International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『イングランドのストーンヘンジと周辺遺跡 vol.2』 関俊彦


2 ストーンヘンジ


ストーンヘンジの建つ場所は北緯51度10分42秒である。ここには紀元前3000から1600年ころまで、およそ15世紀にわたってモニュメントが構築されていた(図9)。
 築造の歴史は長く、人々は自分たちのアイデアをさまざまな形でデザインした。その段階を大まかに記しておこう。

第1期

 紀元前3000年ころ、《盛り土》を環状で二重に築き、その間に溝を掘った。ここから出る土を《盛り土》に用いた。《盛り土》の内側に沿って白亜質の地面に掘られた穴、深さ直径ともに平均1m前後、急勾配で平らな底をし、円周上に配した円の直径は86.6mを測る。これらの穴は木の柱を支えるために使われたが、のちには火葬した亡骸(なきがら)の埋葬に使われた。
 56の穴は《オーブリーの穴》といわれ、17世紀に調査したジョン・オーブリーにちなんでつけられた。《環状盛り土》には入り口が2か所ある。それは夏至の日の出の位置と一致する北東の《盛り土》から入る大きな入り口と南の2つめの入り口である。
 最初のストーンヘンジは、すぐ北側にある《カーサス》と同時期につくられた。そして、近くには当時の集落がつぎつぎとでき、亡くなった者は《長形墳》に共同埋葬された。

第2期

 紀元前2900から2600年ごろ、3世紀もつづいたこの時期に、ヘンジの内側に木造の建物がつくられた。《デュリントン・ウォール》や《コーニーベリー・ヘンジ》など、新石器時代後期の遺跡にみられるヘンジの柱穴跡の配置から、木造の家屋が建っていたのかもしれない、という説もある。
 ストーンヘンジは遺構の中心部と北東の入り口と南の入り口にかけ、木柱を支えていた多くの穴跡が残っている。
 《環溝》は自然による堆積土で埋もれ、火葬骨は溝や《オーブリー穴》に捨てられ、人々の死生観に変化が起きたとも思われる。農民の集落はストーンヘンジから1km以内に散在していた。

第3期

 紀元前2600から2000年前後にかけ巨石による構造物が建てられた。南西のウェールズに位置するプレセリ山からブルーストーンが切り出され、重さ4トンの石が350km離れた地から運ばれた。
 環状の《盛り土》と《溝》に囲まれた中心部に、ブルーストーンは二重に馬蹄(ばてい)形に並べられた。石が立てられた穴は《Q穴》、《R穴》とよばれ、穴跡は環状にあるが、石はのちに撤去された。
 ブルーストーンによる石組みの建設から200ないし300年くらい経つと、サーセン石のサークルの築造が始まった。この石は32km離れた北のマルボロー・ダウンズの丘陵で採掘し、重いものは50トン余もあった。
 再建されたストーンヘンジは、入り口部が夏至の日の出に向かって、ほぼ一直線になるように変更され、新しい入り口から《通廊》(アベニュー)が同じ直線上の下り坂に向かって500mほど延びた。《通廊》の幅は約20mで、両側は《盛り土》で仕切られている(図10)。

 ストーンヘンジが直線上につづく《通廊》は、のちにエイボン川まで湾曲しながら延長された。これは儀式の道ないしストーンヘンジへの進入路と思われる。《通廊》に沿って規則的に立石が並んでいたらしく、その光景はノースウィルトシャー州の《エイブベリー》の《通廊》と似ている。
 新しく整備された入り口部をのぞくと、再建者は以前あった《環状盛り土》には手をつけていない。ただし、《環溝》に堆積した土を取ったり、崩れかかった《盛り土》を修復したりはしている。その代わりに内部構造に力をそそいでいる。それは、こんにちでも残る40のサーセン石や43のブルーストーンなどの石組みにみてとれる(図11)。

 では、内部構造に踏み入ってみよう。《環状盛り土》の内側にある4つのステーション石のうち、2つは浅い《環溝》と《環状盛り土》に囲まれている。
 中央部の石の集合体は同心円状に配されている。最も外側にあるのが《サーセン環》(サークル)で、もともと30の直立石で構成され、連続した環を形成するために、いっぽうの石の端につけた突起物の枘(ほぞ)と枘穴、石と石をつなぐために
片方の石の側面につくる突出部のさねと溝を接合し、楣石(まぐさいし:リンテル)で接合し、少しずつカーブさせながら環状に築き上げた(図12)。
 この内側には、現在散在している《ブルーストーン環》が建っており、60余の立石が配されていた。これらのサークルの内側にあるのが2つの馬蹄形の組み石で、外側の《5つのサーセン三石塔(トリリトン)》は、それぞれが一対の立石で大きな楣石を被ぶせた(図13)。
 内側の馬蹄形に配した石は、最初、柱として用いられたが、いまは崩れたサーセン石の《三石塔》のひとつの下に半分埋められた《祭壇石(生け贄石)》を中心とした19個のブルーストーンで構成されている。
 ストーンヘンジの築造者は、何らかの意図で石を配したが、こんにちも解き明かせない部分が多い。考古学者や天文学者などいろいろな分野からアプローチし、興味ある見解を出しているが、確定的な答は得られていない。
 ストーンヘンジの内側の《盛り土》の切れ目にある北東の入り口には3本の門柱と思える石が立っていた。現在では、そのうちの1本の《祭壇石》が倒れた状態で残っている(図14)。入り口の外側、環の中心から見て、夏至の日の出位置には《ヒール・ストーン》(図15)と、それと同じ石がもう1本立てられていた。

 《盛り土》の内側の《環溝》沿いには4つの《ステーション・ストーン》が月暦と冬至の日没位置に設定された。環の中心部にある石柱構造物より早い時代に建てられたらしい。そして、この時期に《通廊》がつくられた。《通廊》はストーンヘ
ンジの入り口までつづき、その両側には《盛り土》と溝が平行してある。
 巨石には石工らの技(わざ)の痕跡が見られる。石工たちは巨石を石斧を使ってブロック状にしてから、その表面をさらに叩(たた)いて成形し、起立させた。石柱とその上にのせた横石は、両方の石に細工した「枘継手(ほぞつぎて)」で接合し、さらに上部で円を描く一連の横石もそれぞれ隣接する横石と縦型の「さねはぎ継手」で噛み合わせ
た。横石の側面が円弧に沿うように加工し、《三石塔》の側面もきれいに成形している。
 石柱は上方にゆくにつれ先細りにし、高く見せる工夫をしている。また、《三石塔》の横石側面の傾斜も、馬蹄形の内側から見ると垂直になる試みがある(図16)。

 いくつかのブルーストーンは《三石塔》として建てられていた形跡があり、より大きなサーセン石は木工術を使って高い所で石どうしがしっかりとつなぎ合わされている。これらの石はストーンヘンジに持ち込まれる前に、ウェールズかウィルトシャーで、サークルとして建てられていたのであろうか。
 紀元前2100から1800年ごろの人たちが、ストーンヘンジにそそいだ多大な労働力や応用力学などに圧倒される。ストーンヘンジの建設術は、新しくできるモニュメントや小さな石の再配列や《通廊》をエイボン川まで拡張する工事に活かされた。

ストーンヘンジと天文学

 1年をとおし、いちばん昼が長い日の、日の出の位置がストーンヘンジの中心部から見て、水平線の最も北寄りにあるサーセン石サークルの軸と一致することは18世紀初めにわかっていた。
 サークルの入り口部分も日の出の位置とほぼ一致する。多少のずれは、ストーンヘンジが築造されてから長い歳月を経ており、地球の回転軸そのものの位置がわずかにずれ、夏至の日の出の位置が変化したためである。
 4つの《ステーション・ストーン》を結ぶ線が、太陽と月の水平線上の最北、最南の昇降位置を示している。これらの角度を考え、現在の緯度上にストーンヘンジが築造された、という意見もある。
 《オーブリーの穴》のサークルが、太陽と月の動きを示す単純化されたモデルとして使われ、日蝕を予測でき、ストーンヘンジが一種の天文観測所で、月の昇降の観測ができた、という説を唱える研究者もいる。
 ストーンヘンジは太陽ともかかわったし、月とも関係があり、人々は重視する天体を月から太陽へと変えたとも考えられる。ストーンヘンジは初期から長期間、死者の埋葬地として、ここで催す儀礼が重んじられた。このセレモニーは祖先崇拝を基本に太陽や月から生まれる世界観と死と再生、豊饒の儀礼が重視された。これらの儀礼で太陽や月の位置や形状の観察と知識が有効で、天文学的な知識が儀礼の一部を果たしていた、という
見解もある(服部 2010)。
 ストーンヘンジは、サーセン石による構造物の建築後のある時期に埋葬を取りやめ、神殿としての機能を強めていった(服部 2010)。

史峰 第45号より転載

図9~15はJulian1991による。
図16はソールズベリー・サウス・ウイルトシャー博物館提供。

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