International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『沖縄の風水史・3』 渡邊欣雄


 沖縄での風水の歴史は古く、まず中国と沖縄が国として交流し始めたのが1392年で、14世紀の終わりです。そのときはまだ、琉球国は統一しておらず、3つの国に分かれておりました。この1392年というのは沖縄に中国から技術者たちを呼び寄せて、数々の国の建設に役立てようと始まった時期です。この中国の技能集団は一四世紀に、長崎の出島をもっと大きくしたような村を、当時の那覇に作っています。士族の待遇で沖縄の国造りを始めたのです。しかし沖縄側の文書には、その当時の記録がありません。何をしたかというとずっと後になって、沖縄の史料に出てきますが、風水の知識は国を作ろうとする時に必要なものでしたから、おそらくこの時期に中国の技術者が入っていただろうと思います。

 そうやって中国の知識を輸入し実際に活用し始めるのは、17世紀です。それは琉球国としての記録に出てくるものです。一番有名なのは「当国前代に・・・」と出てくる記録なんですが、1667年以前に正式な風水判断の人間がいたかどうかわかりませんが、周国俊国吉通事という名前の人物が外交官として福建省に渡り、地理を学んで帰ってきていて、それが琉球国の風水看(ふうしみ)の専門家の始まりか?と疑問符で書かれています。〈地理〉というのは風水の正式名称です。1667年に正式に風水師が向こうの知識を学んで帰って来た。これは当時の国家公務員です。それが、琉球国における風水判断の始まりだろうかという疑いを持った記録だったわけですが、実はそれ以前の1650年頃にも沖縄の史料に地理の記録が残っています。国家的な記録では最初です。

 先に一四世紀にあったということを述べましたが、むろんそのような想定もでき、いろいろ調べてみると一七世紀に風水知識が導入されたわけではなく、少なくとも一六世紀には入っていたことが、沖縄の家譜=系図に非常に細かく記録に残っています。沖縄の家譜というのは、各人物について何をしたかということが書かれているので、これを見ると、琉球国としては把握してないけれど、各一族は、誰が風水を看たのかがわかっていた。そんな記録の中から、琉球国が把握する以前から、風水の判断が行なわれていたことがわかります。一六世紀から一七世紀にかけての記録があるので、少なくとも一六世紀には風水を看ていたというわけです。一四世紀から一五世紀はあまり普及はしていなかった事もあり記録はありませんが、既に風水判断はしていただろうと思います。その当時の沖縄は、さてどうだったのかというのは、僕も歴史学者ではないのでよくわかりません。

 安里進さんという考古学者がいらっしゃいます。風水のことをよくご存知で、同時に琉球国の土木事業についての研究者でもある。その当時16、17世紀でさえ、沖縄の村落はブドウ状村落だったという。今ほとんど発掘しても17世紀あたりの集落が出て来てしまって、碁盤の目なんです。碁盤の目というのは、風水の知識があったからそのように変えてしまったわけですが、それ以前はブドウ状の道路の村だったわけです。道が枝の房のようであって、そのように道が分かれて村が構成されている、当時はそんな村だった。今の沖縄にはほとんどありません。迷路状の集落だったようです。そういう集落であったものを、風水の知識でどんどん変えてしまうということが起こるわけです。

 その例をまず八重山の例で見てみたいし、沖縄本島の例で見てみたいと思っているわけですが、〈国策としての環境アセスメント(八重山の例)〉です。八重山の諸記録は大変重要な風水の記録で、風水がたびたび判断されたのがよくわかりますし、国家公務員としての与儀通事親雲上(ぺーちん)、まさに役人ですが、そのような人を派遣して風水を看て、そして村を改造しているということがわかる。「琉球王府は……」というところから読みながら解説した方がいいと思うんです。これはいつの記録かといいますと、ちょうど琉球国の晩年で、一八六四年の記録です。風水をどうやって判断したかと言う事が書かれている記録ですが、少し読んでみますと、「琉球王府は風水知識を導入して、ほどなくしてその知識を沖縄の殖産興業に役立ててきた――つまり経済的な振興策に用いられていたわけです。今日には景気という言葉があります。景色の気。あれは経済の気ではないんです。よく間違えやすい。日本では経済状態の良し悪しに使いますけど、景観の気というのは、風水を考えるとよくわかります。景観から発する気、つまり環境の気です。だから風水では景観の気――自分をとりまく気の影響の良し悪しいかんによって経済が発展したり衰えたりする。つまり景気が良かったり悪かったりする。だから風水は、経済振興に役立ったわけです。つまり環境を直すことによって経済を良くしていくと。風水思想が説く理想の環境に整えなおすことによって、「人民は繁栄し、年貢・諸賦は納清」したというふうに書かれているわけです。

 実はこの内容は17世紀のことですが、その頃に八重山地方、沖縄の西の地域は殖産興業のために風水で環境改造しています。改造した後に、どうだったかというと、彼ら役人の目で「人民は繁栄し、年貢・諸賦は納清」したのである。人民が本当にそうなったのかどうか。原文では「人民に喜色あり」、喜びの笑顔が見えると書いてあるんですが、これは役人の勝手な推測に過ぎません。八重山地域で最初に国策として風水判断なされたのは、この記録にあるように、康煕23年(1684年)のことです。1684年に初めて風水判断をして、環境を変えました。そうして、しばらくは経済は発展し、人口は増えて、人々は長生きすると。当時に考えられた風水の三大効果です。

 しかし、乾隆36年(1771年)「明和の大津波」があった。これは世に有名な、沖縄の八重山地方、宮古を含めて先島(さきしま)一帯に起こった大津波です。この間、スリランカ、インド、タイで起こったあの大津波と全く同じです。ただ沖縄には山がありませんからすごい被害で、ほとんど全滅です。「各村、戸籍は損壊し、人民もまた多く身を失う」ほどの甚大な被害をもたらしている。その後は無計画に「風水の善悪を問わず、只だ各々自らその便をみて――勝手に――編みて宅籍をなす」、つまり、勝手に宅地を建ててしまうという状態だった。だから風水の判断をしないで、生き残った人達が、勝手に家を復興させてしまった。そうするとどういう結果になったかというと、「人民の憔悴は年を逐いで加増し、年貢・諸賦はその艱難を極」めていた。年貢を納めるのに非常に困難な状態であったと。そして、康煕年間にはまだ未開発だった地域は中葉に至って新村開発が進んだが、新村は「他村と比較して人民減ること多く、生まるる小児もまた多く病を帯びて死」んでしまうという状態だった。

 この状態を心配した役人たちは、村々がいっこうに繁栄しないのは「地理の法」を失ったからだと。地理の法というのは、風水のルールを全く無視していろんな宅地を作ってしまった結果だと判断し、同治2年(1863年)、琉球王国の王府に願い出て、風水師を招くことにした。それで、三司官の一人、当時の首相(法司〈ほうじ〉)が王にその旨を伝えて、王から許可が出たので、地理師を派遣して再び、風水の判断をした結果を報告告しているわけです。それが一八六四年です。康煕23年、1684年にどうしたこうしたという記録がありますが、たびたび国から風水を看るために八重山地方に役人が派遣されて、村の中の環境を整えていたのです。

 こういう話をすると八重山の人に怒られますが、17世紀の頃、風水判断で、村を大改造して、その中のいくつかが大変な失敗をしている。ある古い村が立地している場所の風水が悪いといって、別の風水の良い場所に村民たちを移したところ、かえって人口が減ってしまったような村がある。その人口衰退の原因は、マラリアが酷かったんです。既に開拓した所にもマラリアがいたにせよ、開拓しない所よりは少ない。風水が良いからといって、未開拓の地に移民させ開墾させ生活させて、結局は、かえって人口が減ったという記録も実は残っている。決して風水が役人の目で見たような効果をもたらしたわけではない。ただ当時の考え方でそうしてしまったわけです。

 それから沖縄本島の例もたいへんな記録があります。沖縄本島にはすごい村の数がありますけど、その村をいつごろから改造し始めたかというと、1736年前後から風水をよくするために、村を碁盤目状に変えています。これは非常に珍しい政策だと思います。韓国の遺跡においても中国にも、都市に関しては東アジアから碁盤目状の都市というのはあって、かなり有名ですが、日本本土で村を碁盤目にして作っていった例はあまりないのではないでしょうか。琉球国の首都首里、そこは碁盤の目にはできません。平ではないからです。那覇も碁盤目に作っていません。ところが村はかなりきれいに作られてきたわけです。1736年前後から始まって200年間改造しつづけたという記録がある。その一環としてブドウ状だったような村を碁盤目にした。それが風水政策のひとつです。

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