International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『沖縄の風水史・1』 渡邊欣雄


◆平成15年 講演録

 今の沖縄の風景は、ほとんど風水判断によって基礎が作られており、現在に至っています。私は文化人類学、社会人類学を専攻し勉強してきましたが、1950年代・60年代の文化人類学は、歴史学よりもはるかに考古学に近い研究があり、私はそのような分野の先生方に習っておりました。人類の先史時代研究と我々の人類学研究がほぼ一致していた時代が50年代だったと思います。ところが人類学の理論や認識が変わってしまい、今人類学研究というのは現代研究が主流ですから、現代と言う問題に関して研究せざるを得なくなりました。つまりグローバルな政治・経済状況に各社会や文化がおかれていますので、それらグローバルな現代状況との関係で調べて行くと、どうしても現在研究になってきてしまいます。最近は、縄文時代とこちらの時代の関連を研究していく研究はほとんどありません。小山修三先生のような方がいらっしゃった時代や大林太良先生などが、縄文期の社会組織を復元されていました。あのような夢がいまでも研究上実現できるなら、本当にいいわけです。私の先生は石田英一郎先生や岡正雄先生です。『日本民族の起源』という座談会を八幡先生や江上波夫先生が議論していた時代は、本当に考古学と関心が同じでした。その教え子の時代になったら全く関心が変ってしまった。

 さて、始めに風水の概略的な話をします。今、占いが流行っていますが、あれは我々の社会がヨーロッパの近代を受け入れて、その後に占いというカテゴリーがどんどん発生した結果です。今は風水も本当に占いに特化してしまっています。それ以前は風水というのは国の学問、国家的な学問でした。なのに今の地理学者の多くは当時の地理学をあまり知りません。実は日本にも韓国にも中国にも東アジアに伝統的な地理学があったのです。それは非常に実用的な学問でした。環境アセスメントに近い。つまりなにか物を建設する時に事前に環境の影響を判断した上で建物を建てるとか、穴を掘るとか道路を作るとかそういうことをやってきたすごく深い歴史があるわけです。それを風水といいます。それが占いに特化してしまったというのは、いまの国家公務員の知識の中に採用されていない証拠です。唯一占いでない分野として残っているのが気象庁です。今の気象観測だけが占いから外れている。明日は晴れるか否か、吉か凶か。そういう、気象判断による一年後、二年後を占っても吉か凶かで判断できますし、それを占い化してもいいわけです。

 同じ分野として、気象観測では風水、天体観測では天文方というのが江戸時代にもありました。中国には欽天監という役所があって、天地を観測していました。著書にも書きましたが、東アジアの考え方の中に、〈気〉という考え方あるんです。気のエネルギーを利用して何か物事をしようという考え方がある。これは我々科学の中でもいわゆる東洋漢方に可能性があることがだんだんわかってきています。しかし風水は科学にはほど遠い考え方です。その当時、地の気という考え方があって、地の気の影響で人間の生活が変ってくるといった考え方が、数千年支配的だったのです。ですから地の気を使い、できるだけ良い気の影響を受けて国の都を作るとか、古墳などのお墓を作っていく、あるいは宅地を作っていくというようなことが東アジア一帯で行なわれていました。その記録は非常に豊富です。

 理想地形のひとつが(図1)で、これは古代中国の人たちが描いてきた地形の書き方なので、我々から見ると非常に馴染みにくいですが、黒が山並み=山脈です。住空間はその山脈に二重に囲まれていますが、どうも気は山並みの形に従って降りているようです。そして穴(けつ)という字がありますが、気の集中しているスポットです。そこに都市や宅地、お墓などを建てると、都市においては生きている人間に、お墓においては子孫に影響を及ぼすという考え方がある。これを見ても平安京は全くそのとおりの地形になっています。このような環境の中に都市計画や住宅計画を作るプランなんですが、こういう四角の平面空間を九つに分割して都市をおくわけです。そうやって人間が作った造形物を置くと、そこが風水の影響を受けて、それぞれのグリッドの意味が変ってくる。

(図1)理想的風水図
" class="protect" alt="ファイル 71-1.jpg" width="530" height="701" />

 だいたい古くはAの部分が一番気が集中すると考えられていた。ところがだんだん時代を経て、北魏・洛陽の時期あたりに、D、こちらの方が気が集中する場所といって宮城=都、皇帝の住宅を置くということになってくるわけですが、いずれにしても、ここに宮室をおくというプラン、これが風水の理想形ですし、当時の科学でした。『日本後記』、日本の六国史の著述を見ますと、桓武天皇は平安京を遷すときに、地形の形があたかも城のごとく都市と同じではないか、と言っています。「地形が都市のかたちをしている。つまり「山」が「城」(都市)である。だから、山背国(やましろこく)を、山のお城の国にせよ」と言い、京都周辺を「山城国」という名前に変えてしまいました。京都の山並みの囲みがすなわち都市の形と全く同じだと言ったわけです。山と城が同じ形をしていると判断した。山城国というのは、そこから来ているわけです。これはまさにそのとおりで、このような囲みが山です。ここに朱雀大路があったわけですが、広場――風水では明堂(めいどう)といいますけど、大空間をあらわすような朱雀大路があって、まさにそのようなプランを京都の地形に読み込んだわけです。ですから山の形はすなわち都市の形です。この形とこの形は同じ。入れ子的な構造になっていまして、この都市のグリッド――九つに分割してこの中に入れていくのが風水です。同じ形が住宅の形になって現れますし、お墓の形になって現れる。前方後円墳というのも、沖縄の墓の形です。しかし沖縄の風水図見ると、正確には天円地方墳という言い方になります。この天円地方墳という形を作っていったのが、東アジアだったわけです。これが風水なのです。

次へ>

  • 2014年09月01日(月) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『縄文人の霊魂観・6(写真)』 萩原秀三郎


<写真18>
魂を象徴するご飯やお餅をたべさせる祖霊がやってくるのは、暮れと正月です。お盆になるのは新しく、中国から入ってきています。道教が十五日を中心に上元、中元、下元、三回に分けてお祭りをします。太陽の祭りの場合はニ至二分。つまり春分、秋分、冬至、夏至に、本来それを中心に行います。特に稲作民族の場合は春社と秋社以外にお祭りはないです。十五日を中心にするお祭りが始まったのは(一月十五日・七月十五日、九月十五日等)全部道教の影響です。

" class="protect" alt="ファイル 163-1.jpg" width="530" height="389" />

<写真19>
暮れになると人がミタマ(丸餅)を配って歩く儀礼があります。これが年玉。本当は裏にまわってその家のお餅をもらって渡すんです。仮面をつけて鬼ががたがたと戸を叩いて脅して入ってくるんです。こんな大きな子どもでも、鬼と信じてるんです。「歌ば歌てみろ」、というと歌をうたうし、とにかく言うなりで、最後にご褒美でお年玉を貰うんです。こういうふうにして、みんないっせいに魂を貰って歳を重ねてきたんですね。今は誕生日に歳をとっちゃうから、さっぱりわからないけど、以前は正月に新しい魂を貰って一つ年をとる数え年でしたから。

" class="protect" alt="ファイル 163-2.jpg" width="264" height="387" />

<写真20>
生まれるとすぐ産飯(うぶめし)を炊いて小石と共に産(うぶ)の神、お産の神様に供えます。この石も魂なんです。

" class="protect" alt="ファイル 163-3.jpg" width="270" height="291" />

<写真21>
こういうようなおコメの儀礼の原点に初穂の儀礼というのがありますね。だから新嘗祭の原点は、最初の初穂の儀礼にあるわけです。この場合東方の太陽に向って拝むことから入っていく。

" class="protect" alt="ファイル 163-4.jpg" width="246" height="366" />

<写真22>
この種籾・稲魂(イナダマ)を藁づとに入れて受け渡しをするのがお祭りのひとつの典型的な原点なんですけどね。神社になると竹の中に藁づとを入れて仰々しくなるんです。神主が出張ってきて(奄美諸島)。

" class="protect" alt="ファイル 163-5.jpg" width="267" height="366" />

<写真23>
さらに発展すると、俵になる。これは石川県のアエノコト俵の中に種籾を入れて、これを饗応するわけですね。ご馳走をあげて、だから本来これは田の神で、人格神ですね。だけどさっきの一番最初の種籾の方はまだイナダマ(稲魂)といって、精霊であり、田の神なんて言わないんです。現地ではニヤダマとかね。それが縄文的な考え方ですよね。全て精霊なんです。それがだんだん人格神になる。人には人魂があるように稲には稲魂がある。それからもっと時代が下ってくるとこういう、これはお枡小屋というんですけどね。お枡明神という枡というのは、昔は枡におコメを入れたんですけど、今は枡の中に枡がまた入っている。三つ枡が組まれて入っているんですよ。それをお祀りしている小屋が臨時に建つんですね。また四年経つと次の集落へ。その集落ではまったく新しいお枡小屋を建ててお祭りするんです。こういうものが神社の古型なんです(福島県棚倉町箕輪)。

" class="protect" alt="ファイル 163-6.jpg" width="255" height="384" />

(終)

民俗学者
萩原 秀三郎

  • 2014年08月25日(月) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『縄文人の霊魂観・5(写真)』 萩原秀三郎


<写真9 >
ミャオ族では家の中に象徴的な掛け橋を、橋はいつもそういう意味があるんです。あの世に向けて橋をかけると子が授かる。

" class="protect" alt="ファイル 162-1.jpg" width="252" height="366" />

<写真10>
これは群馬県のオヘーナという便所神様です。男女一対の紙人形。

" class="protect" alt="ファイル 162-2.jpg" width="225" height="330" />

<写真11>
これは、普段畑なんですけど、山を作って、まわりに堀と経文橋を作って、この中を他界として、厄年の人なんかみんな中に入って、鬼が橋を渡って助け出す。「生まれ清まれ」と言って新しい魂を貰う。全く新しく生まれ変わるということなんです。そういう儀礼をやりました。

" class="protect" alt="ファイル 162-3.jpg" width="390" height="249" />

<写真12>
成育儀礼の中の子返しの絵馬というのは、間引き絵馬です。間引きは役人の言葉であって、民衆は子返しって言うんです。なぜ子返しの絵馬があるかというと、あの世の物ともこの世の物ともつかない状態の魂を返してるだけだから、子返しの絵馬なんです。夜叉にも等しい行為であるというので、赤ちゃんの口を塞いでる鬼なんです。

" class="protect" alt="ファイル 162-4.jpg" width="375" height="285" />

<写真13>
赤ちゃんが生まれて産着とか、初誕生とか、初節供とかそういうときの晴れ着に付けるものなんです。いろんな形の物がある。これは全てお守り。というのは、呪術、結び、タマ結びなんです。タマ結びでもただ結んだだけじゃすまない。ごちゃごちゃ綾取り状にやると、ややこしいから魔物が寄りにくい。例えば、お相撲さんのサゲなんかもちらちらさせて穴から悪魔が入りにくいということです。

" class="protect" alt="ファイル 162-5.jpg" width="243" height="366" />

<写真14>
これ歌子と言う人の鼻結びと書いてある。これは明治二十六年の、麻で作った糸を、くしゃみするたびに結びます、魂が抜けないように。くしゃみというのは、糞喰めとか汚いことを言って、悪いやつを退散させるんです。ギリシャとか、インドとかあちこちに魂結いの思想というのがあります。

" class="protect" alt="ファイル 162-6.jpg" width="381" height="255" />

<写真15>
これは茨城県ですけど、襟みたいなところから魂は抜けやすいんです。それで、襟かけをかけるというのは、呪力のあるモチーフです。子どもにも厄年があって、子どもの年よりも一つ多い餅を首からかけて、二月八日の屋敷神のお祭りのときに、この格好で屋敷神をお参りするんです。

" class="protect" alt="ファイル 162-7.jpg" width="249" height="378" />

<写真16>
それから奄美の方行くと、南島正月といって、シバサシという正月があります。シバサシのときに桑の皮を首とか手首とか、足首に結びます。それで魔除けにします。

" class="protect" alt="ファイル 162-8.jpg" width="261" height="378" />

<写真17>
これは、ミャオ族。耳といい口といい、輪に輪をかけて雁字搦めにし、頭にもいろんな呪いの飾りをつけています。

" class="protect" alt="ファイル 162-9.jpg" width="273" height="399" />

次へ>

  • 2014年08月25日(月) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『縄文人の霊魂観・4(写真)』 萩原秀三郎


<写真1>
シャーマン。仮面を使うことはほとんどなく、普通シャーマンは、こういう布でやります。この場合は普通の人に神懸からせて、この人が天界に行って神様を連れてきて、その過程で神様の歌や舞をやっています。シャーマンの儀礼は、数年に一回。例えば日本の場合、御柱は、毎年なければならないことなんですが、毎年やってるのは酉の祭りで、御杖柱(みつえばしら)という行事。ミャオ族の場合でも本来毎年やりたいんですが、供儀の牛が育つ時間もあるし、費用もかかるし、だから七年に一回やるんだと。ところが日本では、七年、二十年に一回。焼畠の周期と関係するといわれています。

" class="protect" alt="ファイル 161-1.jpg" width="240" height="330" />

<写真2>
牛を殺しています。この血を分ける、つまり共同体でタマス分け。
これを食べてみましたが、食べられるようなものではありません。

" class="protect" alt="ファイル 161-2.jpg" width="393" height="264" />

<写真3>
山から楓香樹を切ってきた木鼓。太鼓の形にして、亡くなった太鼓の霊魂を太鼓の中に入れて、また山に送る。太鼓にご飯やお酒などを食べさせています。

" class="protect" alt="ファイル 161-3.jpg" width="363" height="258" />

<写真4>
山に行くと鼓石窟といって、洞窟の中に木鼓を納めます。七年に一回とか十三年に一回とか。これが祖霊です。本当は一対ありました。つまり遺体と一緒に人々は暮らし、霊魂は山へ帰ります。
白褲ヤオ族の場合は人が亡くなると、家の中の西北の隅に埋めます。お正月やお葬式になるとこれを取り出して、太鼓叩いて共同でお葬式のお祭りをやる。つまり日本の屋敷神みたいなものです。

" class="protect" alt="ファイル 161-4.jpg" width="243" height="372" />

<写真5>
タイ北方のリス族なんかだとブタの心臓、これが生き御霊で、お正月になると段が三つあってですね。年上の段、中年の段、子どもの段。紐で繋いで、聖なる植物採って来て供えます。

" class="protect" alt="ファイル 161-5.jpg" width="255" height="390" />

<写真6>
朝鮮半島でも、魂はやっぱり同じです。結びが魂。この結びを解くことによってこの世にしがみついてる魂、異常死者、水死したり、交通事故で亡くなった死者を送り出す。遠くへ行って欲しいという儀礼です。踊りながら、どういうわけか、硬く結んだ紐が次々に、手品のように解けていきます。紐に伝って、霊魂が離れて行く。

" class="protect" alt="ファイル 161-6.jpg" width="351" height="264" />

<写真7>
日本の場合、あちこちに鳥が霊魂を運ぶという例があり、対馬では、安楽堂に木で鳥型のものを飾ります。この鳥の場合はツバメで、なぜツバメかと聞いたら、できるだけ早くあの世へ行きたいと。

" class="protect" alt="ファイル 161-7.jpg" width="258" height="396" />

<写真8>
家の戸口に茅をさす、これは防災です。これ刃先が茅は鋭いんで、魔除けになります。茅というのは稲と置き換え可能なんです。カヤはイネ科の植物でお正月になると茅をお祭り広場の真ん中に刺します。そうすると稲が丈夫に育つという。日本だったら庭田植えというか、あるいは雪中田植えといってお正月雪の中に茅を刺しますがまったく同じことです。

" class="protect" alt="ファイル 161-8.jpg" width="285" height="396" />

次へ>

  • 2014年08月25日(月) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『縄文人の霊魂観・3』 萩原秀三郎


 縄文時代になると、埋め甕というのが多く知られております。縄文中期中葉になるとたくさん出てくる。埋め甕というのは胎盤を中に入れて埋めたもの。原始民俗の方法として、住居の敷居の下、入口の下に胎盤を埋めるというのは非常に多い。なぜかというと、これをお母さんが跨ぐ、そうするとひょいと魂が戻ってくる。だから霊魂の再入の門戸を、そこで開いているということなんです。日本人は本来、腰巻で、生理帯などを除いては、全部開けっ放しでした。これは中国から全部そうです。海南島のリー族でも、イ族でもミャオ族でも全部、短いスカートのときでも。白褲瑤(バイクーヤオ)で写真を撮っていたら、絶対しゃがんで撮らないでくれと言われたことがありました。それは全部スッポンポンなんです。雲南省に行ったときは、タイ族とかプーラン族の間で魂が落ちたときはどうするのか、魂消た(たまげた)ときはどうするのかと聞いたら、自分より年嵩の人に頼んで畑や山に行って、魂を呼んでもらうのだそうです。それはツゥアイジアフンゾウ(足着魂走)というんですが、魂を踏んで歩くというようなことをすると、魂はスカートの下から戻ってくると。男でも女でもそうです。

 マリノフスキーの有名な『未開人の性生活』というのがありますが、トロブリアン島の島民に妊娠というのはどういう事かと聞くと、これは男と関係ない、交接が原因だとは考えてないと言っている。因果関係はありませんが、幼児の魂というのはひょいと奇遇するものだ、というふうにしか頭の中にないわけです。だから、男が魂の侵入路の通路を開けるだけの役目で通路を容易にするだけだと書かれていて、面白いなと思いました。

 つまり人間の体というのは、だいたい中空なる魂の容器なんです。特に女性というのはタマヨリヒメなんて言い方をするのは、明らかに魂がそこに入っているという意味でしょう。それで、狩猟民を考えると、柳田さんの書いた『食物と心臓』という論文があるんですが、動物の生命の根源というのは、心臓や肝臓にあると考えられているんです。よくレバー肝臓占いとかを朝鮮民族がやっています。遊牧民でも農耕民でも、あるところのチベット族などでもそうです。例えばお正月の祭壇を見ると、ツァンバといって、ライ麦を炒って粉にした、いろんな作り物の飾り物がありますが、自分の物として、その作り物の中に心臓があります。それから、リス・ビルマ語系族というチベットの山の狩猟採集民がいますが、お正月になると、家ごとに祖先棚を作る。それで、族長の家は、この祖先棚は三段になっていて、そこにブタの心臓を飾ります。(写真5)これは、生き御霊、死んだ人の魂でなく、生きている人の魂を象徴しています。三段に分かれているのは年寄り、若い人や子どもという意味です。そこに糸が引っ張ってありまして、糸はそれを繋ぐ物なんですが、その一番下の段に、ブタの心臓を飾ってあるんです。要するに、霊魂、魂を強化する、生き御霊を強化するという儀礼が行なわれるわけです。

 日本の場合ですと、力うどんなども同じこと。食べ物によって、力づけるわけです。例えばお正月になるとお年玉というのがありますね。これは本来は丸餅です。暮れになると甑島のようなトシドン(年殿)というのがやってきて、お餅を配って歩いた。それをお年玉と言っていて、いつのまにかお金になってしまったのですが。あるいは歳の実とかいろんな言い方があります。それから、お盆になると、同じ魂でも生きてる人の生き御霊を強化するために、例えばフナの生き胆を親に差し上げるとか、そういう盆の儀礼があちこちにあります。ボンザカナ(盆魚)は、両親に供えるものです。あるいは名付け親や、仲人へお盆のときにお礼参りに魂を持って行きます。

 このように、中国も日本も、古代も現在も、全然変わっていません。狩の獲物の分配を、タマス分けというところがあります。九州では、これをタマスと言って、沖縄ではタマシといいます。共同で狩をした場合に、タマスを同じような量で分配。タマス分け、魂を分けると。また、樹木を切って、一区切り一区切りを一玉、二玉といいます。うどんも、一玉二玉といいますが、このように魂の根源と言うふうに考えていたところがあります。ですから、柳田國男さんは『食物と心臓』の論文の中で、これは神からの賜り物、原点はそういうところの獲物の分配と関係があるのではないか、ということを言っているわけです。

 ミャオ族は刈り入れが終わるとお正月です。ですから、お正月が早いとこもあれば遅いところもあり、みんなまちまちです。つまり食物が切れると危機的状態になって、新しい収穫によってまた継がれて行くわけです。時間と言うのは切れては継がれ、切れては継がれ。そこに魂の起源がまた考えられるわけです。食べる物がなくなると魂が途切れる。そのときに始めて息継ぎとして、新玉の年、というふうにいいます。紅白歌合戦というのも、暮れになって勝ち負けを決める。あれもみな、次の年の魂占いのような要素がある。ですから、日本のお祭りをみると、言ってしまえば、全て魂祭りだとも言えるんです。その魂祭りということで、一番重要なのは共食。今は直会などといって、お祭りの後のどんちゃん騒ぎだと思っているようですが、そうではない。これが本来のお祭りだったのです。魂を、いわば神と人とが共有して強化しているわけです。

 最後に再び加えたい論文があります。肥後和男さんが、日本古代の霊魂についてこんなことを言っています。『新撰姓氏録』によると、祖先が魂(タマ)だとするものが、平安時代の初期、五機内では半数が日からだというふうに言っていると。天上に輝く太陽、生産霊というふうに見た。後の半数は結びの神だということで考えていったわけです。結びという、つまりムスは、苔むすとか、物が生成するという意味です。植物の芽が出て、生長するというのが生す(むす)なんです。御霊の振ゆ(フユ)というと、魂が増殖することになります。つまり他に分かち与えるという意味です。御霊のフユみたいに魂を分割して、だんだん増えていく。だからタマとムスビというのは、同義語で用いられることが非常に多いんです。一つのタマから分け与えてタマが出てくる。だから増殖してくる。祖先のタマから子孫へとタマがだんだん受け継がれていくわけです。最初に優れたタマがあって、それが子孫を生み出して一つの氏族にまで発展したという考えです。

 例えば、ハラとカラがあります。ハラカラ(同胞)、これは同義語らしいです。肉体がハラで、カラも肉体で同胞。タマというのは男からきて、ハラカラ、肉体は女性が提供するという発想であるかもしれないと。肉体は体で、ナキガラ(亡骸)あるいは、カラダ(体)というのはそういうような意味です。タマというのは言葉から想像すると、本来丸い玉のような状態の物を想定していたのではないかと。あるいは心臓に収まっていたということも考えられるということです。タマのないのがつまりナキガラです。近世では腹は借り物などと言ったりしています。

 タマヨリヒメ神話では、ホ(火)ノイカズチの神が丹塗矢となって流れてきて、タマヨリヒメが、それに感じて妊娠する。そして、ホノイカヅチ、火雷神というのは一種の火であって、魂の火も霊をさす言葉でありながら、同時にファイヤーをさすかもしれないと、彼はそういうふうに考えている。そして、死んで体が冷たくなれば、体内で燃えていた火が消える。これは僕から言えば、食べ物も、やはりエネルギー源ですから、死ぬと受け付けなくなり、エネルギーがなくなって、体温もなくなる。神の本体も、やはり、タマではないかと。ただ、神の場合は大御霊などと言いますが、肥後和男さんは、大御霊や大国タマというふうに、タマを上位のものと考えています。しかし、実態はタマに変わりはない。状態や局面や場面によって、上や下のタマがあるだけの話で何も変わりません。

 少し問題なのは、物の怪(モノノケ)です。物の怪の、物というのが、聖霊といっていいのかどうか。これは、おそらく架空のタマではないかと彼は考えるわけです。ただ、物の怪が非常に大活躍するのは平安時代です。この時代になると、巨大な物の怪になってくる。元来、共同体の中に生まれてくるようなタマというのは、たいしたものではなかったはずです。だんだんに、御霊(ゴリョウ)信仰というものが生まれてきたのは、そういうことだと。それから、大物主というのがあって、これは物ですが、ヘビのように動物霊的なものも考えられます。ですから、上代的なものというのは、人間的なものであるよりも、むしろ動物的な大物主のようなものかと。縄文というのは、そういう、非常に動物的、人間的なものとの境にあるものと考えた方が、わかりやすいと思うのです。

次へ>

  • 2014年08月25日(月) | 講演録::特別セミナ-/講演会 | Edit | ▲PAGE TOP

国際縄文学協会ご案内

 NPO法人国際縄文学協会は、縄文土器・土偶・勾玉・貝塚など縄文時代/縄文人の文化を紹介し、研究促進を目的とする考古学団体です。セミナー/講演会、資料室、若手研究者の留学/奨学制度、遺跡の発掘現場の視察、機関誌の発行を行っています。

ログ検索

▼月別ログ

サイト内検索

▼キーワード

事務局/図書資料室

〒105-0003
東京都港区西新橋1丁目17-15
北村ビル2階
TEL:03-3591-7070
FAX:03-3591-7075
受付:10:00~16:00
定休日:土日祝

▼ 最新刊行物ご案内


▼ 縄文セミナー情報

Mobile

RSSAtomLogin

▲ PAGE TOP