International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『イングランドのストーンヘンジと周辺遺跡 vol.3』 関俊彦


3 ストーンヘンジをとりまく遺跡

 ストーンヘンジ周辺には、新石器時代から青銅器時代前期の遺跡、《長形墳》《円墳》をふくめて多数が残っている。このあたりはイングランドでも先史時代の遺跡が最も多くあり、《ロビンズ・フッズ・ボウル》は儀礼的な集会場跡、《カーサス》も儀礼的な場所、《ストーンヘンジ》《ウッドヘンジ》《コーニーベリー》《デュリントン・ウォール》は神殿と一般にいわれているが、いずれも確証はなく、謎につつまれている。

長形墳 (ロング・バロー)

 富有者は一族の威光を示すため、《長形墳》とよばれる長い墳丘状の墓に葬られた。内部は石ないし木を素材とした墓室があり、《長形墳》を囲むように溝がめぐっている。溝を掘ったときの土を盛り上げたのが墳丘である(図17)。溝の内側を採石で整えた例もある。
 《長形墳》はイングランドとスコットランド地域で300余が確認され、ウェセックスやサセックス州、さらに北のリンカンシャーやヨークシャー東部の白亜質地帯全域に多い。《長形墳》は、農耕による穀物生産が高まるにつれ、農民が有力者を埋める墓として築き、その数は200か所以上に及んでいる。そのうち15か所がストーンヘンジから半径5km以内に位置し、イングランドで最も密集している。
 この地域の《長形墳》の長さは20から80mほどで、1例をのぞいて30mを越える。幅はさまざまで築造時の長さの6分の1から3分の1、高さは3から5mほどである。溝は平底で、切り立った側面をし、掘り出した白亜を積み重ねた。上空からみると、方形や台形、楕円形のものが多く、最長辺がいちばん高い形のものもある。
 ストーンヘンジ周辺の《長形墳》の最近における発掘では、遺体は地面の上ないし動物から守るために木の台の上にしばらく置き、猛禽(もうきん)類のなすままに放置された。有力者の遺骨は数年経ってから集め、もう一度地上に安置するか、木槨(もくかく)に収めた。遺骨は一般に東の方向の端に置いた。

 ストーンヘンジ近辺の《長形墳》の築造年代はつかめていないが、ウェセックス州での調査によると、紀元前4000から3000年ころの間につくられたという。ここに葬られた者は一族全員という見方もあるが、近隣に住む一族や親戚をふくめた集団のなかの特別な有力者とみる説が高い。
 なお、ケンブリッジシャー州ハデンハムの《長形墳》の木槨室は7.2mの長さで、太い木柱で支え、分厚いオーク材を使っていた。
 墓室に残された人骨状態から推測すると、いくつかの埋葬法が考えられる。個人葬、家族葬、共同葬、集積葬、つぎつぎと葬られたらしい混在葬と思われるもので、最も多いのは単独葬である。
 溝で囲まれた《盛り土》遺構もあり、入り口が不規則に配され、ここで部族の会合が催されたり、葬儀をしたり、集落の儀式をおこなった、と
いう見方もある。

 ストーンヘンジの周囲には、低い《盛り土》と溝をもつ長方形の遺構をふくめ、12基の《長形墳》が見つかっている。おそらく、初期の入植者にとって、この地域は《聖なる地》であり、農耕地としても最適の場所だったといえよう。
 調査が進行するにつれ、ストーンヘンジがある森は一部が切り開かれたが、一帯は延々と樹木が茂っていた。そして入植者らは小さなグループに分散して農耕に従事し、《長形墳》を築造するさいは、各共同体が協力した。彼らは穀類の収穫が少なかったとはいえ、穏やかな日々をすごしていたらしい。
 紀元前3000年ころになると農耕に従事する集団と、ヒツジなどを飼育するグループとが、土地を使いわけたようである。
 彼らは儀式を主体におこなう《囲い込み》内と祖先の墓域とに分けた。ことにウェセックス地域の人たちにとって、しだいにストーンヘンジを重んじる傾向が広がりつつあった。

カーサス

 ストーンヘンジの北方800mほどに《カーサス》とよぶ直線上に延びた低い《盛り土》と溝跡に囲まれた東西の幅が90m前後、長さ2.8kmの遺構がある。《盛り土》内の西隅に円墳が2基ある。
 1723年ごろ、古物研究家のウイリアム・スタンクリーが、この不可解なモニュメントをスケッチしている(図18)。

 彼は、ローマ人が戦車の競技用につくったと思い、《カーサス》または《ヒポドローム(古代ローマの楕円形競技場)》と名付けた。
 というのは、スタンクリーはモニュメントの近くでローマ時代の貨幣を見つけたこと、さらに長大な《盛り土》がつづいていたからである。そして、《盛り土》遺構は観客のための正面観覧席と思ったのである。
 しかし、《カーサス》は、彼が想定したよりもはるかに古く紀元前3000年ごろのもので、これは《長形墳》(ロング・バロー)の伝統をひくものと考えられる。ここを発掘してみたが、その機能と目的は確認できなかった。
 ストーンヘンジの北西約2kmに、平坦な尾根沿いにある小さな《レッサー・カーサス》は2期にわたって構築された。
 近年の発掘によって第2段階に以前の溝跡を人々が掘り、幅・長さともに拡張したことがわかった。カーサスの長さは2倍も延びて400mほどになっている。
 第2段階になり、新たに拡大されたモニュメントは、なぜか平坦にしている。そして、掘り込んだ溝底には骨角製の掘り具が整然と置かれていた(図19)。こうした土掘りに用いた道具は、カーサスのモニュメントで儀式がおこなわれた証しであ
る。
 《レッサー・カーサス》は個人の所有地にあるために見学はできない。

デュリントン・ウォール

 紀元前2500年前後に新しい動きが起きた。儀式用のモニュメントと居住域が分離され、そして、東方を流れるエイボン川寄りに人々の共同体が移ったのである。
 紀元前2500から2000年ごろに儀式を催す施設、《環状盛り土》で囲まれたヘンジ、モニュメントが、北東の地の《デュリントン・ウォール》と《ウッドヘンジ》、東南の《コーニーベリー・ヘンジ》である(図20)。

 エイボン川のすぐ西、その広い氾濫原(はんらんげん)に注ぐ浅い谷を跨(またが)っているのが、壮大な新石器時代の《デュリントン・ウォール》
の《環状盛り土》である。
 現在は耕作でかなり崩れている巨大な《環状盛り土》と《環溝》があった。《盛り土》は高さが約3m、直径30m余で、入り口が2か所あり、一つは川に面し、もう一つは溝と《盛り土》の反対側にあった。造営年代は紀元前2500年ごろである。
 1966から68年にかけて発掘がおこなわれた結果、2軒の円形大型建物跡が見つかった。
 北の建物跡は直径14.5m、草葺きの屋根は中央を高くし、ここから光や空気を入れた。建てられたのは紀元前2500年前後と思われる。
 南側の地点からは、時間差をおかずにつくられた木造の建物跡が確認された。初めの建物跡は直径約23mで、全体をおおう屋根ないし、円の中心に向かって傾斜したリング状の屋根が周囲をおおい、中央は屋根のない吹き抜けになっていた、という見方のほうが有力である。
 のちにつくられた建物には6重の柱の環があり、いちばん外側のサークルの直径は39mほどである。築造年代は紀元前2500年前後で、《ウッドヘンジ》の建物と同じく、中央がオープンスペースになるように、周囲には屋根がつけられていたらしい。

 発掘では、これらの遺構から大量の土器類、眼をひくのは《グルーブド・ウェア》とよぶ装飾文様の土器、骨や角製の道具、フリント製の道具類などが出ている。なかには日常用品もあるが、この場所で特別な祭礼が催されときに使用したり、捧げたりしたものもある。
 いずれにしても、《デュリントン・ウォール》の構築には膨大な労力と時間を要し、ある研究者の推測だと50から100万人がそそぎこまれたという。もし100万人が働いたばあい、100人が週6日間作業しても4年間はかかり、巨木のオークの幹は直径1m余で、重さは11トンにもなる。まさに大土木事業といえよう。

ウッドヘンジ

 1925年に上空から撮影した写真で遺構の存在がわかった。その位置はストーンヘンジの北東約3km、《デュリントン・ウォール》の南、エイボン川を見下す低い丘陵上である。写真にはムギ畑に黒ずんだスポットが点々と出ていた。
 これを研究者らが検討した結果、かつて木柱がめぐっていた跡と判断し、調査に踏み切った。1926から28年の発掘によると、《環状盛り土》と、その内側に沿って平底で、深さ2.5mほどの溝が掘られ、さらに内側の平坦部には6重の同心楕円があり、環状に円い穴跡が連続していた。これらの穴跡は大小の木柱を支えたと思われる(図21)。

 現在、フリント石の小さなケルンがある所に3歳児の遺体が埋葬されていた。頭蓋骨は埋納前に故意に2分され、ブリテン島において人間の生け贄が祭られた稀少例といえよう。
 柱穴跡のみから、どんな建物があったかを想定することは困難である。もし、推測が可能ならば、木柱は彫刻や彩色がほどこされ、開けた空間に直立していたか、ストーンヘンジのようにさまざまなレベルで横木をわたし、上部を連結させた建造物だったかもしれない。そして、これらの柱が屋根を支えていたとも考えられる(図22)。

 最も太い柱は3番目のサークルに沿って並び、中央にオープンスペースをとった巨大な草葺き屋根をもつ建物だったともとれる。
 この空間が神殿か部族の集会場、あるいは両方を兼ねた場所として使われたであろう。外側の2つのサークル上にある穴跡からは、軟質の白亜に彫られた斧のシンボルが見つかり、この場所が特定の催しや宗教的な目的に用いられ、斧が特別な意味をもっていたのではなかろうか。というのは、ストーンヘンジでも青銅製の斧の彫り物が出ており、斧が長期間にわたって、ある種のシンボルだったからである。
 本建造物の年代は紀元前2300年ごろという。
 《ウッド・ヘンジ》周辺の調査が広がるにつれ、いくつかのことがわかった。
 新石器時代をつうじて森林の伐採はおこなわれたが、開拓の勢いはゆるやかでむやみに耕地を拡大せず、森の維持管理に初期農耕民は気を配った。
 これをうらづけるものが巨木を用いた木柱サークルである。これらの木々は近場の森から切り出している。他の遺跡からは多数の小穴跡と細い支え杭跡が見つかっており、細い木は太い木を育てるために伐採し、立木密度を疎(そ)にしたときに出るものを利用したとみてよい。さらにブタの飼育場を広めるために間伐をおこなっている。それは、この時代にブタの遺存体の出土率が著しく高くなっているからである。たぶん、ブタは祝祭のときに重宝(ちょうほう)されたであろうし、食肉用として飼われていたので、他の動物にくらべて多く出ている。

史峰 第45号より転載

図17~23はJulian1991による。

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