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■ 『東京の縄文ランドスケープ観測の遺跡』 安孫子昭二


東京の縄文ランドスケープ観測の遺跡

はじめに
 縄文人は、年間の日の出や日の入りなどの天体観測により二至二分を認知し、往々にして観測する特別の場所に記念物を構築していたことが、次第に明らかにされつつある(小林達雄編 2002)。
 記念物となる環状列石や巨木柱列が設営されたような場所からは、春分・秋分・夏至・冬至に神名備型をした山の山頂付近に日の出や日の入りが観測できることがある。町田市小山町にある「田端環状積石遺構」もそんな記念物のひとつといえる。

環状積石遺跡の現況
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田端遺跡調査報告書より
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出土した遺物の色々
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積石遺構の調査概要
 遺跡の発見は昭和43年(1968)にさかのぼる。「畑の土中に石が埋まっている・・・・」という耕作者の通報を受けて、町田市文化財専門委員で玉川学園考古学研究会を指導していた浅川利一氏が中心になり、3月から5月にかけて170㎡を発掘した。田端の調査現場は、私たちが多摩ニュータウン遺跡調査の仮事務所にしていた多摩市唐木田から、丘陵の尾根をはさんだ反対側にあった。知らせを受けた私たちは、山桜が吹雪のように散っていた春の一日、唐木田と橋本駅をむすんでいた神奈川中央交通のバスに乗って発掘見学に出かけた。一抱えもある大きな立石と積石がごろごろ姿を現していて、東京にもこんなストーンサークルがあったのかとびっくりしたことが、つい昨日のことのように想い起こされる。
 積石遺構の存在が明らかになるとともに、周囲およびその下から、縄文後期前葉の加曾利B1~B2式土器が副葬された土壙墓や周石墓の存在も確認された。ことの重大さを察知した浅川氏は、遺跡の保存を優先するために発見された状態で記録するに止め、積石の内部や下は調査されなかった。町田市は直ちに周囲280㎡を買い上げて保存整備に努め、東京都教育委員会は1971年3月に東京都史跡に指定した。 その「田端遺跡調査概報」(町田市教育委員会1969)によれば、環状積石遺構は東西に長径9m、南北に短径7mの楕円形をなしており、幅1~1.5mに大小の石塊や礫を集め、帯状に積み上げてサークルを形成しているという。東と西の部分では石が少ない状態がみられたが、これは撹乱を受けて石塊が多少抜かれたものと考え、原形は全体にほぼ同じ状態に積石がめぐらされていたのだろう、という。出土した土器から、積石遺構は後期中葉に構築されて晩期中葉まで機能したものとされた。浅川氏はこの特殊な積石遺構の性格をさぐるために、継続して台地にいくつか試掘坑を入れてみたが、積石遺構に関係する集落は発見されず、むしろ中期の集落が広がっていることが確認され、また西側に晩期中葉の包含層が検出された。
 その後しばらく進展がなかったが、多摩ニュータウンの開発にしたがい、積石遺構をとりまく状況が次第に浮き彫りにされた。まず、積石遺構のすぐ東側に都道2.1.5号線(多摩ニュータウン通り)が建設されることになり、1987・88年に町田市教育委員会が調査した(田端東遺跡)。このときも中期の住居跡群が検出されたが、積石遺構に関係する加曾利B3式期の住居跡がはじめて1軒検出され、東北地方で作られた中空土偶の頭部が出土した。
 さらに多摩ニュータウン遺跡の悉皆的な調査で丘陵側の実態があきらかになった。ニュータウンの範囲は、積石遺構からわずかに50m離れた裏山から境界が線引きされている。東京都埋蔵文化財センターが発掘調査したすぐ裏山の№245遺跡からは、縄文中期から後期前葉の集落が、奥側の№248遺跡からは、同じ時期の大規模な粘土採掘坑が検出された。ここからも後期中葉以降の集落は見つかっていない。
 平成12年度になって、町田市教育委員会は、露出展示などにより環状積石遺構が次第に劣化してきたとして、積石遺構の保護・保存を含む史跡整備事業に伴う周囲域の詳細分布調査を行った。この調査成果を要約すると、


• 加曾利B1式期の土壙墓群が積石遺構の斜面下方15mまで確認され、墓域の南限とされた。 
• 北西の斜面上方に湧水地があり、その流路に関係するらしい大規模な溝が積石遺構の西13mに確認された。
• 南側の標準的な土層と対比すると、積石遺構範囲の堆積土層は縄文中期以前の包含層が欠如しており、また15~30cmほどの厚さで平安時代の新期富士降下火砕層が積石遺構を被っている。以上のことから、
• 積石遺構の構築時または前時代の墓壙形成時に、土地が人為的に改変された可能性が考慮される。 
• 積石遺構からは南方の眺望が優れており、丹沢山地蛭ケ岳頂部に冬至の夕陽が沈む様子が確認できる。季節の節目に太陽の運行が観測できる東日本の各遺跡より報告されていることから、本遺跡もその一例に含まれ、積石遺構もしくは墓域の選地と関係があるのかもしれない、とむすんでいる(町田市教育委員会 2003)。

田端遺跡と蛭ケ岳の位置関係
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田端環状積石遺跡および同石墓-土壙
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(写真)
著保内野土偶と田端東土偶復元図
著保内野土偶と田端東土偶復元図

 なぜこの場所なのか?
地図上に蛭ケ岳山頂の方向を示した。どうしてここに環状積石遺構が設営されたのか不明であった。その謎を解いたのは、町田市教育委員会に勤務する風水研究家の松本司氏である。「冬至の日、田端のストーンサークルから蛭ケ岳の真上に太陽が沈むのがみえるのではないか・・・」と直感した松本氏によれば、「蛭」は本来は「昼」、つまり光と太陽を意味する言葉ではないかという。蛭ケ岳(標高1673m)の頂上には大日如来が祀られている。その蛭ケ岳のピークに太陽が落ち、やがて背後に太陽が回ったとき、「後光がさす」言葉の本当の意味がわかったような気がしたという(松本1999)。遺跡からS58°W、正面に位置する丹沢山地の最高峰に沈む冬至の太陽を、私も固唾をのんで見守ったことであった。
 それではこの遺構がなぜこの場所に設営されたのか、またどういう性格であろうか。この環状積石遺構の形態が、中期の環状集落の構成に共通することに、一脈のむすびつきを考えてみたい。中期に繁栄した典型的な環状集落は、環状とはいうものの中央の広場をはさんで向かい合う二大群の住居群で構成されており、それぞれ大群は3単位の住居からなる(安孫子 1997)。この積石遺構も北・南の二群に分かれており、それぞれ立石を中心にした3単位の積石群で構成されている(図参照)。
 西関東では、環状集落の規模が中期後葉から終末に向かってしだいに縮小し、やがて敷石住居に変わる頃に衰微する。しかし、環状集落を構成した集団の紐帯が離散したのではなかったらしいことが、この環状積石遺構の構成に反映されているようである。この地域の一帯に居住した末裔たちが、後期前葉になってこの場所に集団の共同墓地を設営したようなのである。それを追求し実証することは、まさにこれからの課題である。
 彼らは、冬至を境に弱まった太陽光線がふたたび甦ってくることが観測できるこの場所を集団の聖地たる共同墓地に定め、毎年冬至の日に集いあって蛭ケ岳に沈む夕日を拝みながら、先祖の加護により集団の安寧と繁栄を祈願する祖霊祭を執り行ったのだろう。だから、この地が意識されたのは集団墓地が造営された加曾利B1式期になるが、あるいはもっと以前からかもしれない。
「田端環状積石遺構」の構築とは、その平穏だった集団墓地の上に、親縁集団が総力を結集してモニュメントを築かなければならない新たな事態が生じたことによる。その構築の背景には、東関東の安行集団の侵攻による西関東の高井東集団の危機感があり、このために東北地方も北部で作られた著保内型土偶が勧請されたのではないか、と考えたことがある(安孫子 1992)。
 田端遺跡は、京王相模原線多摩境駅から徒歩5分の至近にある。町田市では、平成16年度に、これまで露出展示されてきた積石遺構を原位地で嵩上げした複製展示に切り替え、周囲を整備する計画という。この場所で縄文の人たちが仰いだ蛭ケ岳に落ちる冬至の夕陽を、これからも未来永劫変わらずに見つづけることができるよう、周囲の景観が維持されることを祈りたい。

(写真)
蛭ケ岳に沈む冬至の日没
蛭ケ岳に沈む冬至の日没

参考文献


• 1969『田端遺跡調査概報』町田市教育委員会(浅川 利一他)
• 1992「田端東遺跡出土土偶の意味するもの」『東北文化論のための先史学歴史学論集』加藤稔先生還暦記念会(安孫子 昭二)
• 1997「縄文中期集落の景観」『研究論集』16 東京都埋蔵文化財センター(安孫子 昭二)
• 1999『古代遺跡謎解きの旅』小学館(松本 司)
• 2002『縄文ランドスケープ』有朋書院(小林 達雄編)
• 2003『田端遺跡』町田市教育委員会(貴志 高陽)      

安孫子 昭二(あびこ・しょうじ)

 国際縄文学会協会会員

  • 2010年11月05日(金) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域・3』 佐々木藤雄


集落内環状列石と集落外環状列石

 ところで、縄文時代の環状列石の中には墓地の不明瞭な例も存在する。とりわけ中部・関東の環状列石には墓地を伴わない例が少なくないことから、大野遺跡の土壙群の中に墓が含まれていた可能性を否定し、さらには大野の環状列石自体を特別視する考えがある。

 しかし、最近、中期中葉~末葉の環状集落が発掘された神奈川県川尻中村遺跡では、中央広場を中心にピット群、その外周に住居群が分布する明瞭な重環状構造が確認されるとともに、ピット群の内側からは中央広場を囲むように構築された環状列石が発見されている。

 列石は径35メートルほどの隅丸方形状を呈し、中期後半を中心とする時期の所産であることが指摘されている(図8)。

(図8)神奈川県川尻中村遺跡
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構築時期といい、環状集落と一体化した重環状構造といい、大野の「集落内環状列石」との相似性は明白であり、しかも列石の下部や内側からは土壙墓群の分布も確認されている。大野例を特別視すべき理由はなく、環状集落中央墓地を囲むように分布する「集落内環状列石」が環状列石の初現期の姿を示していた可能性は、むしろ一層強まったといってよい。

 では、中期後半には中部山地や関東西部の山寄りの地域に登場する墓地を伴う「集落内環状列石」の分布が、中期末葉以降、中部・関東では不明瞭になり、環状集落の中心域から外れた北東北においてかえってその伝統を受け継いだ「集落外環状列石」の分布がみられるようになるのは何故なのか。環状集落の北東北への伝播の問題とあわせて、問われるべきはこの点であろう。

環状列石の建設と地域共同体

 大野遺跡では、環状列石や直線状列石に使用された数百個近い円礫の多くは、径1メートルを超える大形礫を含めて遺跡の四十メートルほど下を流れる伊奈川から運び上げられたと考えられている。

 また、大湯遺跡万座環状列石では七キロメートルも遠方から運び込まれた5000個を超える多数の礫の使用が報告されている。規模の違いはあれ、多量の労働力と長い年月を要するこうした環状列石の建設には、一集落という枠組を超えた多くの人々の参加と共同作業が深く関与していた可能性が強い。

 中部・関東の環状集落の中には数10軒から時には数百軒という多数の住居が発見される例がみられる。しかし、発掘された住居の総数はあくまでも集落の成立から終焉までの時間的な累積の結果に過ぎず、大規模集落の場合でも同時存在住居数は5~6軒からせいぜい10軒、集落構成員数は30人から50人前後にとどまっていたと推測される。

 直線的帯状配列の集落構成を特徴とする青森県三内丸山遺跡については、遺跡の広がりや出土遺物の多さなどから1500年にわたって継続した人口500人の「縄文都市」であったという説が「縄文文明」論とあわせて唱えられている。

 しかし、当時の自然・経済条件を考慮に入れるならば、三内丸山は最大でも人口100人ほどの、しかも1500年にわたって「断続的に」継続した拠点的集落とみるのが妥当である。一集落への過度の人口集中は、資源の浪費や生活環境の汚染とも相俟って、集落そのものの存続を脅かす要因となるだけでしかない。そのシンボルともいえる高さ20メートルの「高層の神殿」同様、「縄文都市」は荒唐無稽のフィクションに過ぎない。

 地理的位置からみて環状列石の日常的な管理にあたったと考えられる大野の小規模環状集落の場合、想定される同時存在住居数は約2軒と少ないが、遺跡の所在する伊奈川水系ではほぼ同時期の複数の集落の分布が確認されている。

 同様の集落の分布は他の水系でも確認されており、木曽谷では、こうした水系をいくつか包摂する南北20~30キロメートルの範囲に、婚姻相手の交換や物資・情報の伝達、集落群を超える協業、各種の対立・抗争の調停といった機能をもつ相互扶助的な結合体、「地域共同体」が形成されていた可能性が強い。

 全体として200人、あるいはそれ以上の人々から構成されていたと考えられる「地域共同体」こそは環状列石の建設や儀礼を支えた主体であると同時に、父系外婚にもとづく通婚関係の基本単位でもあり、大野の環状列石は、こうした地域集団の共同墓地兼祭祀センターとして多くの人々を結びつける中核的役割を担っていたことが推測されるのである。

(図9)人面装飾付き有孔鍔付土器-長野県大野遺跡

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環状列石を舞台にした祭り

 ところで、環状列石の形成をめぐって認められた明瞭な結界の形成、区画の特別化についていえば、その主要な目的が住居群と中央広場―中央墓地、日常空間と非日常空間、生者の世界と死者の世界のさらなる截然とした区別にあり、またそのことによる中央広場の儀礼的性格の一層の強化にあった可能性はきわめて強い。

 そうであれば、中央広場に墓地をもつ環状集落から「集落内環状列石」、さらには「集落外環状列石」の形成へと至る一連の動きこそは縄文社会をめぐる祖先祭祀の高次化の過程そのものにほかならず、とりわけ後期を中心とする大規模な「集落外環状列石」の形成は、縄文時代における祖先祭祀の一つの完成された姿、祖霊を祀るために歌舞・飲食し、神話・伝承を再現する最高のステージとして位置づけることが可能である。

 大野遺跡では環状列石の周囲より縄文時代の醸造具とも太鼓ともいわれる人面装飾付き有孔鍔付土器(図9)や屋外埋設土器など、祭祀性を色濃く漂わせる遺構・遺物が発見されている。

 さらに19号住居では岐阜県美濃地方の土器を用いた屋内埋甕(乳幼児甕棺)が検出され、通婚圏を超えた他地域からの女性婚入者―母親の存在をうきぼりにしている。しかし、環状列石を舞台にした祖先祭祀を考える上で特に注目されるのは、環状集落、「集落内環状列石」、「集落外環状列石」の3者に共通して認められる、中央墓地や列石を取り囲むように外縁部に特徴的な分布をみせる掘立柱建物群の存在であり、この中には小形の4本柱例を中心に高床式などのクラが含まれていた可能性が想定されることである。

 民俗例によれば、墓地という非日常的な空間にしばしば高倉が群集する背景には、クラが収納された穀霊を祀るための祭場でもあるという伝統的な観念が存在している。

 縄文時代でも環状集落中央の広場は重要な祖先祭祀の場であり、葬送の場であったからこそ、その外縁に埋葬儀礼関連施設と並んで祖霊によって守護されるべきクラが建てられ、全体として重要な共同祭儀の場を形づくっていた可能性が強い。

 しかも、こうしたクラと祖先祭祀との密接な結び付きは環状列石にも明確に受け継がれている。祖先祭祀の高次化という事情を考慮に入れるならば、むしろその儀礼的意味合いは飛躍的に高められていたとみることができる。

 縄文の聖域ともいうべきこうした小宇宙を貫く祖先崇拝にかかわる呪的原理の濃密な流れは、クラに収納された植物質食料などの豊饒の儀礼とも一体となって、かれらの社会の再生と豊饒を希求する祈りへと収斂されていったことであろう。

環状列石と縄文式階層社会
 従来、環状列石内には関連する集団の構成員すべてが平等に埋葬されると考えられてきた。しかし、大野遺跡の「集落内環状列石」を例にとれば、列石内に残された土壙墓の総数は多く見積もっても百基ほどであり、「地域共同体」の一時期の構成員数にも遠く及ばない。後期の大規模な「集落外環状列石」でも事情は同様であり、1集落という枠組を超えた埋葬行為が想定される西田遺跡の環状集落でも、確認された土壙墓だけでは該当する集団の構成員を数世代にわたって収容することは到底困難であることが指摘されている。

 環状列石は単なる「集団墓」ではなく、すべての構成員が葬られることのない不平等な墓、階層的な性格を帯びた「特定集団墓」であったとみるのが妥当であり、しかもその萌芽は環状集落の中央墓地の中に見出される。

 環状集落の盛行期である中期後半期は、各種の経済的・社会的な不均等とあわせて集落を構成する家族の個別化・自立化が顕在化する時期としても知られている。

 「集落内環状列石」は、こうした時代のダイナミックな動きに呼応するように、以上の矛盾や緊張がもっとも先鋭化する中部・関東の一角に登場する。

 その産み出し役である「地域共同体」の互酬的な機能を思い起こすならば、こうした環状列石を舞台に執り行われた祭祀・儀礼の数々が個別化を進めつつあった集団構成員の系譜的な結び付きを強め、集落内外を取り巻く様々な矛盾を調整する重要な潤滑剤的役割をはたしたであろうことは想像に難くない。

 しかし、すでに明らかなように、この高次化された共同祭祀施設は、祖先崇拝を中心とした集団全体の再生・豊饒を希求する場であると同時に、集団構成員の不平等な葬送の場でもあった。

 いうまでもなくそれは矛盾であり、このような複雑かつ錯綜した状況の中にこそ、階層社会の成立に向けて大きく舵を切ったこの時代を象徴する、まさしく記念碑的な存在としての環状列石の本来の性格は刻印されていたということができる。

 「集落内環状列石」に比べて遥かに多くのエネルギーを要する「集落外環状列石」の出現は、その建設と管理を可能にするだけの剰余の蓄積と「地域共同体」による、より強力な関与をうかがわせるものであり、しかもそれが各地の「地域共同体」によって競うように構築された背景には、その建設自体が当該共同体の豊かさを誇示する指標ともなりえたという事情が存在していた可能性が強い。こうした過程を通して、環状列石をもつ集団ともたない集団との間の差別化・不均等化も進行していったことであろう。と同時に、「集落外環状列石」の建設や管理を統括することになった「地域共同体」の指導者層にとっては、環状列石は自らの個人的な威信を高めるための最高の舞台装置でもあった。

 とりわけ季節を選んで行われる祖先崇拝を中心とした祭祀・儀礼は、かれらの威信を広く誇示する絶好の機会であり、列石の外縁に設けられたクラの収納物に対するかれらの管理・運営権がそうした威信をさらに際立たせ、具体的な力を付与していったことは疑いない。

 先行する中期後半段階に顕在化した階層化の動きは、生産力の発達と剰余の蓄積を基盤とした、こうした威信的な序列の整備と祖先祭祀自体の変質化を通して、その歩みを一層速めることになるのである。

 環状列石にかわって環状周堤墓や環状溝墓と呼ばれる、多量の副葬品を伴う特定集団墓や特定個人墓が北海道で相次いで登場するのは、このしばらく後のことであった。

註1 大湯遺跡などの「集落外環状列石」外周の掘立柱建物には居住施設が含まれていたという見解が提出されている。たとえその場合でも、列石の外周に明瞭な竪穴形式の住居が残されないのは何故なのか。「集落内環状列石」との差は明白である。

<引用・参考文献>

• 秋田県教育委員会『伊勢堂岱遺跡』1999
• 岩手県教育委員会『東北新幹線関係埋蔵文化財調査報告書Ⅶ』1980
• 鹿角市教育委員会『特別史跡大湯環状列石発掘調査報告書13』1997
• 佐々木藤雄『私が掘った東京の考古遺跡』祥伝社ノンブック 2000
• 佐々木藤雄「環状列石と縄文式階層社会―中・後期の中部・関東・東北」安斎正人編『縄文社会論』同成社 2002
• 長野県埋蔵文化財センター『北村遺跡』1993
• 新潟県立歴史博物館・新潟県朝日村教育委員会編『奥三面展』2002
• 松村瞭・八幡一郎・小金井良精『下総姥山ニ於ケル石器時代遺跡』東京帝国大学人類学教室研究報告五 1932
• 百瀬忠幸ほか『『中山間総合整備事業地内埋蔵文化財発掘調査報告書』大桑村教育委員会 2001
• かながわ考古学財団『川尻中村遺跡』2002

佐々木 藤雄(ささき・ふじお)

共同体研究会代表
1947年福島県生まれ。
早稲田大学大学院文学研究科修士課程終了。
専門は日本考古学。

主要著作論文: 『原始共同体論序説』、『方形柱穴列と縄文時代の集落』、『縄文時代の土器分布圏と家族・親族・部族』、『北の文明・南の文明』、『私が掘った東京の考古遺跡』など多数

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■ 『縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域・2』 佐々木藤雄


大規模記念物の登場

 縄文時代における墓の変遷を考える上で重要な成果をあげることになったのが1999年に長野県大野遺跡を舞台に行われた調査である。

 大野遺跡は木曽谷の山間、中央アルプスを間近に仰ぐ河岸段丘上に位置する中期中葉最新段階~中期後半の集落遺跡である。先の西田に比べると、確認された住居は9軒、掘立柱建物2棟と小規模であるが、中央には土壙群の分布する広場が残され、その外周には掘立柱建物、さらにその外周には住居群が分布する明瞭な重環状構造を示していたことが注意される(図5)。

(図5)長野県大野遺跡
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 西田遺跡のミニアチュア版ともいうべき大野遺跡をさらに際立たせていたのが、木曽谷では初めてとなる環状列石の発見である。

 確認されたのは全体の4分の3ほどであるが、外径二22メートル、内径17メートルほどの小ぶりな略環状ないし隅丸方形状を呈しており、共伴土器などから住居群とほぼ同時期に構築された可能性が想定されている。

 列石は南東側に中央アルプスの尖鋭的な頂きを望む緩斜面のもっとも谷寄りの部分に広がっており、北西側には直線状列石をはさんで男根を象徴するような刻みをもつ立石が単独布する(図7中)。

 今日、墓と思われる列石下部あるいは列石内側の土壙の存在とも相俟って、葬送と祭祀儀礼とが統合化された大規模記念物(モニュメント)としてとらえる見解が一般化しつつある環状列石の起源についてはなお不明な部分が多い。

 長野県上原遺跡や阿久遺跡例をもとにその初現を前期にまでさかのぼらせようとする考えも以前から存在するが、環状列石の分布が一般化する中期末葉以降の例に比べると時間的な空白が大きく、両者は別個の存在であった可能性が強い。

 その中で、遅くとも中期後半の古い段階にさかのぼる大野遺跡の環状列石は、現段階では最古例に位置づけられるものであり、そこには、環状列石の起源についてはもちろん、縄文時代における墓制の大きな転換を暗示する重要な手がかりが刻印されていたことが知られるのである。

(図6)秋田県伊勢堂岱遺跡出土の環状列石a

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(図7)環状集落-集落内環状列石-集落外環状列石の重環状構造
    左から-大湯遺跡-万座-大野遺跡-西田遺跡
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環状集落内に形成された環状列石

 環状列石が盛行する後期を中心とする北東北・北海道では、列石は日常生活の拠点である集落からやや離れた場所に営まれるのが一般的であり、列石のすぐ近くから住居が検出される例は少ない。

外径50メートル前後の2重・3重にめぐる大規模環状列石複数が発見された秋田県大湯(図7左)や伊勢堂岱遺跡(図6)では、これまでにも列石に伴う土壙墓や配石墓、土器棺墓などの出土が報告されている。

 しかし、環状列石の周辺から検出される遺構は、その外周を環状にめぐる掘立柱建物などに限定されており、これらの列石は葬儀や祭りなどの非日常的な行事を行う時に利用される特殊な場所であったことが推測されている。

 これに対し、先の大野遺跡では、環状列石は集落の中央広場を囲むように前記の掘立柱建物や住居群のすぐ内側に建設されており、列石の下部や内側からは墓の可能性も考えられる多数の土壙群が発見されている。

 すなわち、ここでは環状列石は環状集落の重環状構造と一体のものとして登場している。大湯や伊勢堂岱などの後期環状列石を「集落外環状列石」とすれば、大野例が示しているのは「集落内環状列石」であり、その時間的位置を考えれば、非日常的な葬儀や祭りの場と日常生活空間が同心円状に分布する大野の「集落内環状列石」が当該遺構の出現期の姿をうきぼりにしていた可能性が強い。

 ここで改めて西田遺跡に視点を戻せば、大野と西田の環状集落の間には中央広場―中央墓地の内と外を区画する列石の有無という違いが存在するだけといっても過言ではなく、さらに大野と後期の「集落外環状列石」も、住居群の有無(註1)を除けば、その基本構造に大きな違いはなかったといってよい(図7)。

 環状列石の起源は一元的か多元的か、即断は難しいとしても、こうした環状集落、「集落内環状列石」、「集落外環状列石」の三者を通して認められる際立った共通性に着目するならば、環状列石は大野例のような「集落内環状列石」として環状集落内部に出現した後、大規模な「集落外環状列石」へと発達した蓋然性が高く、また、このような「集落内環状列石」成立の背景に環状集落中央広場の墓域に対する明瞭な結界の形成、区画の特別化という事情があったことは明らかである。

  • 2010年11月05日(金) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域・1』 佐々木藤雄


縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域


花で飾られた墓
 1951年から60年にかけてイラク北部ザグロス高地に位置するシャニダール洞窟の調査を行ったアメリカの人類学者ラルフ・ソレッキは、約五~六万年前の、色とりどりの花で飾られたと思われるネアンデルタール人の墓を発見する。四次にわたる調査でソレッキがシャニダール洞窟から発掘したネアンデルタール人化石は合計九体にのぼる。
 問題の墓は1960年発見の四号男性人骨埋葬例であり、科学分析の結果、遺体を覆っていた土の中から暗青色の美しい花をつけるムスカリやヤグルマギクなどの多量の花粉化石が検出されたことから、この墓の主はかれの死を悼む人々によって多くの花とともに葬られたという結論をソレッキは導き出すのである。
 「野蛮な原始人」という従来のネアンデルタール人観に大幅な変更を促すことになったソレッキのロマンあふれる仮説については、しかし今日、その妥当性を疑問視する声が少なくない。花粉の2次的な混入の可能性を否定できないことが大きな理由であり、「最初に花を愛でた人々」という魅惑的な言葉のもつ魔力がこの問題に対する客観的な評価を妨げたという指摘もある。
それぞれの時代の社会観や他界観が投影された墓は、考古学者や人類学者にとって文字のない社会の構造や集団原理を解明する上でのかけがえのない資料として存在する。
 しかし、こうした墓が私たちに垣間みせる表情は複雑であり、その分析には、現代人の主観や価値基準にとらわれない多面的な視点と、それにもとづく緻密な検証作業の積み重ねが必要であることをシャニダール洞窟のネアンデルタール人は教えている。

(図1)土擴墓-長野県北村遺跡
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(図2)配石墓-長野県北村遺跡
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(図3)石組石棺墓-新潟県元屋敷遺跡
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多様な縄文時代の墓

 埼玉県長尾根と小鹿坂の2つの遺跡において、前期旧石器時代にさかのぼる約35万年前の「世界最古の墓」と約50万年前の「秩父原人の住居跡」が相次いで発掘された事件は記憶に新しい。

 世界史の常識を覆す「世紀の大発見」が実はまったくの捏造の所産であったことは佐々木が発掘直後から「予言」していた通りであり、その内容は拙著『私が掘った東京の考古遺跡』に詳しい。

 捏造例を除けば、日本列島でこれまでに発見された旧石器時代の遺跡はすべてシャニダール洞窟より新しい後期例で占められており、この時期の確実な墓となると、発見例は皆無に近い。

縄文時代に入ると、埋葬人骨を含めて明瞭な墓の発見例は一挙に増大する。しかもその形態は、自然の洞窟や岩陰に遺体を葬ったものから、地面に穴を掘って遺体を直接納めた土壙墓、墓壙の上面や内部に礫を配した配石墓、板状あるいは扁平な礫を組み合わせた石棺内に遺体を納めた石組石棺墓、深鉢や甕などの土器内に遺体を納めた土器棺墓(甕棺墓)、竪穴住居内に遺体を放置あるいは埋葬した廃屋墓などに至るまで実にバラエティーに富んでおり、屈葬や伸展葬といった埋葬姿勢の違いともあわせて他界観の多様な発展の跡をうかがわせている。

 草創期から晩期まで全期間を通してもっとも一般的なのは土壙墓であり、配石墓も早期から晩期まで比較的広汎な分布をみせる。

土器棺墓は前期以降、廃屋墓や石組石棺墓は中期後半から中期末にかけて登場する。地域性の強いものが多く、特に廃屋墓や石組石棺墓は東日本に偏在する傾向が看取される。

 なお、千葉県姥山遺跡はフグ毒などの食中毒で同時に横死したとされる男女5体の人骨が同一住居内から発見されたことで有名である。

 異常死を恐れる人々によって家族全員が家屋ごと放置されたと考えられてきた姥山例は、実際には不慮の事故によって同時死亡した四体と正規に埋葬された屈葬女性1体の2つのグループから構成されていた可能性が強い。5人同居=5人同時死亡という従来の定説は全面的に訂正される必要がある。

(図4)竪穴住居から発見された5体の人骨-千葉県姥山遺跡
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環状集落と墓域の成立

 草創期および早期の墓は単独あるいは散在する形で発見されるものが大半であり、集落との関係については不明なものが多い。

 前期以降、中部・関東を中心に円環状に住居が配置された拠点的な集落、いわゆる環状集落が形成されるようになると、住居群に囲まれた中央広場には多くの土壙墓が群在するようになる。

 環状集落がピークを迎える中期後半の岩手県西田遺跡を例にとれば、直径150メートルを優に超える本遺跡の環状集落は中央広場を囲むように大小多数の掘立柱建物群、その外周を住居群、さらにその外周を貯蔵穴(ヂグラ)群が2重・3重にめぐる重環状構造をみせており、広場からは列状に分布する少数の墓を中心に放射状に配列された200基近い土壙墓群が発掘されている。

 西田遺跡の重環状構造からうかびあがってくるのは居住域から区別された明瞭な墓域―集団墓の成立であり、非日常的な空間を中心に日常生活空間が広がる、「縄文の円環」とも呼ぶべき特徴的な空間配置の背後には、縄文人の独特の世界観、他界観が存在していたことは明らかである。

 ただし、今日、環状集落の分布は中部・関東を中心とした前期~後期の東日本に大きく偏在している。また、こうした拠点的な環状集落の周辺には広場をもたない集落や住居の跡さえ不明瞭な同時期の遺跡が数多く残されている。

 縄文集落がすべて中央に広場を伴う環状集落で占められていたかのような一部の考えはまったくの誤りであり、まして環状の集落構成を縄文時代が生産と消費のつねに等質な社会によって貫かれていた表徴とみる考えには到底賛同できない。

  • 2010年11月05日(金) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

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