International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 縄文対談  津川雅彦氏(俳優) × 小林達雄先生(考古学者) 2




小林)
平和という問題は、時代や国を超えて考えさせられることですし、平和について考える時に今日でも世界中には色々な問題があるわけで非常に身につまされる思いがします。

今の津川さんのお話は少し買いかぶりすぎていて、縄文人も人の子、我々と同じです。私だって外からみれば女房と仲良く見えますが、本当のところは皆さんにはお話していません。いろいろ葛藤がある。ある程度の人に迷惑をかけて、家庭の問題を外にむけたり、家庭の争いごとを解消するために外に働きかけたりはやらないといけないですね。

佐藤卓さんが企画した国立科学博物館で開催された「縄文人展 芸術と科学の融合」(2012年7月1日まで)に呼ばれましてその時に書きました。今の話をふまえたうえで、人間は争う動物であるということを強調したのです。つねに争っているのですが、争うから平和じゃないというわけではない。けれども、争い方やその影響、どの程度まできたら身を律するかを考えていたのです。話は少し変わりますが、昔からいじめとういうものはあったのです。私もとても小柄だったので、3人くらいの仲間を作って団結すればあまり怖いものなしでした。だから人に意地悪をしたこともあります。ですが、はたから見ると許されていました。上級生から呼び出され怖い思いなどもしました。いじめは普通にあることだと考えていました。しかし最近のいじめは律するというたがが外れて、それを監視する人の目もおかしくなって右往左往している感じです。実は縄文人も戦っています。その原因がばかばかしいのです。だからこそ許される、だからいいのです。真剣に戦っていたらまずいですが、そこまではいかなかったのです。

どういう経路で戦争になるのか?太平洋を挟んだ対岸にあるシアトルやバンクーバー、そしてその北にかけてはトーテムポールを立てた人たち。この人たちも縄文人と同じ自然経済でサケをたくさんとって保存食にするなど、農耕がありません。でも戦争をよくしていました。戦争は冬にするのです。どの時代もはねっかえり者がいて、若い奴はじっとしていられない。血が騒ぐのが抑えきれなくなって、そういう奴らはすぐ隣を攻撃するのではなく遠くまで行く。卑怯にも夜討ち朝駆けです。相手も襲撃を受けたら反撃できない。これは残酷です。農耕がなくてもすごく残酷なことをします。男はみんな殺してしまいます。年端もいかない子供や女は連れ帰って奴隷にするのです。縄文社会にも階層制度があって、奴隷がいたのではないかと僕は考えています。一般的には、争うのは、弥生時代から始まると考えがちですが、人間性という点からすれば縄文時代から凶暴性はあったと思います。

北アメリカ北西海岸インディアンは奴隷を確保していた。身分が高い人は沢山の奴隷を抱えていた。ヨーロッパからアメリカ新大陸に渡り最初に高邁な精神で先住民族に接していると思われていた宣教師たちも、先住民から奴隷をもらっていた。平和をうたうはずの人達もたくさん奴隷を抱えていた。だからこそ平和だったのです。

縄文は平和だったのですが、きれい事だけではない。そういう問題を抱えながらも平和を維持したというのは、もしかしたら縄文人の評価が厳しくなるかもしれないですが、だからこそより評価が高くなるのではないかと思います。

どうしても人間同士が四六時中顔を合わせているとストレスがたまります。これは心理理学的に避けられないことです。それには500人規模を超えるとそのグループは自滅崩壊しがちになると文化人類学者の大方の見方があります。大勢いると時に、うそをついたりして上手く立ち振る舞いをしていかなければいけないので、なかなか難しい。そう意味で、縄文人のグループは500人を超えなかった、おそらく約100~150人くらいだったのではないか。実はそのくらいの人数が仲良くなるにはいい規模です。弥生時代には、500人以上のグループができ、邪馬台国のような形ができ始めると、地域を超えてもっと大きなグループを形成しなくてはいけないから、時には武力が生まれるかもしれない。地域を超えて争い事が起きたかもしれない。縄文も小競り合いはあったと思いますが、社会集団として平穏に機能させるためにおこなったところで、そのおかげでノイローゼやストレスを抑えることができ、うまくやっていけたのではないか。

もうひとつ大事なのは、縄文人は仲間同士の付き合い以外に、1日24時間、昼夜、黄昏(たそがれ)時と彼は誰(かはたれ)時など、大まかな時間を認識していて、個人の生理学的な単位だけでも昼夜があるわけで、その中で壁に囲まれた竪穴住居で家族と一緒に時間を過ごす。イエを出るとムラの仲間とつきあう。ムラというのは生活の根拠地で、そこからハラにでて、食料と道具つくりに必要な材料を手に入れてムラに戻る。大事なのはハラという存在です。ムラはそれまでの自然界歴史の中でまったく新しい空間。人間が人間のために使いやすいように作り出した空間。ムラの中の景観は自然とは全く対照的な人間の利己的な空間になるわけです。それに対して、ムラの外にあるハラというのは、自然的秩序がずっと残っていて、それを崩さずに自然の恵みをいただく。それが縄文人のやり方で、縄文時代が1万年以上続いた要の一つだと考えています。いろいろな試行錯誤で達して結論かもしれませんが、人間の能力には一定の判断力があり、自然を利用している自分たちにとって自然は乱暴狼藉で勝手気ままに使っていいものだとは思っておらず、大切に利用するという哲学思想が普通にある。アメリカインディアンやオーストラリアの先住民族もそうです。これが大事なことで、仲間同士との付き合いとは別にハラに出て生かさせていただく作業を重ねていくうちに、自然との共存共生としての対話があり、やりとりにつながる。だから、人の社会だけで付き合いがあり、対立が起こると、血を流すような大きな対立になりかねない。ですが、相手が自然ですから、一方で津川さんが指摘されたように自然に対して草木みなものをいうという見方があります。八百万の神がいて、草も木も川の流れもすべて魂をもち、生命体であり、精霊が宿っている。それは自分たちにも宿っているという考え方。その考え方、宇宙観みたいなものを一生懸命整理していくわけですが、日本列島の縄文人だけではなく、自然民族はそうやって自然と共存してきたのだと思います。ところが、中国やヨーロッパ大陸側の自然との付き合い方は、ムラの外に自然的の秩序を維持してその恵みを控えめに利用させていただくという感覚は低く、むしろそういうハラを許さず、その存在を否定する。そして代わりにノラという存在をつくっていく。つまりムラの周囲にハラがはびこっていると、それを征服し開墾していかなくてはいけない。弥生時代以降、日本列島でもその道を進む。縄文が1万年以上自然との共生を続けている間に、大陸側の農耕を基盤にしてムラをつくっている人たちは自然を破壊し征服して自分たちの人間意識を高めていった。

子供の頃の日本の教科書もそうだったかと思いますが、人間は自然を征服してこうやって成果をあげてきたがゆえに自然の世界のトップにいるんだということに喜んだものです。しかし、それはヨーロッパ的なムラの世界観から生まれたものだと思います。それは自然をただ征服するのではなく、効率よく征服する。そうすると技術が必要です。たとえば開墾してハラをノラにしていくときに灌漑設備をつくるために土木工事の技術がなくてはならない。それから、限りある労働力の中で開墾を進めるための効率性を考えなければならない。だから大陸側から世界四大文明が生まれる。そんな中、日本はそういったものとは無縁で、依然として自然と対話をする文化が1万年続いていったのです。1万年続いたからこそ、今日の日本文化、日本人的の考え方の基礎が出来上がったのです。大陸側は自然との共存共生という歴史を抜きにして、ムラをつくったら即自然との対立の歴史になっている。だから欧米的の考え方と日本人的考え方との違いはそこにあるのだと思います。今まで縄文時代は、歴史のはしがきみたいにとらえられがちだったのですが、ちゃんとした歴史の展開の第一歩として着実に歩み始めたのです。

津川)
農耕のはじまりが、実は縄文1万年の平和をぶっ壊す元凶になったのだとは全く驚きです。「原野」と云う大自然を破壊し「野良」にしてこれを耕し、より多くの穀物を効率よく収穫する。その「効率」と云う価値が人間社会に入ってきた故に「争い」がはじまったのだというお話は、カルチャーショックでした。

もうひとつ、冬至夏至の時に近くの美しい山の頂上からお日様がのぼる。その美しさに感動し、美しさの中にこそ神の威力が宿り、その美が見られる場所に住まいをつくることで、神のパワーに守られるに違いないと信じた縄文人の美への信仰にも感動しました。更に、三内丸山では3本ずつ向い合せに6本の巨大な白木の柱を建て、その間から日が昇るのが見えるような高度な工夫をしています。この縄文人の美しさを極める姿勢には感嘆します。土器に必ず突起をつけることでこれを「神」と定める抽象感覚も、岡本太郎さんが「これが芸術だ」と驚き叫んだ所以でしょう。更に縄文の火焔土器に見る模様の素晴らしさや、土偶の美しさには心底感動します。縄文人の美しさに対する信仰、美への崇拝は現代の日本人にも受けつがれ、春夏秋冬の自然の美しさを愛でる風習をも築いてきました。家屋の中にも、障子で部屋と部屋を区切り、それぞれの「間」の美しさを大切にし、またその障子を取り除くと全ての「間」が開放され、外の縁側や庭、借景の山や川や海と一体になり、大自然の中に住まいそのものが溶け込むように造られています。日本人は西洋文明が入って来るようになり、また大東亜戦争に負けてからは日本的美意識を疎かにするようになってしまいましたが、自然の美しさが神のパワーを持つという縄文の精霊信仰を現代に蘇らせて再構築すれば、現代人はもっともっと大自然に生きる生命と美しさを大切にできるのではないでしょうか。

話は変わりますが、北方領土から沖縄までも縄文土器が豊富に出土しているんですね。つまり縄文時代から、北は北方領土、南は沖縄までが日本の国土だったと云う証拠です。更に、縄文土器はそれより外地には一切出土していません。ということは、1万年の間、鎖国状態であったとも考えられます。江戸も縄文に次ぐ250年の世界に誇る平和継続の歴史がありますが、やはりこの江戸時代も鎖国をしていたわけです。

我々には明治時代以降に西洋文明、西洋文化が入ってきたことは基本的にはよかったんだとの理解があります、ゴッホやルノワールの絵を観られたことやバッハやベートーヴェンのクラシックを聴け、ギリシャの神殿を観られたことも素晴らしいと思いますが、文明というものがもたらす原子力や科学の廃棄物、食料の農薬や防腐剤等の毒素。文明が発達しすぎることが「生命」にとって良いことばかりではないとわかるようになりました。勿論ガスに点火するとき、木をこすり合わせて火を起こすよりもライターやマッチのほうが便利になって良かったとは思いますが(笑)。現代人はわれわれは進化してきたと思っているけれども、人間の質という意味で、縄文の人々の方が自然を愛し、仲間を愛し、生命を愛する、上質の人たちがはるかに多かったように思います。

縄文人が、富士山の頂きから太陽が昇る美しさが最高のパワーを持つと信じ、自然を愛し、大切にしてきたことが、1万年の平和を築くパワーにもなったわけですが、アウシュビッツでも、ガス室送りの恐怖の毎日の中で、道端に咲く花を見て「あ、きれいだな」と思えた人は、生き残ったといわれています。どんな時にも美しいものを見て美しいと思える人間の「余裕」が不思議な生命力を与えてくれるのではないでしょうか。縄文人が持っていた美への信仰とそのパワーは、DNAとして日本人の中でしっかり生き続けてきたことを、東北の人達のあの美しい心とそのパワーをみせてもらったことで確信することができました。

小林)
3・11の時の被災者の姿勢や態度が本当に世界を感動させました。おっしゃる通り日本人的な心が表れたのですね。そして日本人的な心が表れれば、誰もが感動する、人間として最高の態度の典型だと思います。美しいということを自分の心の中でそれを見出すことのできる能力がないといけない。能力があっても活用しなければ確認できない。縄文人は1万年自然と共生していたということで自然を見ていた。森林を表すのにふさわしい言い方ではないかもしれませんが、自然がはびこるジャングルのようなところを歩くときに、足元を見ずに顔をあげていかなくては前に進めません。顔をあげて辺りを見ながら道を探していく。森の中の生活の場としての活用させていただく気持ちが基礎になっているのだと思います。農耕の人たちは朝起きて支度をしてハラではなくノラにでるよね。そこでは効率よくさばいて早く家に帰ることが先にあって、だから下を見て一生懸命働くわけです。だから弥生時代以降は下をみて行動していく時間が増えていく。上をみるとおのずと自然が目に飛び込んでくるわけですから、そういう縄文人の原体験というものは得難いものだったのではないでしょうか。ところが、現在僕たちは危機的な状況を作ってはそこにこもっているわけですが、都内には富士見坂とか富士見町いうものがたくさんありました。自分たちの生活道路に名前をつけるときに遠く富士山を望んで、それとの関わり合いの中でそういった名前を付けたのですが、今はそれができない。一方では排気ガスで空を曇らせていくことが進んでいく。なぜ梅原猛先生が「まだ遠くに縄文がある」と感動しながら望みを託したかというと、それは単純なことで自然を自分たちの生活の好き勝手の材料にしなかった。自然との程よいバランスの中でやってきたことが大事だったと思います。

私は仲間と遺跡の発掘にでかけるのですが、都内でもしょっちゅう発掘をやっています。江戸時代の遺跡からは町屋や大名の墓などがでてきます。やはり田舎に行きますと山が目に飛び込んでくるんですが、そんなとき調査員に「夏至の時には朝日はどこから昇るのか」と聞いても誰もわからないのです。下を見て発掘に見落としがないかどうかそこだけ気にしているのです。あるとき、相模原市で調査をしているところに見に行った時に変なものがあるんですよ。

幅7~80㎝の白い粘土を敷きつめた帯が5~60mくらい直線的に続いているのです。道路でもない、訳が分からないものなのです。そこが縄文人にとっては意味があることなのです。我々の考えで延長線上で役に立つ立たないものを作ることこそが彼らにとってはよりどころなのです。それを下を向いて一生懸命掘っているのです。その時ふと顔を上げると大山がどんとあるのです。方角を見てみると、西あたりの日の出じゃないかと言うと、私よりもおしゃべりなやつがいて「ちょっとずれてるんじゃないですか?」なんて言うのです。調べてくれと頼んでも全然やってくれない。今はカシミールというソフトがあって簡単に調べられるのです。どちらから日が昇り、日が沈むかとか冬至の時はどうだとか。現場に行ったら大山を直接見られるのに、どちらに日が沈むかを確認しないんで、下だけをみているんです。そんな時、作業員のお年寄りが「あそこから出ます」と教えてくれる。地元の方はわかっているんです。その土地で生まれて育った人は食べ物を手に入れて平和に暮らすことだけではなく、自然の動き、四季だけを愛でているだけではなく太陽がどこから昇ってどこに沈むかなどは無理して調べようとしなくてもちゃんと頭にはいっている。いかに現代のわれわれが自然とのかかわり方がさみしい状態になっているかを考えると身につまされる思いがするのです。だから日本人的な考え方とか、日本文化がなぜ欧米的なものや大陸側のそれとは違うのかを考える時に、1万年以上の縄文文化の歴史を踏み台にしている。実は、はしがきではなく、第一歩にしてそれから着実に現在につながっているのです。ですからその1万年間は単なる無駄なプロローグではなくちゃんとした効果を残したはずです。それが我々の体に文化的遺伝子としてすりこまれていると思います。そしてそれは言葉である。言葉というのは日本人だったら和語や大和言葉であり、さかのぼれば縄文語です。万葉集ひとつみても8世紀にあれだけの歌を歌えるわけです。それがつい最近になって言葉を手に入れて5・7・5・7・7でまとめてみたものではないのです。ものすごく言葉の操り方がうまいわけです。8世紀の、万葉集がつくられていた時代から少し前は古墳時代ですし、少しさかのぼれば弥生時代です。弥生時代は短いですから、そこを通り抜けると縄文です。だから大和言葉は縄文時代にちゃんと自由に操っていたのです。それが文化的遺伝子を生み出して、そして言葉として伝えられ、その言葉がまた文化を生み出して、そして文化が言葉を生み出す。そうやって日本文化がつながってきた。そう考えると、悪条件がだんだん増えてきてはいますが、それでも縄文の伝統が今まで生きてきたように、これからも生き続けると思います。それは日本語がある限り大丈夫。よく聞きますが、俳句を作り続ける人がたくさんいる限り日本文化は安泰です。

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