International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『土偶について vol.2』土肥 孝


これが直接中屋敷から弥生時代の土器の顔を作るものにつながったかどうかは難しいところですが、おそらくそれ以降こういう土偶がなくなってしまうということは、死者に対する容器としての終末を迎えると考えることができます。縄文最後の段階では、基本的には死者の道具になっていて、死者を入れる物としての土偶というふうに変わっている。遮光器土偶というのがありまして、古い時代には、喜田貞吉(きだ・ていきち)先生が、遮光器の真ん中の目に線が入っているので、これは目を閉じている形で死者の表情ではないかということをおっしゃっていました。私も数十年たって、たぶん遮光器というのは死者だろうと書いたことがありますが、そのとき注目したのは、頭についている角です。今度の国宝になった著保内野もそうですが、頭のところに2本角のようなものがついていて、少し鉄腕アトムのようにもみえます。では、その角が一体何を表しているのかといえば、死者を葬るときに髪を束ね紐で結んでいたことを示していると考えられます。今から十何年前に書いたのですが、その後の平成5年か6年頃に、北海道の恵庭市にあるカリンバ遺跡から漆の櫛が約十数枚、ひとつの土坑から出てきたということがあります(写真10)。

この出土状態をたまたま見ることができたのですが、どうも櫛は前と後ろに、死者の頭に重ねてつけている。要するに髪の毛が束になっているところに、前と後というようにダブルの形でついている。そういう状態の死者が出てきました。その櫛の表現というのは、関東の土偶の中では、ミミズク土偶といわれるものに随所に見られます。それは、よく見ると上下に櫛を刺した状態で土偶が描かれています。すなわちカリンバ遺跡の墓の中の死者への櫛の刺し方と、土偶に描かれている櫛の刺し方、あるいはそこに紐が出てきていますが、その紐が髪の毛を束ねて角状に仕上げる輪を表現しているとすれば、すべて死者の髪型、表情を表しているのではないかと考えられます。よって、縄文時代の晩期の東北・北海道の土偶は、大多数が死者を表現しているのではないかと。特に遮光器土偶はほとんどそうだと言えると思います。縄文時代の終わり、さらにそれより新しい段階で、蔵骨器になるということは、縄文時代の終末の段階では、死者への道具として変容している。ところが、縄文時代の土偶を立たせる意図は、出産形態の反映であり、彼ら、彼女らの土偶を作る関心事は、おそらく人間の誕生にあると思うわけです。縄文中期における土偶を作る制作動機と、縄文終末になってから作る制作動機が、片や誕生、片や死者へと大きく変わっている。ただ、同じ形の土偶全てが、誕生と死に関係しているとは考えていません。各時代、各時代によってその人を描き象った土製品は、それぞれ制作動機が違うのだろうと考えています。そういうことを一番はっきり表しているのは、墓に入れられた土偶です。この図は(図3)穴の中で国宝になっている土偶がどのような出土状態をしたかということを表しています。

左側が棚畑で出土した縄文ビーナスと言われている土偶、右側の土偶は中ッ原の土坑から出た仮面土偶、縄文の女神と言われている土偶です。この直線距離でわずか約2.5㎞の、ちょうどひとつの谷の西側と東側みたいな形で、対岸にある集落で出た際の出土状態を表したものです。棚畑の縄文ビーナスといわれる土偶は、顔が外を向いています。それと、ちょうどその穴の長軸線に向かってずれた所に置いてあり、土坑の底にはついていなく、若干浮いた状態になっています。ところが右側の中ッ原の縄文の女神は、真ん中の丸く点で描いた場所から、顔を内向きにしながら左手を下につけた状態で、出土しています。これは、土坑、墓であろうという線を太い線で両側に矢印で書いてますが、右側と左側の穴は甕を持っています。その甕が人骨と一緒に出たのは下に書いた北村遺跡という所で、ちょうど網のかかった頭の部分に甕をかぶせたいわゆる甕かぶり葬というものが、この時代の同時期の死者の葬り方であります。したがいまして、この土偶の出る左右の墓は甕かぶりの人骨が埋まっていた可能性が強いのですが、骨がなくなっています。真ん中の土偶を入れた土坑、これは土偶が入っています。この3つの墓はほとんど時間的に同時期ですが、死者の葬り方に差があるということです。右左の両側は、死者の頭に甕をかぶせる。真中の縄文の女神が出た土坑は甕をかぶらせないで、土偶が置かれています(図4)。

縄文中期の棚畑の土偶は、死者に添えてあった副葬品の土偶であるというふうに考えられます。中ッ原の土偶はというと、明らかに土坑を掘った後にもう一度この中に穴が掘られ、土偶が置かれています。基本的に死者が横に横臥している状態で抱き合った形で埋められていた土偶であり、死者と一緒に合葬されたものであるということです。要するに土偶の置かれ方によって、副葬か合葬かが分かります。この縄文後期の中ッ原の土偶が、特に黒光りをしてお面をかぶっているのに注目しています。お面をかぶった土偶を男性と抱き合った形で埋め、合葬させることは、中期の棚畑の土偶と後期の中ッ原の土偶の違いです。それと同時に少なくとも、後期に関しては同時に甕かぶりのものと、土偶合葬のものが、同じ3つ並んだ墓として出てきます。明らかにこれは死者の葬り方に差があるということです。ひとつは土偶を合葬するということ。あとの2つは死者の頭部に甕をかぶせる。これはほとんど前後して構築された墓で、その中にそれだけの葬り方の差があるということです。縄文社会の後期になると、死者の葬り方の差が明らかに出てくるというひとつの例です。これが初期ではどうだったのでしょうか。おそらく中期でも縄文のビーナスが出てきたのは特別だということになりますが、これを特別と言っていいのかどうかは難しい問題であります。これは土器などそれらの総合的な中で、特別というものをどの様に考えるかということにも関わってくることです。今のところは副葬としてそういうものが出てますよということが言えるわけですが、その死者との関係はどうなのかは中ッ原ほどはっきりは言えない。要するに中ッ原の段階ではおそらく生身の男性と、仮面をかぶって表情を隠したバーチャルな女性が抱き合うように埋められているという形です。そして、縄文時代の男女合葬というのはあったのかということになると、縄文時代の早期に、これが中期までにどういうふうにつながるかというのは難しい問題ですが、早期に若い男女が合葬されている例が千葉県の船橋市の飛ノ台貝塚というところにあります。これはひとつの穴の中に男女が抱き合った形で埋められています(写真11)。

おそらくそういうひとつのストーリーではないけれども、物語の連続性の中に、このような抱き合う生身の人間と、バーチャルな女性が抱き合うという、そういうものも出てくるのでしょう。そのときに土偶は使われるようになる。まさに仮面をかぶらせるという造形で作らざるを得ない土偶なのだと思います。そののちに仮面をかぶる土偶というのはずっと後まで出てくることになります。ある意味ではきわめて古い段階での仮面をかぶる土偶の状態です。それが縄文時代の後期に出てきて、この土偶はまさに中空の土偶です。この中ッ原の土偶の祖形になるものは棚畑の中空になる土偶のひとつの完成形態だろうと思います(図5)。

著保内野の土偶というのは、(今年)国宝になった土偶ですが、この中ッ原という土偶が入って著保内野にいくという状態です。すなわち中空のものはある段階で、かなり死に対する道具として意識されているということです。著保内野の土偶は昭和50年に畑の耕作中に見つかったものですが、これはその段階ですぐ出た所を徹底的に調査しています。その結果、これが穴の中に入っていたということがわかったわけです。去年発見地をさらに広く発掘調査した結果、そこが墓域であるということが分かりました。それと同時に著保内野の土偶の推定される出土場所がどういう所かも分かりました。この土偶は底面についたものではなく、要するに浮いた状態で出ているということも推定できました。そこまでいって初めて、この著保内野の土偶は美しいだけでなくて、学術的な価値が担保できます。これは土偶の性格を表すものであるということで、私は国宝に出来るものだろうと考えたわけです。造形的には美しい、だけど出自が分からないというものに関しては国宝としてはふさわしくないと思っています。基本的には美しく、なおかつ出土の由来や発見の由来がはっきり復元されたもの、それによりその土偶の学術性が高められ、それが考古資料である国宝になるひとつの要因だろうと思います。著保内野土偶というのは30年にわたる調査の結果、墓域の中の墓で浮いた状態で発見されているということで、死者を埋めた後で土を入れ、その上に土偶を置いた副葬品だと考えられます。このような土偶を置くスタイルのものがいくつかあります。関東では縄文時代の後期、北海道の場合は後期の終わりくらい、あるいは晩期の最初頭といってもいいかもしれません。北海道の方は若干、死者に対するものの考え方が遅れるとはいいませんが、時間差があるかもしれません。ということで中空土偶というものが、かなり死者に関係するものではないかといえるわけです。それともうひとつ、2番目のL型に脚部を折るという土偶のたたみかたの中で、最後に風張(かざはり)という合掌土偶といわれている土偶(図6)ですけれども、この土偶は、ひざを立ち膝にして、手を合わせています。

これは合掌手と言っていますが、解釈は二つありまして、手を両側で合わせているという説と、アーメンのように握る表現だという説の二つがあります。一応一般的に合掌、合掌と言っているので、合掌と言いますが、手を合わせるというよりもどうも手を握っている形で、ちょっと力んでいる形であろうと私は思います。ただそれが何を意味しているかはとても難しい問題です。この土偶に関しては、お面をかぶっていることはまず間違いないでしょう。お面をかぶった一番古い形というのは中ッ原の土偶で、三角形の顔でまさに側面から見たらお面をかぶっている状態が表現出来ています。ところがこちらの風張の土偶も横から見ますと盛り上がっている状態ですけれども、何よりも目と鼻と口にかかれている形のこれと同じものが、岩手県の八天遺跡(はってんいせき)で耳・鼻・口型土製品(写真12)として見つかっています。

耳とか鼻とかが出ているので、これはおそらく皮とかお面に付けたパーツであろうというふうに考えています。そのお面につけたパーツがそのまま風張土偶の顔には描かれている。お面をかぶった仮面土偶というものも、ある段階でそういった情報が各地に伝わるのでしょう。お面をかぶるということは、表情を隠すということだと思います。日本のひとつの伝統で、神様は怖くて描けない、というのと同じような状態なのかもしれません。そういった意味では、やはり女性の表情を生々しく描くということを縄文はしません。日本では約1万7000個ほど土偶が出ているといいますが、生々しい顔を描いたものというのはほとんどありません。ほぼ、造形としては定型的な形のものが多いということが言えます。それと同時にお面をかぶっているもの、それが大半です。表情が違うにしても、それは作り手の描き方であって、目の吊り上がり方、鼻の上げ方、全て共通項として挙げられます。そういう事から見ていくと、土偶の顔面の様相というものは真実を伝えているというふうに思います。それはひとつの定型的なものとして何かの共通認識の下に作られているものです。それが縄文時代の中での造形のあり方として捉えられます。もうひとつは、今これは非常に議論になると思うのですが、著保内野という土偶がお面をかぶっているのか、いないのかということです。私は簡単にお面をかぶったというふうに見たのですけれども、これはお面ではなくて、その表情を表しているのではないかという言う人もいます。今後は仮面土偶についても、どう考えるのか突き詰めていかなければいけないと思います。土偶というのは正直言って人によって好き嫌いが沢山あります。私は一番前衛的なものとしては、群馬県の郷原という所で出たハート型土偶(写真13)であろうと思います。

もう全て顔の形をハートにして、鼻をちょっとつけて目をつけた。それでガニ股風の状態に作ってある。これはまさに先ほど言いました中ッ原の仮面土偶と全く同じ時期です。その時期に群馬県で作られています。それから、この郷原の土偶の手は下に垂れさがっている状態になっています。実は著保内野の両手の欠ける所もまさにこの形です。したがって郷原のポーズと、著保内野のポーズというのは全く同じだと言って良い。そして、頭に角がつく。それともうひとつは、これは最近出たものですが、秋田県の漆下(うるしした)という遺跡で出土した、やはり円盤の上に手を下げた形の土偶で(写真14)、郷原、著保内野と同じ形でした。縄文の終わり近くの土偶というのは、このように同じ表現で作られていたのです。

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