International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『遮光器土器の曙光・2』 安孫子昭二


土偶の概要

 昭和63年から平成9年まで10年ほどかけて、「土偶とその情報研究会」が立ち上げられて、都道府県の研究者で全国の土偶を集成しました。この研究会は、國學院大學の小林達雄先生と当時は国立歴史民俗博物館、現在は静岡大学に移られたコンピュータ専門の八重樫純樹さんがチーフとなって、とにかく資料集成に勤めたわけです。そしてシンポジウムを五回ほどやり、資料を持ち寄って討議した研究の成果を『土偶研究の地平』という全四巻の論集にまとめました。研究会を発足するにあたっての目的は、資料をよく整えないままに土偶の用途・機能というところに深入りすると、何千年も前の縄文人の精神文化というか思想を推測すれば、おそらく現代の我々から憶測しても的外れなものになるのではないか、そういうのは次の段階に考えることにして、とりあえずは土偶を正確にデータ化する必要がある。そのための基礎資料を集成することにしよう、ということでした。

 その小林さんが土偶に対してどういう見解を持っているかと申しますと、〈第一の道具〉、〈第二の道具〉という小林さんの造語があります。第一の道具と云うのは、縄文人が作ったいろんな道具を私たちが直接みて、この遺物は何に使った道具であるか見当がつく。例えば石槍ですと、これは動物を仕留めるのに使った利器であるとかです。ところが土偶をはじめ石棒とか独鈷石、あるいはバナナ状石器などの遺物は、直接的には何に役立ったのか分からない、そういう遺物を第二の道具と命名したのです。それは、第一の道具である程度の効果が期待できるけれども、第二の道具でさらに効果を高めるというか、期待が込められる代表格として、例えばこの土偶を作ったというのです。

 土偶に関しては昔から生産に関わる女神像、あるいは地母神像であるとか言われていますけれども、必ずしも妊娠しているお腹をしているとかおっぱいがある土偶ばかりではなくて、そういう女性的な像でない、強調されない土偶も多いのです。小林さんは両性具有というか、あるいは性を超越した偶像というような存在であって、これは自分たちが帰属する集団の精神的なバックボーンとして、たまたま人の形に似せて作った塑像なのだという考えです。そういう意味で精霊、スピリッツという言葉を使っております。アイヌの神話に出てくるコロボックルとか、沖縄の方のキジムナーのような、神話に出てくる精霊、土偶はそういう存在なのだろうと言われるわけです。

 土偶は明治時代、あるいは江戸時代から好事家の目に留まりまして、古墳から出土する埴輪に対して貝塚からよく出土するので貝塚土偶、あるいは埴輪土偶などの云われ方もされました。いろいろ各地でたくさん出ますから、地域的なあるいは年代的な顔形の特徴から、愛称・ニックネームで呼ばれてきました。図2をご覧下さい。これは永峯光一さんが作成した「土偶型式の展開」で、縄文早期には古拙土偶があって、それから縄文前期になりますと板状土偶、粘土を板状にしただけの簡単な作りの土偶です。中期になってようやく脚部が付いた立像の土偶が出現するのです。抽象的な人の形をしたものから次第に具象的な土偶に進展してきたのです。その中にいろいろのニックネームがあります。中期には十字形土偶、腕が真横に出ているからそう呼ばれています。後期の初めの東北から関東の辺りにはハート型土偶と筒型土偶であるとか、後期中ごろ加曽利B式期になると頭部がおむすびのように三角頭の山形土偶が広範囲に分布します。その後の安行式期にはミミズクの眼を想わせるみみずく土偶が関東地方に分布します。そして、晩期になると、東北地方北半を中心に亀ケ岡式土器が盛行し、遮光器土偶が伴うようになる。遮光器土偶の影響力はかなり強く、関東・中部から一部は近畿方面まで分布したのです。

 しかし、「土偶型式の展開」だけですと具体的にどういう形態の土偶が地域的に展開したのか分かりにくいでしょうから、全体を一瞥するために、『土偶研究の地平』から代表的な土偶を抽出して図3「土偶群像」を作ってみました。この「土偶群像」は土偶の大きさ、スケールを統一してあります。皆さん土偶を実際に見ますと、意外に小さいのにビックリされます。埴輪のイメージがあると、土偶はずいぶん小さい。縮尺を統一することは実は大事なことでして、土偶にもいろいろバラエティがあるということが分かる、ということです。

<図2>
ファイル 147-1.jpg

<図3>土偶群像
ファイル 147-2.jpg

 この図で留意することは、まず、スペースの関係で東日本に限り、日本全土は網羅していません。北陸も抜けていますし、西日本の資料はずいぶん少ないのですが、三重県の粥見井尻遺跡からは草創期の最古の土偶も出土しています。図は右から北海道、東北北部、東北南部、関東、中部と並べました。当時の縄文集団の文化圏というのは、縄文土器型式の分布を基準にしますが、年代によって分布圏が広がったり縮まったりもするわけです。それは当たり前のことで、今の地方別と一致するわけはないのですが、便宜的に分けたまでです。東北地方は北部と南部に分け、青森・岩手・秋田の三県を北部、宮城・山形・福島の三県を南部としますと、東北北部の前期・中期には三内丸山遺跡に代表される円筒土器文化圏がありますし、南部には大木(だいぎ)式の文化圏がある。その両文化圏の境界は、秋田県男鹿半島の北側から盛岡の北の辺りを通って、太平洋岸に抜ける辺になります。それから中部地方には勝坂式文化で共通する長野県に山梨県を含めました。

 次に留意するべき点として、中部と関東の中期終末から後期前半までの僅かな期間ですが、土偶の空隙期になります。関東・中部ではこの時期、住居が敷石住居の形態になっていて、往々にして石棒祭祀が屋内で盛んに行われている。どうもそれと関係するらしく、土偶祭祀が鳴りを潜めたようなのです。この移行期には石棒祭祀が盛んに行われる反面、土偶祭祀が途切れるのか、土偶は作られないらしく出土しないのです。東北の方はそうではなくて、24,26,27の土偶があって、24・26から44の形態に推移している。後期前葉の堀之内式期になると、関東でも東北地方の系統を引く35・37のハート型土偶と関東に特有の34・36の筒型土偶が出現するようになります。

 次に、関東でも左側の西関東側では、中期の初めから後葉まで土偶が途切れませんが、右側の東関東側では、18の阿玉台式土偶しか載せておりません。東関東側ではどうも土偶祭祀をあまり行わなかったようで、出土しないのです。同じ関東でも東京湾を挟んだ東と西では、阿玉台式土器に対して勝坂式土器というように、土器型式により区別される集団間の違いが土偶祭祀にも表れているのです。

 それから、もうひとつ留意したいのは、代表的な土偶を抽出しようとすると、どうしても見栄えのする大形の土偶ばかりになり勝ちですが、そうすると、その他の小さないろいろある土偶がスペースの関係で載せられなくなる。この図はその意味でなるべく多くを載せるために配慮したのです。例えば、東北南部に日本で一番大きい、高さが44㎝もある22の山形県西の前遺跡の特大土偶ですが、この出尻土偶は標準的なサイズが23になります。日本一大きな土偶という意味では、後期の北海道の52も23に匹敵しますし、晩期の遮光器土偶の60も非常に大きいわけです。

 それで、遮光器土偶というのはどういうものかというと、60・63・64を並べて置きました。遮光器土偶は晩期の前半に作られたのですけれども、研究者によっては後半の61も遮光器土偶の系譜として扱う人もいます。しかし私は、61は遮光器土偶の系譜がいったん廃れて、新たな形態として出現したと考えます。この件につきましたは、後でもう一度、取り上げることにします。

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