底流ではその末裔たちが先祖供養の祭祀がおこなわれていた、この場所はそういう神聖な祭場でもあったわけです。

 それではこの人たちの集落は何処に在るのかと申しますと、ここにはないのです。台地の中を試掘しても当該期の住居跡は発見されませんでしたが、東側に多摩ニュータウン通りというメイン道路が建設されるというので調査されたとき、加曽利B3式期の住居跡が二軒だけ出てきました。この住居だけで集落を形成するとは考えられませんから、二軒の住居はこの聖域を守る神社の社務所のような存在と考えます。集落は多摩丘陵や相模野台地など、界隈の各地に分散して居るのだろうと思います。

 それで、環状積石遺構の下には加曽利B1~B2式期に形成された24基ほどの土坑墓群があるのです。つまり、後期の後半にさしかかったときに、どういう転機があったのかは謎ですが、それぞれの血縁的集団が参集して、共同でこの環状積石遺構を構築したのです。そして、それは晩期中葉安行3c式期まで祭祀が行なわれたようなのです。

 しかし、多摩丘陵西麓には同じような地形が点々と立地していますから、どうしてこの場所に共同墓地と特殊なストーンサークルが設営されたのか、分からなかったのです。

 そうしたら、町田市の教育委員会におられる松本司さんという風水研究家ですが、この場所に立つと、冬至の日には蛭ケ岳、丹沢連峰でもっとも高くてピラミッド状をした山でその山頂に太陽が沈むというのです。富士山も辛うじて見えますけれども、正面には蛭ケ岳が屹立するように見えるのです。その蛭は、血を吸う蛭の字を書きますが、松本さんは本来は真昼の昼、これは大日如来に関係する昼で、山頂に太陽が沈むときに大日如来の光背のように光が放射するというのです。私も半信半疑で観測に出かけ、固唾を呑んで見守ったところ、確かにそういう光景に遭遇し感激しました(図10)。

<図10>
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 おそらく縄文人もこの場所に集団墓地を設営することにしたのも、なにもこれは風水だからというのではなく、先祖の霊の甦りと集団の繁栄を祈願する条件に適った位置にあったからではないかと考えられるのです。この場所はもともと丘陵末端に近い緩やかな斜面地で、中期の集落跡でもあったのですが、彼らは平坦に造成して共同墓地にし、さらに共同の祭祀場に作り替えたわけです。どうしてそうしたのかとなると、また長い話になります。時間も超過しましたので、この辺りで終わらせていただきます。(終)

参考文献
安孫子昭二 1997「縄文中期集落の景観―多摩ニュータウン№446遺跡―」東京都埋蔵文化財センター研究論集16
安孫子昭二 1997「縄文中期集落の景観 2―八王子市神谷原遺跡―」多摩考古27
安孫子昭二 2003「東京の縄文ランドスケープ観測の遺跡」縄文ジャーナル2

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