International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域・3』 佐々木藤雄


集落内環状列石と集落外環状列石

 ところで、縄文時代の環状列石の中には墓地の不明瞭な例も存在する。とりわけ中部・関東の環状列石には墓地を伴わない例が少なくないことから、大野遺跡の土壙群の中に墓が含まれていた可能性を否定し、さらには大野の環状列石自体を特別視する考えがある。

 しかし、最近、中期中葉~末葉の環状集落が発掘された神奈川県川尻中村遺跡では、中央広場を中心にピット群、その外周に住居群が分布する明瞭な重環状構造が確認されるとともに、ピット群の内側からは中央広場を囲むように構築された環状列石が発見されている。

 列石は径35メートルほどの隅丸方形状を呈し、中期後半を中心とする時期の所産であることが指摘されている(図8)。

(図8)神奈川県川尻中村遺跡
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構築時期といい、環状集落と一体化した重環状構造といい、大野の「集落内環状列石」との相似性は明白であり、しかも列石の下部や内側からは土壙墓群の分布も確認されている。大野例を特別視すべき理由はなく、環状集落中央墓地を囲むように分布する「集落内環状列石」が環状列石の初現期の姿を示していた可能性は、むしろ一層強まったといってよい。

 では、中期後半には中部山地や関東西部の山寄りの地域に登場する墓地を伴う「集落内環状列石」の分布が、中期末葉以降、中部・関東では不明瞭になり、環状集落の中心域から外れた北東北においてかえってその伝統を受け継いだ「集落外環状列石」の分布がみられるようになるのは何故なのか。環状集落の北東北への伝播の問題とあわせて、問われるべきはこの点であろう。

環状列石の建設と地域共同体

 大野遺跡では、環状列石や直線状列石に使用された数百個近い円礫の多くは、径1メートルを超える大形礫を含めて遺跡の四十メートルほど下を流れる伊奈川から運び上げられたと考えられている。

 また、大湯遺跡万座環状列石では七キロメートルも遠方から運び込まれた5000個を超える多数の礫の使用が報告されている。規模の違いはあれ、多量の労働力と長い年月を要するこうした環状列石の建設には、一集落という枠組を超えた多くの人々の参加と共同作業が深く関与していた可能性が強い。

 中部・関東の環状集落の中には数10軒から時には数百軒という多数の住居が発見される例がみられる。しかし、発掘された住居の総数はあくまでも集落の成立から終焉までの時間的な累積の結果に過ぎず、大規模集落の場合でも同時存在住居数は5~6軒からせいぜい10軒、集落構成員数は30人から50人前後にとどまっていたと推測される。

 直線的帯状配列の集落構成を特徴とする青森県三内丸山遺跡については、遺跡の広がりや出土遺物の多さなどから1500年にわたって継続した人口500人の「縄文都市」であったという説が「縄文文明」論とあわせて唱えられている。

 しかし、当時の自然・経済条件を考慮に入れるならば、三内丸山は最大でも人口100人ほどの、しかも1500年にわたって「断続的に」継続した拠点的集落とみるのが妥当である。一集落への過度の人口集中は、資源の浪費や生活環境の汚染とも相俟って、集落そのものの存続を脅かす要因となるだけでしかない。そのシンボルともいえる高さ20メートルの「高層の神殿」同様、「縄文都市」は荒唐無稽のフィクションに過ぎない。

 地理的位置からみて環状列石の日常的な管理にあたったと考えられる大野の小規模環状集落の場合、想定される同時存在住居数は約2軒と少ないが、遺跡の所在する伊奈川水系ではほぼ同時期の複数の集落の分布が確認されている。

 同様の集落の分布は他の水系でも確認されており、木曽谷では、こうした水系をいくつか包摂する南北20~30キロメートルの範囲に、婚姻相手の交換や物資・情報の伝達、集落群を超える協業、各種の対立・抗争の調停といった機能をもつ相互扶助的な結合体、「地域共同体」が形成されていた可能性が強い。

 全体として200人、あるいはそれ以上の人々から構成されていたと考えられる「地域共同体」こそは環状列石の建設や儀礼を支えた主体であると同時に、父系外婚にもとづく通婚関係の基本単位でもあり、大野の環状列石は、こうした地域集団の共同墓地兼祭祀センターとして多くの人々を結びつける中核的役割を担っていたことが推測されるのである。

(図9)人面装飾付き有孔鍔付土器-長野県大野遺跡

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環状列石を舞台にした祭り

 ところで、環状列石の形成をめぐって認められた明瞭な結界の形成、区画の特別化についていえば、その主要な目的が住居群と中央広場―中央墓地、日常空間と非日常空間、生者の世界と死者の世界のさらなる截然とした区別にあり、またそのことによる中央広場の儀礼的性格の一層の強化にあった可能性はきわめて強い。

 そうであれば、中央広場に墓地をもつ環状集落から「集落内環状列石」、さらには「集落外環状列石」の形成へと至る一連の動きこそは縄文社会をめぐる祖先祭祀の高次化の過程そのものにほかならず、とりわけ後期を中心とする大規模な「集落外環状列石」の形成は、縄文時代における祖先祭祀の一つの完成された姿、祖霊を祀るために歌舞・飲食し、神話・伝承を再現する最高のステージとして位置づけることが可能である。

 大野遺跡では環状列石の周囲より縄文時代の醸造具とも太鼓ともいわれる人面装飾付き有孔鍔付土器(図9)や屋外埋設土器など、祭祀性を色濃く漂わせる遺構・遺物が発見されている。

 さらに19号住居では岐阜県美濃地方の土器を用いた屋内埋甕(乳幼児甕棺)が検出され、通婚圏を超えた他地域からの女性婚入者―母親の存在をうきぼりにしている。しかし、環状列石を舞台にした祖先祭祀を考える上で特に注目されるのは、環状集落、「集落内環状列石」、「集落外環状列石」の3者に共通して認められる、中央墓地や列石を取り囲むように外縁部に特徴的な分布をみせる掘立柱建物群の存在であり、この中には小形の4本柱例を中心に高床式などのクラが含まれていた可能性が想定されることである。

 民俗例によれば、墓地という非日常的な空間にしばしば高倉が群集する背景には、クラが収納された穀霊を祀るための祭場でもあるという伝統的な観念が存在している。

 縄文時代でも環状集落中央の広場は重要な祖先祭祀の場であり、葬送の場であったからこそ、その外縁に埋葬儀礼関連施設と並んで祖霊によって守護されるべきクラが建てられ、全体として重要な共同祭儀の場を形づくっていた可能性が強い。

 しかも、こうしたクラと祖先祭祀との密接な結び付きは環状列石にも明確に受け継がれている。祖先祭祀の高次化という事情を考慮に入れるならば、むしろその儀礼的意味合いは飛躍的に高められていたとみることができる。

 縄文の聖域ともいうべきこうした小宇宙を貫く祖先崇拝にかかわる呪的原理の濃密な流れは、クラに収納された植物質食料などの豊饒の儀礼とも一体となって、かれらの社会の再生と豊饒を希求する祈りへと収斂されていったことであろう。

環状列石と縄文式階層社会
 従来、環状列石内には関連する集団の構成員すべてが平等に埋葬されると考えられてきた。しかし、大野遺跡の「集落内環状列石」を例にとれば、列石内に残された土壙墓の総数は多く見積もっても百基ほどであり、「地域共同体」の一時期の構成員数にも遠く及ばない。後期の大規模な「集落外環状列石」でも事情は同様であり、1集落という枠組を超えた埋葬行為が想定される西田遺跡の環状集落でも、確認された土壙墓だけでは該当する集団の構成員を数世代にわたって収容することは到底困難であることが指摘されている。

 環状列石は単なる「集団墓」ではなく、すべての構成員が葬られることのない不平等な墓、階層的な性格を帯びた「特定集団墓」であったとみるのが妥当であり、しかもその萌芽は環状集落の中央墓地の中に見出される。

 環状集落の盛行期である中期後半期は、各種の経済的・社会的な不均等とあわせて集落を構成する家族の個別化・自立化が顕在化する時期としても知られている。

 「集落内環状列石」は、こうした時代のダイナミックな動きに呼応するように、以上の矛盾や緊張がもっとも先鋭化する中部・関東の一角に登場する。

 その産み出し役である「地域共同体」の互酬的な機能を思い起こすならば、こうした環状列石を舞台に執り行われた祭祀・儀礼の数々が個別化を進めつつあった集団構成員の系譜的な結び付きを強め、集落内外を取り巻く様々な矛盾を調整する重要な潤滑剤的役割をはたしたであろうことは想像に難くない。

 しかし、すでに明らかなように、この高次化された共同祭祀施設は、祖先崇拝を中心とした集団全体の再生・豊饒を希求する場であると同時に、集団構成員の不平等な葬送の場でもあった。

 いうまでもなくそれは矛盾であり、このような複雑かつ錯綜した状況の中にこそ、階層社会の成立に向けて大きく舵を切ったこの時代を象徴する、まさしく記念碑的な存在としての環状列石の本来の性格は刻印されていたということができる。

 「集落内環状列石」に比べて遥かに多くのエネルギーを要する「集落外環状列石」の出現は、その建設と管理を可能にするだけの剰余の蓄積と「地域共同体」による、より強力な関与をうかがわせるものであり、しかもそれが各地の「地域共同体」によって競うように構築された背景には、その建設自体が当該共同体の豊かさを誇示する指標ともなりえたという事情が存在していた可能性が強い。こうした過程を通して、環状列石をもつ集団ともたない集団との間の差別化・不均等化も進行していったことであろう。と同時に、「集落外環状列石」の建設や管理を統括することになった「地域共同体」の指導者層にとっては、環状列石は自らの個人的な威信を高めるための最高の舞台装置でもあった。

 とりわけ季節を選んで行われる祖先崇拝を中心とした祭祀・儀礼は、かれらの威信を広く誇示する絶好の機会であり、列石の外縁に設けられたクラの収納物に対するかれらの管理・運営権がそうした威信をさらに際立たせ、具体的な力を付与していったことは疑いない。

 先行する中期後半段階に顕在化した階層化の動きは、生産力の発達と剰余の蓄積を基盤とした、こうした威信的な序列の整備と祖先祭祀自体の変質化を通して、その歩みを一層速めることになるのである。

 環状列石にかわって環状周堤墓や環状溝墓と呼ばれる、多量の副葬品を伴う特定集団墓や特定個人墓が北海道で相次いで登場するのは、このしばらく後のことであった。

註1 大湯遺跡などの「集落外環状列石」外周の掘立柱建物には居住施設が含まれていたという見解が提出されている。たとえその場合でも、列石の外周に明瞭な竪穴形式の住居が残されないのは何故なのか。「集落内環状列石」との差は明白である。

<引用・参考文献>

• 秋田県教育委員会『伊勢堂岱遺跡』1999
• 岩手県教育委員会『東北新幹線関係埋蔵文化財調査報告書Ⅶ』1980
• 鹿角市教育委員会『特別史跡大湯環状列石発掘調査報告書13』1997
• 佐々木藤雄『私が掘った東京の考古遺跡』祥伝社ノンブック 2000
• 佐々木藤雄「環状列石と縄文式階層社会―中・後期の中部・関東・東北」安斎正人編『縄文社会論』同成社 2002
• 長野県埋蔵文化財センター『北村遺跡』1993
• 新潟県立歴史博物館・新潟県朝日村教育委員会編『奥三面展』2002
• 松村瞭・八幡一郎・小金井良精『下総姥山ニ於ケル石器時代遺跡』東京帝国大学人類学教室研究報告五 1932
• 百瀬忠幸ほか『『中山間総合整備事業地内埋蔵文化財発掘調査報告書』大桑村教育委員会 2001
• かながわ考古学財団『川尻中村遺跡』2002

佐々木 藤雄(ささき・ふじお)

共同体研究会代表
1947年福島県生まれ。
早稲田大学大学院文学研究科修士課程終了。
専門は日本考古学。

主要著作論文: 『原始共同体論序説』、『方形柱穴列と縄文時代の集落』、『縄文時代の土器分布圏と家族・親族・部族』、『北の文明・南の文明』、『私が掘った東京の考古遺跡』など多数

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■ 『縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域・2』 佐々木藤雄


大規模記念物の登場

 縄文時代における墓の変遷を考える上で重要な成果をあげることになったのが1999年に長野県大野遺跡を舞台に行われた調査である。

 大野遺跡は木曽谷の山間、中央アルプスを間近に仰ぐ河岸段丘上に位置する中期中葉最新段階~中期後半の集落遺跡である。先の西田に比べると、確認された住居は9軒、掘立柱建物2棟と小規模であるが、中央には土壙群の分布する広場が残され、その外周には掘立柱建物、さらにその外周には住居群が分布する明瞭な重環状構造を示していたことが注意される(図5)。

(図5)長野県大野遺跡
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 西田遺跡のミニアチュア版ともいうべき大野遺跡をさらに際立たせていたのが、木曽谷では初めてとなる環状列石の発見である。

 確認されたのは全体の4分の3ほどであるが、外径二22メートル、内径17メートルほどの小ぶりな略環状ないし隅丸方形状を呈しており、共伴土器などから住居群とほぼ同時期に構築された可能性が想定されている。

 列石は南東側に中央アルプスの尖鋭的な頂きを望む緩斜面のもっとも谷寄りの部分に広がっており、北西側には直線状列石をはさんで男根を象徴するような刻みをもつ立石が単独布する(図7中)。

 今日、墓と思われる列石下部あるいは列石内側の土壙の存在とも相俟って、葬送と祭祀儀礼とが統合化された大規模記念物(モニュメント)としてとらえる見解が一般化しつつある環状列石の起源についてはなお不明な部分が多い。

 長野県上原遺跡や阿久遺跡例をもとにその初現を前期にまでさかのぼらせようとする考えも以前から存在するが、環状列石の分布が一般化する中期末葉以降の例に比べると時間的な空白が大きく、両者は別個の存在であった可能性が強い。

 その中で、遅くとも中期後半の古い段階にさかのぼる大野遺跡の環状列石は、現段階では最古例に位置づけられるものであり、そこには、環状列石の起源についてはもちろん、縄文時代における墓制の大きな転換を暗示する重要な手がかりが刻印されていたことが知られるのである。

(図6)秋田県伊勢堂岱遺跡出土の環状列石a

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(図7)環状集落-集落内環状列石-集落外環状列石の重環状構造
    左から-大湯遺跡-万座-大野遺跡-西田遺跡
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環状集落内に形成された環状列石

 環状列石が盛行する後期を中心とする北東北・北海道では、列石は日常生活の拠点である集落からやや離れた場所に営まれるのが一般的であり、列石のすぐ近くから住居が検出される例は少ない。

外径50メートル前後の2重・3重にめぐる大規模環状列石複数が発見された秋田県大湯(図7左)や伊勢堂岱遺跡(図6)では、これまでにも列石に伴う土壙墓や配石墓、土器棺墓などの出土が報告されている。

 しかし、環状列石の周辺から検出される遺構は、その外周を環状にめぐる掘立柱建物などに限定されており、これらの列石は葬儀や祭りなどの非日常的な行事を行う時に利用される特殊な場所であったことが推測されている。

 これに対し、先の大野遺跡では、環状列石は集落の中央広場を囲むように前記の掘立柱建物や住居群のすぐ内側に建設されており、列石の下部や内側からは墓の可能性も考えられる多数の土壙群が発見されている。

 すなわち、ここでは環状列石は環状集落の重環状構造と一体のものとして登場している。大湯や伊勢堂岱などの後期環状列石を「集落外環状列石」とすれば、大野例が示しているのは「集落内環状列石」であり、その時間的位置を考えれば、非日常的な葬儀や祭りの場と日常生活空間が同心円状に分布する大野の「集落内環状列石」が当該遺構の出現期の姿をうきぼりにしていた可能性が強い。

 ここで改めて西田遺跡に視点を戻せば、大野と西田の環状集落の間には中央広場―中央墓地の内と外を区画する列石の有無という違いが存在するだけといっても過言ではなく、さらに大野と後期の「集落外環状列石」も、住居群の有無(註1)を除けば、その基本構造に大きな違いはなかったといってよい(図7)。

 環状列石の起源は一元的か多元的か、即断は難しいとしても、こうした環状集落、「集落内環状列石」、「集落外環状列石」の三者を通して認められる際立った共通性に着目するならば、環状列石は大野例のような「集落内環状列石」として環状集落内部に出現した後、大規模な「集落外環状列石」へと発達した蓋然性が高く、また、このような「集落内環状列石」成立の背景に環状集落中央広場の墓域に対する明瞭な結界の形成、区画の特別化という事情があったことは明らかである。

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■ 『縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域・1』 佐々木藤雄


縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域


花で飾られた墓
 1951年から60年にかけてイラク北部ザグロス高地に位置するシャニダール洞窟の調査を行ったアメリカの人類学者ラルフ・ソレッキは、約五~六万年前の、色とりどりの花で飾られたと思われるネアンデルタール人の墓を発見する。四次にわたる調査でソレッキがシャニダール洞窟から発掘したネアンデルタール人化石は合計九体にのぼる。
 問題の墓は1960年発見の四号男性人骨埋葬例であり、科学分析の結果、遺体を覆っていた土の中から暗青色の美しい花をつけるムスカリやヤグルマギクなどの多量の花粉化石が検出されたことから、この墓の主はかれの死を悼む人々によって多くの花とともに葬られたという結論をソレッキは導き出すのである。
 「野蛮な原始人」という従来のネアンデルタール人観に大幅な変更を促すことになったソレッキのロマンあふれる仮説については、しかし今日、その妥当性を疑問視する声が少なくない。花粉の2次的な混入の可能性を否定できないことが大きな理由であり、「最初に花を愛でた人々」という魅惑的な言葉のもつ魔力がこの問題に対する客観的な評価を妨げたという指摘もある。
それぞれの時代の社会観や他界観が投影された墓は、考古学者や人類学者にとって文字のない社会の構造や集団原理を解明する上でのかけがえのない資料として存在する。
 しかし、こうした墓が私たちに垣間みせる表情は複雑であり、その分析には、現代人の主観や価値基準にとらわれない多面的な視点と、それにもとづく緻密な検証作業の積み重ねが必要であることをシャニダール洞窟のネアンデルタール人は教えている。

(図1)土擴墓-長野県北村遺跡
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(図2)配石墓-長野県北村遺跡
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(図3)石組石棺墓-新潟県元屋敷遺跡
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多様な縄文時代の墓

 埼玉県長尾根と小鹿坂の2つの遺跡において、前期旧石器時代にさかのぼる約35万年前の「世界最古の墓」と約50万年前の「秩父原人の住居跡」が相次いで発掘された事件は記憶に新しい。

 世界史の常識を覆す「世紀の大発見」が実はまったくの捏造の所産であったことは佐々木が発掘直後から「予言」していた通りであり、その内容は拙著『私が掘った東京の考古遺跡』に詳しい。

 捏造例を除けば、日本列島でこれまでに発見された旧石器時代の遺跡はすべてシャニダール洞窟より新しい後期例で占められており、この時期の確実な墓となると、発見例は皆無に近い。

縄文時代に入ると、埋葬人骨を含めて明瞭な墓の発見例は一挙に増大する。しかもその形態は、自然の洞窟や岩陰に遺体を葬ったものから、地面に穴を掘って遺体を直接納めた土壙墓、墓壙の上面や内部に礫を配した配石墓、板状あるいは扁平な礫を組み合わせた石棺内に遺体を納めた石組石棺墓、深鉢や甕などの土器内に遺体を納めた土器棺墓(甕棺墓)、竪穴住居内に遺体を放置あるいは埋葬した廃屋墓などに至るまで実にバラエティーに富んでおり、屈葬や伸展葬といった埋葬姿勢の違いともあわせて他界観の多様な発展の跡をうかがわせている。

 草創期から晩期まで全期間を通してもっとも一般的なのは土壙墓であり、配石墓も早期から晩期まで比較的広汎な分布をみせる。

土器棺墓は前期以降、廃屋墓や石組石棺墓は中期後半から中期末にかけて登場する。地域性の強いものが多く、特に廃屋墓や石組石棺墓は東日本に偏在する傾向が看取される。

 なお、千葉県姥山遺跡はフグ毒などの食中毒で同時に横死したとされる男女5体の人骨が同一住居内から発見されたことで有名である。

 異常死を恐れる人々によって家族全員が家屋ごと放置されたと考えられてきた姥山例は、実際には不慮の事故によって同時死亡した四体と正規に埋葬された屈葬女性1体の2つのグループから構成されていた可能性が強い。5人同居=5人同時死亡という従来の定説は全面的に訂正される必要がある。

(図4)竪穴住居から発見された5体の人骨-千葉県姥山遺跡
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環状集落と墓域の成立

 草創期および早期の墓は単独あるいは散在する形で発見されるものが大半であり、集落との関係については不明なものが多い。

 前期以降、中部・関東を中心に円環状に住居が配置された拠点的な集落、いわゆる環状集落が形成されるようになると、住居群に囲まれた中央広場には多くの土壙墓が群在するようになる。

 環状集落がピークを迎える中期後半の岩手県西田遺跡を例にとれば、直径150メートルを優に超える本遺跡の環状集落は中央広場を囲むように大小多数の掘立柱建物群、その外周を住居群、さらにその外周を貯蔵穴(ヂグラ)群が2重・3重にめぐる重環状構造をみせており、広場からは列状に分布する少数の墓を中心に放射状に配列された200基近い土壙墓群が発掘されている。

 西田遺跡の重環状構造からうかびあがってくるのは居住域から区別された明瞭な墓域―集団墓の成立であり、非日常的な空間を中心に日常生活空間が広がる、「縄文の円環」とも呼ぶべき特徴的な空間配置の背後には、縄文人の独特の世界観、他界観が存在していたことは明らかである。

 ただし、今日、環状集落の分布は中部・関東を中心とした前期~後期の東日本に大きく偏在している。また、こうした拠点的な環状集落の周辺には広場をもたない集落や住居の跡さえ不明瞭な同時期の遺跡が数多く残されている。

 縄文集落がすべて中央に広場を伴う環状集落で占められていたかのような一部の考えはまったくの誤りであり、まして環状の集落構成を縄文時代が生産と消費のつねに等質な社会によって貫かれていた表徴とみる考えには到底賛同できない。

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