International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 縄文インタビュー 戸村正己 2


戸村 正己(フィールド考古 足あと同人)
インタビュアー:土肥 孝(国際縄文学協会 理事)

創作空間「縄文の丘」を訪ねる vol.2

土肥:縄文前期に、繊維を入れて作られた土器については、どう考えますか。

戸村:見た目で繊維が入っていると漏れ易い土器の印象が強い訳ですが、例え8~9割方繊維が入っていてもいいわけです。表層に粘土成分の高い部分があれば十分です。表面的にコーティングされた状態と同じ条件を作り出していればいいのです。出土している繊維土器の煮沸の痕跡は明確です。器壁はスカスカな状態ですが、ちゃんと水が漏らないための工夫をしている訳です。

土肥:当時、繊維が入ったものは“しっかりしている”という様に認識していたのでしょうか。その後の縄文中期以降に、繊維の入った土器が消えてしまったことについては、どう捉えていますか。

戸村:繊維を入れた土器の広がりは狭いエリアではなく、東日本を中心としてほぼ全国的な広がりがあります。繊維の混入技術の現象は、土器の割れを防ぎ大型化を図りつつ、軽量化も意識した土器製作上の技術革新だったのではないかと思います。併せて、“粗製乱造”ではないでしょうが、決して丁寧な作りではないけれども、要点を押えた土器づくりが行われた時期だったと思います。それは、成形を行なう過程での器面調整が、そのまま施文となる貝殻条痕文の土器に代表されるような作りです。繊維の入った土器は、当時もしっかりした感覚のものではなかったと思いますが、それでも生活の道具として機能していた訳です。しかし、中期以降に見られる器形の更なる大型化や文様の表現には、繊維混入の胎土では対応できなくなり自然消滅したのではないでしょうか。

土肥:そうすると、より精密な土器を作るため、文様を表現させるために繊維を無くしている可能性があると。中期の土器も荒いです。後期・晩期になると、はるかに良い土器になりますから。やはり、その差はあると思います。

戸村:中期になると、とても重量のある大型の土器が製作されているわけですが、結局それは村落の形成と関係していると思います。大型土器を持っての移動は難しいので、村自体が大型化し、より人が集まる社会が形成された。それゆえに、あれだけの容積を必要とした土器を作ったのでしょう。つまり、繊維混入のような素材では対応しきれなくなっていったのではないでしょうか。

土肥:ご自分で製作した土器を、土の中に埋めたりしていますが。

戸村:はい。露天で埋めたり放置したりしています。それは、要するに表面を風化させて、土器製作の深度というか、どの程度で製作を止めているのかという度合を確認したいからです。数千年の風化と比べれば雲泥の差ですが…。けれども、少なからずここ十数年とか二十数年近く、雨風に叩かれているわけですから。そうして出土品と比較観察してみると、この程度で良いという成形・器面調整上での一つの目安になります。あちこちで実施されている土器作り活動の中には、器面が驚くほど磨き上げられ、やり過ぎている感を覚える例があります。つまりピカピカの土器なのです。これは出土品とは明らかに違うと。ですから、どの段階で製作を終了しているのかという事も含めた製作状態も、型式で捉えられている大事な要素であると思うんです。成形して、あまり器面調整もしていないものもありますよね。それも一つの型式が内包しているものだと思います。つまり、それらを確かめたいがために風化させています。器面の状態が数十年の風化により、出土品に近い顔つきになっています。どの程度まで踏み込んだ製作によって、この土器は作られているかという尺度のための風化実験です。

土肥:制作する上で、一番難しいことは何ですか。

戸村:粘土の良し悪しを、彼ら縄文人がどう判断したのかということが、私がずっと気にしている課題です。彼らは、一つの大作を作る場合でも、テストピースのような試し焼きの残滓を殆ど残していません。いきなり大作に取り組むという大胆な事を行なっていたのかどうか。例えば、巨大なビルを建てるのに、その材料の如何を吟味しないで取り掛かっていくというのは有りえないでしょうから。実際問題、どのようにして素材の見極めをしていたのか。私の経験において、大作を手掛けそれが焼成段階で大破した苦い経験があるわけです。その時はものすごくショックでした。同じ状況においては、当時の人も同様であったはずです。そうすると、いかに材料の判断をしたのかという問題は重要です。その証拠になるものはありません。

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