International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『日本列島の巨石文化・2』 佐治芳彦


日本列島の巨石文化

 日本列島にも巨石文化が存在したことは先史考古学的な事実である。

 日本の巨石文化の特徴は、まず巨石記念物のスケール規模や使用された岩石のサイズ寸法が一般に小形である点がまず挙げられる。 たとえばカルナック(仏)の列石は長さ一~六メートルにおよぶ巨大な自然石を幅100~百数10メートルの間に10~13個直立させ東西方向に列状に配置されている。 それは三群に別れているが、短いもので長さ100メートル、長いものでは1120メートルにおよび、列石数は全体で3000個に近い。 このような巨大なスケールの列石は日本には見あたらない。 また、イギリス南部ソースベリー平原のストーンヘンジと秋田県の大湯の環状列石とは比較にならない。

 だが、日本の巨石文化の最大の特徴は、神道だけでなく仏教的民俗のなかに現在もなお生きていることだろう。

いわさか磐境

 ふつう「いわくら磐座」とならび称されているが、「磐境」は「ひもろぎ神籬」とともに神社の原始形態とされる(神域を示す)。 その「磐」の原意は「山の石」(岩)であり「海の石」(磯の石=小石)に対するものだ。 つまり、大きな岩=巨石である。 したがって磐境とは、たんなる斎場ではなく、巨石によって囲まれた神域だったと考えられる。

磐座

 磐座は、神のいます���固な座(席)ではなく、神がいます山中の巨石をさしていた(この巨石は山麓から運んだ自然石とかぎらず地上から露頭している巨石の場合がある)。

 なお、いわゆる「日本のピラミッド」(後述)といわれる御神体山には、中腹に磐境、山上付近に磐座に相当する巨石・巨岩が見られる。

 この磐境や磐座の存在する御神体山は、日本の巨石文化の特徴の一つである「日本のピラミッド」のレリック残存、いや生きているエビデンス証拠といえるかもしれない。

環状列石

 代表的な環状列石である大湯遺跡(秋田県)は、万座と野中堂の二つのストーンサークルからなっている。 この二つの環状列石は夏至のときに太陽が沈む方向をかなり正確に意識して造られていることが分かった。 そこから「日時計」の考察にウエイトをおく天文考古学がアピールされたが、たしかに夏至や冬至、さらには春分や秋分での日没を意識した、つまり縄文カレンダーの基準となるモニュメントの配置がなされている環状列石が全国に散在している。 なかでも中部高地(長野県の阿久遺跡、上原遺跡)からは環状列石や集石機構をもつ大集落の出現と、ハイ・レベルな縄文文化の存在が示されている。

 だが、それらの環状列石が周辺集落の墓地であったことも否定できない。 ここから、ストーンサークルを祖先祭祀の場とする見解が出てくる。 複数集落に分散した縄文人が、たとえば後世のお盆帰りやお彼岸の墓参と似た目的で、このような聖域を共同で建設し、かつ維持したのではないかという発想だ。 つまり、縄文共同体の地域的アイデンティティ維持のために造ったという発想である。 とすれば、この種の遺跡分布の密度の濃い東北地方の人々のお盆における帰省願望(かつて小松左京氏は、東北人のお盆の帰省願望の熾烈さから「東北出身の人々は月世界に出稼ぎにいっても地球カレンダーでお盆の季節になれば帰省するのではないか」とったことがあった)は縄文以来のものである可能性もある。

積石塚

 積石塚(ケルン)は、礫石などをピラミッド型に積み上げたもので、盛り土での墳丘と同じく墓の標識として、また、墓の装飾や保護のために造られたものと思われる(周囲に環状列石をめぐらした例も少なくない)。 このケルンは現在では登山者の道標なり、記念物とされている。 日本では、スポーツとしての登山が移入されてのちのものと思われているが、その起源は巨石文化の記憶に求められるのではあるまいか。

 また、「地蔵和讃」の賽の河原の積石(ケルン)は、中世以降、民衆に広まった。 この賽の河原の「賽」とはもともと「境」を意味する。 つまり、この世とあの世の「境」に在る我が子への哀惜が、この仏典的には根拠がない「賽の河原」の「地蔵和讃」を創った… 私は、これも民衆のあいだに生きている巨石文明のレリック(残存物)と見たい。

巨石広場

 巨石記念物(とくにメンヒル)を中心とした広場をさす。 それは世界各地の巨石遺跡に見られるが、日本の縄文集落遺跡にも見られ、祭祀場であり集会の場であったと考えられる。 この事実は重要である。 すなわち、古代アテネのアーゴラ広場を例にとり、民衆の広場の不在をもって日本の民主主義を云々する人々がいるが、そうした見解は縄文の巨石広場の存在についての無知に基づくのではないか。 私はこの巨石広場での共同体の祭祀や儀礼やデスカッションに古代世界にほぼ共通した原始民主制の存在を主張したい。 つまり、環状住居の中央にこのような巨石広場をもっていた縄文社会は原始民主制社会だったということである。 私が、この広場を中心とした縄文集落の空間デザインに注目したのは、D.フレーザーが、アフリカのムティ・ピグミーの円形の村落設計から原始平等主義を読み取ったこと。 また、北アメリカのオグララースー族は、宇宙を円と考え、その観念を自分たちの村落のデザインに投影しているが、いずれも住居が広場の中心から等距離に弧状に配置され、しかも入り口はすべて広場に面しているということに示唆されたからである。

  D.フレーザーは、採集民であるムプティ・ピグミーの場合、ある男が自分の住居の戸口で、いくらわめいても、それはあくまでも個人的(私的)な発言で、それ以上の重みをもたないが、彼が広場の中央に立って話すときは、その発言は部族にたいする公的な発言として受け取られるという。 この例から縄文人と巨石広場との関係について考えると、縄文階層社会説(奴隷所有! )を大声で主張するのはいかがなものであろうか。

巨木遺構

 巨石ではなく巨木のモニュメント記念物の存在は、これまでインドのアッサム地方やミャンマーの山地民族の例が知られていたが、日本でも真脇・チカモリ・寺地、三内丸山などの縄文遺跡からも明らかとなった。

 このチカモリ遺跡や間脇遺跡、寺地遺跡など巨木の列柱をウッドサークル(環状列柱)と呼んでいる人も多いが、ストーンサークル(環状列石)とちがって天文観測的な機能は明らかでない(ただし、三内丸山の場合は夏至を意識している)。 したがって信仰的な意味合いがより濃いと見るべきだろう。 天降る神のヘリポートとして立てられたと見る人(梅原猛氏)もいる。 だが、縄文晩期のチカモリ遺跡ならまだしも、はるかに古い真脇遺跡(縄文前期)の場合、はたして天降神信仰があったかどうかは疑問である。

 それにしてもなぜ石でなく木か? 縄文人は「石の文明」に結局はなじまず、「木の文明」を指向したのか。 つまり「砂漠の思想」と「森林の思想」との違いか。 それとも建設素材入手(と運搬)の問題から巨木を選んだのか? ちなみに古代の巨木の生産地として有名なレバノン地方からウッドサークルの遺跡は報告されていないようである。

日本のピラミッド

 日本の巨石文化の特徴の一つにピラミッドがある。

 戦前、日本のピラミッドの存在を提唱したのは酒井勝軍だった。 彼の所説は戦後の古史古伝ブームとともに復活し、「サンデー毎日」の大々的キャンペーン(1984年)によって、多くの超古代研究者によって取り上げられることになった。

 祭祀考古学���立場からこの問題にアプローチしている鈴木旭氏の所属する環太平洋学会の定義によると、

 山容が四角錐の形をしている事。 それは、自然山でも、人工造山によるものでも構わない。
  山頂部が祀り場になっており、それに通じる参道がある事。
 山の周辺にも祭祀場があり、その山と一体となっている事。
 エジプト系のピラミッド群と区別して、環太平洋型ピラミッドと呼称する。

 ただし、これらの条件を一応満たしている人工的整形を施した山(日本のピラミッド)としては秋田県の黒又山を典型とするというのが鈴木氏の見解である。 なお氏はピラミッドというよりも「山岳祭祀遺跡」として捉えるほうがよいと考えているようだ。 脱古史古伝派の鈴木氏らしいアプローチであるが、ピラミッドであれ山岳祭祀遺跡であれ、山上や中腹に、しかも方位や太陽観測など考慮して、磐境や磐座とされる巨石を配置するという技術は、日本の巨石文化のユニークな達成である。

 だが、日本のピラミッドを山岳祭祀遺跡と限定してしまうことは、ある意味で巨石文化の矮小化に繋がりはしないかというのが日本のピラミッド・ファンの危惧である。 UFOとの連絡施設などというのは一応論外としても「太陽の神殿」としての可能性が考えられる。 ちなみに太陰(月)信仰から太陽信仰への移行は古代文明の大きな画期である。

 なお、環太平洋学会では、このような日本のピラミッドと同じ様式の遺跡が、韓国やインドネシア、太平洋諸島、さらに中南米に散在していることから、古代の環太平洋文明の存在の可能性を主張しているが、古代の環太平洋文化圏論者である私にも賛成できる仮説である。 すなわち、鈴木氏らも無意識裡に私と同じく「古代航海民」の活躍を前提としているようである。

なぜ巨石記念物を造るのか

 日本にはストーンサークルを含む配石遺構が500以上ある。 縄文人がそれらをなぜ造ったのだろうか。 ストーンサークルについてはすでに述べたが、メンヒル(立石)やドルメン(支柱石=支柱墓というが墓だけとはかぎらない)のような巨石記念物建設の動機はなにか。 これについて納得のいく説明は文化人類学でいう「勲功祭宴(feast of merit)」説であろう。

 勲功祝祭とは、インド、東南アジア、オセアニア、さらにはマダカスカルを中心に見いだされるポトラッチ型の祝宴である。 ここでいう勲功とは、ふつう外敵からの集落の防衛、大型野獣の捕殺、家畜など財産の大量放出である。 そして、勲功者(祭宴の主催者)には、その栄誉を顕彰する意味で、ある種の称号や自宅に特別な飾り付けをする権利を与えられ、また、木柱や巨石記念物(メンヒルやドルメン、ストーンサークル、石壇など)が記念として設立される(この建設自体も祝宴の一環とされる)。 それによって、勲功者の霊魂が生前の社会的地位に対応した来世での幸福を保障されるとする。 このような古代人の観念をハイネ=ゲルデルンは「時間的・系譜的な世界観」とよんだ。 この世界観が、古代文明地域において、天体の運行や宇宙の構造と人間の運命が依存しているという「空間的・呪的・宇宙的世界観」に取って代わられたとき、エジプトのピラミッドが建設されたのだろうか。 ピラミッドを巨石記念物に含めないのは、その世界観の違いによるのかもしれない。 そうだとすれば、いわゆる日本のピラミッドがピラミッドであるかどうかは、その世界観によることとなる。

岩刻文様-岩石文字

 巨石文化伝播の仮説に有力な援軍が現れた。 それはハーバード大学の名誉教授(海洋学)バリー・フェルの『紀元前のアメリカ』のペトログリフ岩刻文様(ロック・アートとも)の研究である。
 
彼はコロンブス以前のアメリカ移住者の存在を示す神殿・巨石記念物・墳墓などとともにペトログリフ石に刻まれた碑文を取り上げ、古代における壮大な文化移動を立証しようとした。

 一方、日本では彦島(山口県)で発見された岩石文字(ペトログリフ)のなかにシュメール文字が見い出されたというショッキングな報告が吉田信啓氏からなされた。 だが、古事記をシュメール語で読めるとか日本の地名をシュメール語で解読? できるなどという情報に食傷していた私には川崎真���氏の問題の碑文の全文解釈についても懐疑的であるが、鈴木旭氏は日本のペトログリフからシュメールの神性を象徴する「七枝樹」が見えることから、古代シュメールと古代日本の文化的交流を仮定している。 だが、この「七枝樹」はオリエントの「生命の樹」であり、その日本への渡来については私なりの仮説を持っている(小著『謎のシルクロード』徳間書店、1980 参照)。 したがって、現在もっとも肝要なことは、各地から「発見」されるペトログリフにたいするオリエント古語の専門家による解読作業だろう。 その結果、もし、それがシュメール語であることが、学問的に確認されたならば、それは日本の古代学研究にとっての革命となるからである。

むすび

日本の巨石文化が終焉したのは、巨石記念物と結びついた宗教や呪術の衰退と、それによる技術集団の解体であり、それをもたらしたのは気候の寒冷化と食料難による共同体の衰弱であろう(勲功祭宴の社会・経済的余裕などなくなった)。 したがって、日本列島に巨石文化建設に匹敵する国家的土木事業が誕生するのは、水田稲作による社会的富の蓄積がすすみ、その富を独占するファラオ的な権力者の発生した古墳時代以降となる。

(岐阜県位山の岩座)ファイル 25-1.jpg
 
(寺地遺跡巨大木柱)ファイル 25-2.jpg 

佐治 芳彦(さじ・よしひこ)

国際縄文学協会会員
作家

会津若松生まれ。 東北学院英文科卒。 東北大学文学部史学科卒。 現在は古代から現代史まで幅広い分野の 執筆で活動中。
『九鬼文書の謎』(くかみもんじょのなぞ)、『縄文の神とユダヤの神』など著書多数

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