International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『縄文人の霊魂観・3』 萩原秀三郎


 縄文時代になると、埋め甕というのが多く知られております。縄文中期中葉になるとたくさん出てくる。埋め甕というのは胎盤を中に入れて埋めたもの。原始民俗の方法として、住居の敷居の下、入口の下に胎盤を埋めるというのは非常に多い。なぜかというと、これをお母さんが跨ぐ、そうするとひょいと魂が戻ってくる。だから霊魂の再入の門戸を、そこで開いているということなんです。日本人は本来、腰巻で、生理帯などを除いては、全部開けっ放しでした。これは中国から全部そうです。海南島のリー族でも、イ族でもミャオ族でも全部、短いスカートのときでも。白褲瑤(バイクーヤオ)で写真を撮っていたら、絶対しゃがんで撮らないでくれと言われたことがありました。それは全部スッポンポンなんです。雲南省に行ったときは、タイ族とかプーラン族の間で魂が落ちたときはどうするのか、魂消た(たまげた)ときはどうするのかと聞いたら、自分より年嵩の人に頼んで畑や山に行って、魂を呼んでもらうのだそうです。それはツゥアイジアフンゾウ(足着魂走)というんですが、魂を踏んで歩くというようなことをすると、魂はスカートの下から戻ってくると。男でも女でもそうです。

 マリノフスキーの有名な『未開人の性生活』というのがありますが、トロブリアン島の島民に妊娠というのはどういう事かと聞くと、これは男と関係ない、交接が原因だとは考えてないと言っている。因果関係はありませんが、幼児の魂というのはひょいと奇遇するものだ、というふうにしか頭の中にないわけです。だから、男が魂の侵入路の通路を開けるだけの役目で通路を容易にするだけだと書かれていて、面白いなと思いました。

 つまり人間の体というのは、だいたい中空なる魂の容器なんです。特に女性というのはタマヨリヒメなんて言い方をするのは、明らかに魂がそこに入っているという意味でしょう。それで、狩猟民を考えると、柳田さんの書いた『食物と心臓』という論文があるんですが、動物の生命の根源というのは、心臓や肝臓にあると考えられているんです。よくレバー肝臓占いとかを朝鮮民族がやっています。遊牧民でも農耕民でも、あるところのチベット族などでもそうです。例えばお正月の祭壇を見ると、ツァンバといって、ライ麦を炒って粉にした、いろんな作り物の飾り物がありますが、自分の物として、その作り物の中に心臓があります。それから、リス・ビルマ語系族というチベットの山の狩猟採集民がいますが、お正月になると、家ごとに祖先棚を作る。それで、族長の家は、この祖先棚は三段になっていて、そこにブタの心臓を飾ります。(写真5)これは、生き御霊、死んだ人の魂でなく、生きている人の魂を象徴しています。三段に分かれているのは年寄り、若い人や子どもという意味です。そこに糸が引っ張ってありまして、糸はそれを繋ぐ物なんですが、その一番下の段に、ブタの心臓を飾ってあるんです。要するに、霊魂、魂を強化する、生き御霊を強化するという儀礼が行なわれるわけです。

 日本の場合ですと、力うどんなども同じこと。食べ物によって、力づけるわけです。例えばお正月になるとお年玉というのがありますね。これは本来は丸餅です。暮れになると甑島のようなトシドン(年殿)というのがやってきて、お餅を配って歩いた。それをお年玉と言っていて、いつのまにかお金になってしまったのですが。あるいは歳の実とかいろんな言い方があります。それから、お盆になると、同じ魂でも生きてる人の生き御霊を強化するために、例えばフナの生き胆を親に差し上げるとか、そういう盆の儀礼があちこちにあります。ボンザカナ(盆魚)は、両親に供えるものです。あるいは名付け親や、仲人へお盆のときにお礼参りに魂を持って行きます。

 このように、中国も日本も、古代も現在も、全然変わっていません。狩の獲物の分配を、タマス分けというところがあります。九州では、これをタマスと言って、沖縄ではタマシといいます。共同で狩をした場合に、タマスを同じような量で分配。タマス分け、魂を分けると。また、樹木を切って、一区切り一区切りを一玉、二玉といいます。うどんも、一玉二玉といいますが、このように魂の根源と言うふうに考えていたところがあります。ですから、柳田國男さんは『食物と心臓』の論文の中で、これは神からの賜り物、原点はそういうところの獲物の分配と関係があるのではないか、ということを言っているわけです。

 ミャオ族は刈り入れが終わるとお正月です。ですから、お正月が早いとこもあれば遅いところもあり、みんなまちまちです。つまり食物が切れると危機的状態になって、新しい収穫によってまた継がれて行くわけです。時間と言うのは切れては継がれ、切れては継がれ。そこに魂の起源がまた考えられるわけです。食べる物がなくなると魂が途切れる。そのときに始めて息継ぎとして、新玉の年、というふうにいいます。紅白歌合戦というのも、暮れになって勝ち負けを決める。あれもみな、次の年の魂占いのような要素がある。ですから、日本のお祭りをみると、言ってしまえば、全て魂祭りだとも言えるんです。その魂祭りということで、一番重要なのは共食。今は直会などといって、お祭りの後のどんちゃん騒ぎだと思っているようですが、そうではない。これが本来のお祭りだったのです。魂を、いわば神と人とが共有して強化しているわけです。

 最後に再び加えたい論文があります。肥後和男さんが、日本古代の霊魂についてこんなことを言っています。『新撰姓氏録』によると、祖先が魂(タマ)だとするものが、平安時代の初期、五機内では半数が日からだというふうに言っていると。天上に輝く太陽、生産霊というふうに見た。後の半数は結びの神だということで考えていったわけです。結びという、つまりムスは、苔むすとか、物が生成するという意味です。植物の芽が出て、生長するというのが生す(むす)なんです。御霊の振ゆ(フユ)というと、魂が増殖することになります。つまり他に分かち与えるという意味です。御霊のフユみたいに魂を分割して、だんだん増えていく。だからタマとムスビというのは、同義語で用いられることが非常に多いんです。一つのタマから分け与えてタマが出てくる。だから増殖してくる。祖先のタマから子孫へとタマがだんだん受け継がれていくわけです。最初に優れたタマがあって、それが子孫を生み出して一つの氏族にまで発展したという考えです。

 例えば、ハラとカラがあります。ハラカラ(同胞)、これは同義語らしいです。肉体がハラで、カラも肉体で同胞。タマというのは男からきて、ハラカラ、肉体は女性が提供するという発想であるかもしれないと。肉体は体で、ナキガラ(亡骸)あるいは、カラダ(体)というのはそういうような意味です。タマというのは言葉から想像すると、本来丸い玉のような状態の物を想定していたのではないかと。あるいは心臓に収まっていたということも考えられるということです。タマのないのがつまりナキガラです。近世では腹は借り物などと言ったりしています。

 タマヨリヒメ神話では、ホ(火)ノイカズチの神が丹塗矢となって流れてきて、タマヨリヒメが、それに感じて妊娠する。そして、ホノイカヅチ、火雷神というのは一種の火であって、魂の火も霊をさす言葉でありながら、同時にファイヤーをさすかもしれないと、彼はそういうふうに考えている。そして、死んで体が冷たくなれば、体内で燃えていた火が消える。これは僕から言えば、食べ物も、やはりエネルギー源ですから、死ぬと受け付けなくなり、エネルギーがなくなって、体温もなくなる。神の本体も、やはり、タマではないかと。ただ、神の場合は大御霊などと言いますが、肥後和男さんは、大御霊や大国タマというふうに、タマを上位のものと考えています。しかし、実態はタマに変わりはない。状態や局面や場面によって、上や下のタマがあるだけの話で何も変わりません。

 少し問題なのは、物の怪(モノノケ)です。物の怪の、物というのが、聖霊といっていいのかどうか。これは、おそらく架空のタマではないかと彼は考えるわけです。ただ、物の怪が非常に大活躍するのは平安時代です。この時代になると、巨大な物の怪になってくる。元来、共同体の中に生まれてくるようなタマというのは、たいしたものではなかったはずです。だんだんに、御霊(ゴリョウ)信仰というものが生まれてきたのは、そういうことだと。それから、大物主というのがあって、これは物ですが、ヘビのように動物霊的なものも考えられます。ですから、上代的なものというのは、人間的なものであるよりも、むしろ動物的な大物主のようなものかと。縄文というのは、そういう、非常に動物的、人間的なものとの境にあるものと考えた方が、わかりやすいと思うのです。

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