International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 「ユネスコ世界遺産登録記念 北の縄文世界と国宝」展 阿部千春さんインタビュー①


ゲスト:阿部千春さん(北海道縄文世界遺産推進室 特別研究員)
聞き手:関 俊彦(国際縄文学協会理事)
2023年8月2日 北海道博物館にてインタビュー

※「ユネスコ世界遺産登録記念 北の縄文世界と国宝」展 2023年7月22日から10月1日まで北海道博物館にて開催。

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:この度、北東北の縄文遺跡群が世界遺産となりました。これら縄文時代の遺跡群は、年代的に幅がかなりあります。これだけ時間幅のあるものを世界遺産にするのは珍しいですね。
縄文時代とそれと並行する世界というと、エジプトのピラミッドや神殿、イギリスのストーンヘンジなどがありますが、世界のそれら遺跡と比較したときに、縄文の独自性とは何でしょうか。また、独自性がその文化文明の特徴になると思いますが、縄文文化の特徴についてご紹介ください。

阿部:縄文の遺跡群は、シリアル・プロパティーズ(Serial Properties)と言って、ひとつではなく複数の遺跡で構成される資産です。構成資産は17遺跡で、年代的には1万5000年前の大平山元遺跡から2300年前の是川遺跡、資産範囲は北海道の南部から北東北と広範囲です。地域はともかく、年代幅がこれだけある世界遺産はありません。

縄文の一番の特徴は、やはり安定した定住生活が1万年以上続いたということだと思います。この時間幅をひとつの遺跡だけで物語を語ることは出来ません。複数の遺跡で物語を組み立てていくわけです。人類の定住の歴史を考えるときに、縄文というのは採集・漁撈・狩猟で生計を立てていますから、そうするとその周辺の自然環境が大事になってきます。そのなかで、冷温帯落葉広葉樹林という森林のベースがあって、そして海洋では暖流と寒流が交わる地域である。こういう地域のなかでの1万年の人類の歴史、定住の歴史をストーリーとして組み立てています。

1万5000年前に氷期が終わって温暖化が始まり、東日本では亜寒帯針葉樹林が落葉広葉樹林に変化し、海水面も上昇します。それまでマンモスなど大型の草食獣を獲っていた人たちが今度は周辺の森や海、川から食料を得るようになります。つまり、氷期には食料が移動していたので人間もそれに伴って移動していましたが、気候変動によって温暖期に変わると、森が茂り河川が発達し、海水面が上昇し海岸では貝や魚が獲れるようになります。

そうしたときに、人類は海岸の方へ移動していきます。北海道の例ですと、旧石器時代は海岸線から40~50キロ離れた内陸に遺跡があります。しかし、縄文時代の早期になると1キロ以内のところに遺跡が移動していきます。それが中期になり遺跡が増えてくると、今度は山の方に広がっていきます。このようなことから、人間は自然のなかで生かされているということを17の遺跡で伝えられたらと考えます。こうした人間と自然の関係を伝えることも世界遺産の価値なのだと思っています。
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  • 2023年09月21日(木) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『土偶について vol.3』土肥 孝


 では、そういう土偶というのは、一体いつ作られるのかということを、つい最近本にも書きましたが、国宝の縄文ビーナスにしても、縄文の女神の土偶にしても、葬られる人ができたからといって、突然に作ったものじゃないだろうというのが私の考え方です。こういう土偶というのは墓に葬られるために前もって用意されていたと・・・。それを考古学的に証明できるものは一体何かということで挙げたのが資料にある土偶と土製品の出土状態(図7)です。

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ここに竪穴住居が平面形で描いてありますけれども、ちょうど下の所にHの字のように書いてある所がありますが、これが住居の入口です。この合掌土偶は、建物入口の入った奥の正面の所から落ち込んだ状態で出ています。それともう一つ、この土偶は、かつて縄文時代に一回ないし二回割れています。割れた所をアスファルトで接着しています。この家の中で、ある段階で壊れて、そこに居た人によって接合されている。そこまでして、ここまでもっていた土偶です。壊れたから捨てたのではなくて、壊れても直してまでもそこに置いておいた。それがこの住居の廃絶と共に、落下してそこで割れて、発見されている。これはまさに、この状態で土偶が一体どういう状態で置かれていたのか、墓に入る前の一つの予想を示しているのであろうと思うわけです。それともう一つ、これは土偶ではないのですけれども、それと同じようなことがいえるのが、中空の動物形土製品なのです。この墓標になった動物形土製品、これは北海道の美々(びび)という遺跡で出た、海獣形土製品と言われているものです(写真15)。

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これまで北海道の人はオットセイやトドといった海獣形と言っていましたが、私は空を飛ぶ鳥だろうというふうに見ています。この復元図(図8)は、穴のあいている所に棒を立てたらこういうふうに立ちますよというものです。

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要するに木の棒を二本立てて、上の1個あいている所にもう一本棒を立てると、このような状態で立ちますと。この美々のものはお墓の盛り土の中から出てきています。墓を建てた所に墓標のように立てていたものが崩れて盛り土の所に落ちた状態です。もうひとつ、右側に書いてあるのは東北原(ひがしきたばら)という遺跡で、これは今でいうさいたま市、昔でいう埼玉県大宮市ですけれども、そこの所の竪穴住居から出た亀形と呼ばれている土製品(図8)です。これは亀形ではないと思いますけれども、よくご覧になっていただくと分りますが、左側に穴が2つあいていて、右側に穴が一つあいている。この穴のあけ方というのは、北海道の美々の穴とあける数やあけ方は同じですが、位置は違っています。それを復元するとどういうことになるかというと、大宮の東北原の方は二本の棒で立たせますが、美々の方は上に一本棒をつけた形で三本立たせるという状態で、これはまさに、空を飛ぶ鳥のイメージです。ところがこの東北原の第二号住居址から出た亀も、私はいろいろな動物の要素を複合したもので、棒で立たせるために作ったものだろうと考えています。さて、この二つの共通項は何かというと、立たない、ということです。どうやっても地面の上に立たない。では地面の上に立たなければどこに立つのか、それはもう当然地面の上じゃない。だとしたら、木に刺せば立つだろう、そういう考え方で復元したのがこの図面(図8)です。実はこれが鳥であるとすれば、縄文時代の終わりから弥生時代、あるいは古代にかけて何が起こるかがこの形を見れば分ると思います。これはまさに古代の神社で言われている鳥居というものです。よく考古学で弥生時代の人が、鳥は神聖なものでそれは大陸から来て、それが鳥になったのだろうと言います。しかし私はそうではなくて、縄文時代の後期の北海道で、鳥というものに対する土製品としての概念をもっているだろうと思います。これは土偶とは言えませんが、動物を写す、要するに動物偶とでもいうのか、動物形土製品とでも言うのか、そういうものを作るときに土偶と同じ意識で作っている。では、なぜ鳥をモデルにするのか。これは勝手な推察をすればおそらく人間が持っていない能力を鳥は持っているから・・・。まず空を飛ぶ、そして空を飛ぶことから考えることは、時を超えて行くという考え方です。要するに自分の視野の中から消えてしまうものが鳥であると。時空を超える表象として鳥というものを死者のモデルに使ったのであろうと思います。それがその後の鳥居というものになっていくのだろうと私は考えています。その東北原の亀形土製品というのは方形の竪穴住居があった、平面形の一番左側の壁の下から出てきています(図9)。

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この堅穴の入口は右側の太い穴が三つあいている所です。すなわちこの亀形土製品もこの合掌土偶と同じように、入口の入った一番奥の所に置かれていたものであると考えられます。合掌土偶の方はどうかといいますと、このように一番入口の奥まった所に置かれていたものが転落して出土している。それで中ッ原、あるいは棚畑のように墓に副葬される、あるいは合葬されるという状態を取っている。この亀形土製品も、どうかというと家の一番奥まった所にあって、それが北海道の美々遺跡のように墓に使われる可能性があった。墓に副葬される土偶あるいはそういう土製品というのは、その墓に葬られる人が亡くなるまで家の中で保持されていたということです。これは亡くなる人がここの主かどうか、それはまた難しいところですが、仮にこれは亡くなる人の持ち物として考えるならば、当然墓へ持って行くものという形でとらえている。縄文時代の後期あるいは晩期の社会で、死という事態が起こる前に、そういうものが準備されているということです。ということであれば、やはりその死に対する意識、あるいは副葬品というもの、あるいは死の差別、さまざまなそういう縄文時代の社会というものを特に縄文時代の後半の土偶というものは表象しているだろうというふうに考えています。ではそのターニングポイントはいつなのかということになると、難しいですが、棚畑という所で土偶を寝た物から立たせる、その段階で様々な変容が起こるのだろうと思います。立たせることによって死の土偶にもなる。あるいは誕生の土偶として継続するものもある。そういうふうに変わって行くのだろうと思います。それともう一つ、山梨県の釈迦堂という所で、土偶が1300個ほど出土していますが、そこでは全部土偶が壊されています(写真16)。

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だからといって土偶は壊されるものだという一律的な考え方ではいかんだろうと思います。確実に完全無欠といえるのは長野県の縄文のビーナスと仮面の女神の二つです。また、著保内野の土偶は欠けていますが、合掌土偶は欠けてはおらず、ほぼ完全無欠です。したがって、土偶というのは壊される運命で作られたという理論は一時期には成り立つかもしれませんが、縄文時代全てを通してみると、そういうものではないと思います。その縄文時代という中で、人を象るという制作動機というのは、誕生でもあり、死でもあり、副葬品でもあり、あるいは墓を飾る墓標であり、さまざまなことで彼ら・彼女らが作ったということです。ですから土偶というものは必ずしも一つの動機で、縄文時代の土偶というのはこういうものですよというふうに語れるものではないということです。それがやはり土偶を語る上で一番大切なことだと思います。
 さて、縄文時代が終わると同時に農耕が受け入れられ、それによって土偶も消えてしまいます。一体、縄文時代の特質というのは何なのか、それから縄文人の顔は表現出来なかったのかを考えていきたいと思います。一番生々しいものは、千葉県の中岫(なかのこぎ)という所で土坑の中から、壺を逆さまにして人間の顔を作った人頭土器というのが出ています(図10)。その顔というのはまさに死者のデスマスクをそのまま描いたものであります。それを見たら、ああ縄文人の顔ってこういう顔をしているのかということも分かるくらい、素晴らしい出来です。そういうものがあるので、彼らは人間の顔を描けなかったという事は絶対にあり得ません。作らなかっただけです。特に土偶の顔というものは、リアルには作っていないということが言えると思います。したがってそれは制作動機によって、リアルに作るものではなく、表象的なものとしてその時代々々の制作動機によってバラエティがありました。ですから、中空という中が空洞になるもの、あるいは中が中空にならないで粘土の塊として作るものなど様々です
 この粘土の塊として作るものとはどういうことかというと、その塊の繋ぎを柔らかくすることによって壊し易いということがあります。山梨県の釈迦堂で分析した人が「土偶というのはどうも作る時に壊すことを前提に作っているのではないか」と言っていました。それも一部あるかもしれませんが、完全に全て壊されるためだけに作られているものではないと思います。大事に壊れた物を接着しながらも完全な形を保って、墓に持っていこうという、そういう意図の下に作られた土偶もあるわけです。
 様々な目的で土偶は存在していたと、理解していただければいいのではないかと思います。

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■ 『土偶について vol.2』土肥 孝


これが直接中屋敷から弥生時代の土器の顔を作るものにつながったかどうかは難しいところですが、おそらくそれ以降こういう土偶がなくなってしまうということは、死者に対する容器としての終末を迎えると考えることができます。縄文最後の段階では、基本的には死者の道具になっていて、死者を入れる物としての土偶というふうに変わっている。遮光器土偶というのがありまして、古い時代には、喜田貞吉(きだ・ていきち)先生が、遮光器の真ん中の目に線が入っているので、これは目を閉じている形で死者の表情ではないかということをおっしゃっていました。私も数十年たって、たぶん遮光器というのは死者だろうと書いたことがありますが、そのとき注目したのは、頭についている角です。今度の国宝になった著保内野もそうですが、頭のところに2本角のようなものがついていて、少し鉄腕アトムのようにもみえます。では、その角が一体何を表しているのかといえば、死者を葬るときに髪を束ね紐で結んでいたことを示していると考えられます。今から十何年前に書いたのですが、その後の平成5年か6年頃に、北海道の恵庭市にあるカリンバ遺跡から漆の櫛が約十数枚、ひとつの土坑から出てきたということがあります(写真10)。

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この出土状態をたまたま見ることができたのですが、どうも櫛は前と後ろに、死者の頭に重ねてつけている。要するに髪の毛が束になっているところに、前と後というようにダブルの形でついている。そういう状態の死者が出てきました。その櫛の表現というのは、関東の土偶の中では、ミミズク土偶といわれるものに随所に見られます。それは、よく見ると上下に櫛を刺した状態で土偶が描かれています。すなわちカリンバ遺跡の墓の中の死者への櫛の刺し方と、土偶に描かれている櫛の刺し方、あるいはそこに紐が出てきていますが、その紐が髪の毛を束ねて角状に仕上げる輪を表現しているとすれば、すべて死者の髪型、表情を表しているのではないかと考えられます。よって、縄文時代の晩期の東北・北海道の土偶は、大多数が死者を表現しているのではないかと。特に遮光器土偶はほとんどそうだと言えると思います。縄文時代の終わり、さらにそれより新しい段階で、蔵骨器になるということは、縄文時代の終末の段階では、死者への道具として変容している。ところが、縄文時代の土偶を立たせる意図は、出産形態の反映であり、彼ら、彼女らの土偶を作る関心事は、おそらく人間の誕生にあると思うわけです。縄文中期における土偶を作る制作動機と、縄文終末になってから作る制作動機が、片や誕生、片や死者へと大きく変わっている。ただ、同じ形の土偶全てが、誕生と死に関係しているとは考えていません。各時代、各時代によってその人を描き象った土製品は、それぞれ制作動機が違うのだろうと考えています。そういうことを一番はっきり表しているのは、墓に入れられた土偶です。この図は(図3)穴の中で国宝になっている土偶がどのような出土状態をしたかということを表しています。

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左側が棚畑で出土した縄文ビーナスと言われている土偶、右側の土偶は中ッ原の土坑から出た仮面土偶、縄文の女神と言われている土偶です。この直線距離でわずか約2.5㎞の、ちょうどひとつの谷の西側と東側みたいな形で、対岸にある集落で出た際の出土状態を表したものです。棚畑の縄文ビーナスといわれる土偶は、顔が外を向いています。それと、ちょうどその穴の長軸線に向かってずれた所に置いてあり、土坑の底にはついていなく、若干浮いた状態になっています。ところが右側の中ッ原の縄文の女神は、真ん中の丸く点で描いた場所から、顔を内向きにしながら左手を下につけた状態で、出土しています。これは、土坑、墓であろうという線を太い線で両側に矢印で書いてますが、右側と左側の穴は甕を持っています。その甕が人骨と一緒に出たのは下に書いた北村遺跡という所で、ちょうど網のかかった頭の部分に甕をかぶせたいわゆる甕かぶり葬というものが、この時代の同時期の死者の葬り方であります。したがいまして、この土偶の出る左右の墓は甕かぶりの人骨が埋まっていた可能性が強いのですが、骨がなくなっています。真ん中の土偶を入れた土坑、これは土偶が入っています。この3つの墓はほとんど時間的に同時期ですが、死者の葬り方に差があるということです。右左の両側は、死者の頭に甕をかぶせる。真中の縄文の女神が出た土坑は甕をかぶらせないで、土偶が置かれています(図4)。

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縄文中期の棚畑の土偶は、死者に添えてあった副葬品の土偶であるというふうに考えられます。中ッ原の土偶はというと、明らかに土坑を掘った後にもう一度この中に穴が掘られ、土偶が置かれています。基本的に死者が横に横臥している状態で抱き合った形で埋められていた土偶であり、死者と一緒に合葬されたものであるということです。要するに土偶の置かれ方によって、副葬か合葬かが分かります。この縄文後期の中ッ原の土偶が、特に黒光りをしてお面をかぶっているのに注目しています。お面をかぶった土偶を男性と抱き合った形で埋め、合葬させることは、中期の棚畑の土偶と後期の中ッ原の土偶の違いです。それと同時に少なくとも、後期に関しては同時に甕かぶりのものと、土偶合葬のものが、同じ3つ並んだ墓として出てきます。明らかにこれは死者の葬り方に差があるということです。ひとつは土偶を合葬するということ。あとの2つは死者の頭部に甕をかぶせる。これはほとんど前後して構築された墓で、その中にそれだけの葬り方の差があるということです。縄文社会の後期になると、死者の葬り方の差が明らかに出てくるというひとつの例です。これが初期ではどうだったのでしょうか。おそらく中期でも縄文のビーナスが出てきたのは特別だということになりますが、これを特別と言っていいのかどうかは難しい問題であります。これは土器などそれらの総合的な中で、特別というものをどの様に考えるかということにも関わってくることです。今のところは副葬としてそういうものが出てますよということが言えるわけですが、その死者との関係はどうなのかは中ッ原ほどはっきりは言えない。要するに中ッ原の段階ではおそらく生身の男性と、仮面をかぶって表情を隠したバーチャルな女性が抱き合うように埋められているという形です。そして、縄文時代の男女合葬というのはあったのかということになると、縄文時代の早期に、これが中期までにどういうふうにつながるかというのは難しい問題ですが、早期に若い男女が合葬されている例が千葉県の船橋市の飛ノ台貝塚というところにあります。これはひとつの穴の中に男女が抱き合った形で埋められています(写真11)。

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おそらくそういうひとつのストーリーではないけれども、物語の連続性の中に、このような抱き合う生身の人間と、バーチャルな女性が抱き合うという、そういうものも出てくるのでしょう。そのときに土偶は使われるようになる。まさに仮面をかぶらせるという造形で作らざるを得ない土偶なのだと思います。そののちに仮面をかぶる土偶というのはずっと後まで出てくることになります。ある意味ではきわめて古い段階での仮面をかぶる土偶の状態です。それが縄文時代の後期に出てきて、この土偶はまさに中空の土偶です。この中ッ原の土偶の祖形になるものは棚畑の中空になる土偶のひとつの完成形態だろうと思います(図5)。

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著保内野の土偶というのは、(今年)国宝になった土偶ですが、この中ッ原という土偶が入って著保内野にいくという状態です。すなわち中空のものはある段階で、かなり死に対する道具として意識されているということです。著保内野の土偶は昭和50年に畑の耕作中に見つかったものですが、これはその段階ですぐ出た所を徹底的に調査しています。その結果、これが穴の中に入っていたということがわかったわけです。去年発見地をさらに広く発掘調査した結果、そこが墓域であるということが分かりました。それと同時に著保内野の土偶の推定される出土場所がどういう所かも分かりました。この土偶は底面についたものではなく、要するに浮いた状態で出ているということも推定できました。そこまでいって初めて、この著保内野の土偶は美しいだけでなくて、学術的な価値が担保できます。これは土偶の性格を表すものであるということで、私は国宝に出来るものだろうと考えたわけです。造形的には美しい、だけど出自が分からないというものに関しては国宝としてはふさわしくないと思っています。基本的には美しく、なおかつ出土の由来や発見の由来がはっきり復元されたもの、それによりその土偶の学術性が高められ、それが考古資料である国宝になるひとつの要因だろうと思います。著保内野土偶というのは30年にわたる調査の結果、墓域の中の墓で浮いた状態で発見されているということで、死者を埋めた後で土を入れ、その上に土偶を置いた副葬品だと考えられます。このような土偶を置くスタイルのものがいくつかあります。関東では縄文時代の後期、北海道の場合は後期の終わりくらい、あるいは晩期の最初頭といってもいいかもしれません。北海道の方は若干、死者に対するものの考え方が遅れるとはいいませんが、時間差があるかもしれません。ということで中空土偶というものが、かなり死者に関係するものではないかといえるわけです。それともうひとつ、2番目のL型に脚部を折るという土偶のたたみかたの中で、最後に風張(かざはり)という合掌土偶といわれている土偶(図6)ですけれども、この土偶は、ひざを立ち膝にして、手を合わせています。

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これは合掌手と言っていますが、解釈は二つありまして、手を両側で合わせているという説と、アーメンのように握る表現だという説の二つがあります。一応一般的に合掌、合掌と言っているので、合掌と言いますが、手を合わせるというよりもどうも手を握っている形で、ちょっと力んでいる形であろうと私は思います。ただそれが何を意味しているかはとても難しい問題です。この土偶に関しては、お面をかぶっていることはまず間違いないでしょう。お面をかぶった一番古い形というのは中ッ原の土偶で、三角形の顔でまさに側面から見たらお面をかぶっている状態が表現出来ています。ところがこちらの風張の土偶も横から見ますと盛り上がっている状態ですけれども、何よりも目と鼻と口にかかれている形のこれと同じものが、岩手県の八天遺跡(はってんいせき)で耳・鼻・口型土製品(写真12)として見つかっています。

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耳とか鼻とかが出ているので、これはおそらく皮とかお面に付けたパーツであろうというふうに考えています。そのお面につけたパーツがそのまま風張土偶の顔には描かれている。お面をかぶった仮面土偶というものも、ある段階でそういった情報が各地に伝わるのでしょう。お面をかぶるということは、表情を隠すということだと思います。日本のひとつの伝統で、神様は怖くて描けない、というのと同じような状態なのかもしれません。そういった意味では、やはり女性の表情を生々しく描くということを縄文はしません。日本では約1万7000個ほど土偶が出ているといいますが、生々しい顔を描いたものというのはほとんどありません。ほぼ、造形としては定型的な形のものが多いということが言えます。それと同時にお面をかぶっているもの、それが大半です。表情が違うにしても、それは作り手の描き方であって、目の吊り上がり方、鼻の上げ方、全て共通項として挙げられます。そういう事から見ていくと、土偶の顔面の様相というものは真実を伝えているというふうに思います。それはひとつの定型的なものとして何かの共通認識の下に作られているものです。それが縄文時代の中での造形のあり方として捉えられます。もうひとつは、今これは非常に議論になると思うのですが、著保内野という土偶がお面をかぶっているのか、いないのかということです。私は簡単にお面をかぶったというふうに見たのですけれども、これはお面ではなくて、その表情を表しているのではないかという言う人もいます。今後は仮面土偶についても、どう考えるのか突き詰めていかなければいけないと思います。土偶というのは正直言って人によって好き嫌いが沢山あります。私は一番前衛的なものとしては、群馬県の郷原という所で出たハート型土偶(写真13)であろうと思います。

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もう全て顔の形をハートにして、鼻をちょっとつけて目をつけた。それでガニ股風の状態に作ってある。これはまさに先ほど言いました中ッ原の仮面土偶と全く同じ時期です。その時期に群馬県で作られています。それから、この郷原の土偶の手は下に垂れさがっている状態になっています。実は著保内野の両手の欠ける所もまさにこの形です。したがって郷原のポーズと、著保内野のポーズというのは全く同じだと言って良い。そして、頭に角がつく。それともうひとつは、これは最近出たものですが、秋田県の漆下(うるしした)という遺跡で出土した、やはり円盤の上に手を下げた形の土偶で(写真14)、郷原、著保内野と同じ形でした。縄文の終わり近くの土偶というのは、このように同じ表現で作られていたのです。

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■ 『土偶について vol.1』土肥 孝


 函館市著保内野という場所から土偶が出土しました(図1)。その話を含め文化的に土偶とはどういうものとして位置付けられるのか、詳しくお話していきたいと思います。その前にひとつ、土偶は縄文時代にしか作られなかった土製品であること、縄文時代を一番代表する生活用具以外の精神遺物であるということです。

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 私は、縄文時代を狩猟採集生活を基本にした定住社会だったというふうに捉え、基本的に農耕は存在しないと考えています。まず、縄文時代の一番の生活道具は土器です。縄文式土器といわれている土器の基本形は、深鉢の土器です。この深鉢型土器は煮沸だけに使用していました。ではなぜ煮沸だけに使う土器が縄文時代の一番の生活道具になったのでしょう。これは極めて簡単なことです。縄文時代では、食べ物には全て水を使い、その水を煮立てて食物を調理していたからです。この深鉢型土器は、縄文時代を一貫して使用された形であり、調理用具として使われていました。
 まず、このような文化を研究するときは、縄文時代をいくつかに分けることが必要となります。現在は6時期に分けて考えていますが、基準は深鉢型土器の文様を区分することです。文様の変遷の中で、新たに皿や鉢、甕、あるいは注口土器などが出てきますが、その場合、その時期だけ皿や鉢壷を使ったり、甕を使ったりというようなことはしません。深鉢型土器の文様が縄文時代の中でどう移り変わっていくのか、それが考古学の基本的な区分の仕方の根幹です。なぜ深鉢型土器が縄文時代で基本になるかというと、水を介在して食物を調理するというひとつの生活のベースが、縄文社会にあったからです。お米に水を加えて炊くことは、現在も行われていることです。日本にお米が入ってきたのは弥生時代ですが、強飯(こわいい/もち米)は使用せず、姫飯(ひめいい)という柔らかい飯を使用していました。これは水を使った前の時代からの食生活に起因するものだろうと考えられます。それが現在まで、ご飯を炊くという形で縄文時代からの食生活が今もなお伝わっているわけです。
 今度は地球規模で見てみましょう。日本列島は中緯度高圧帯の緯度が中くらいのところです。そこの所にこそ四季があり、その流れの中で暮らしが成り立っています。四季のある場所で一番大事なことは水の確保です。縄文時代と変わらないという視点で見ると、日本列島は、列島の中央部に背骨のように山が長く通っていて、降った雨が海に流れるまでの流路が短いということです。高い所から低い所へ流れる水の流路が短いということは、降った雨がそのまま水として活用できるという地理的な優位性をもっているわけです。縄文式土器は日本で自生したのではなく、大陸から来たものだと思います。この土器が入ってきたとき一番に適応したのは、環境の特性を活かし、水を利用して食物を作ること、熱を加え食料を調理することです。動物の骨や肉や植物、魚、全ての物をその中に放り込み、基本的に汁もののような液体を主とした食生活であっただろうと考えられます。
 また、定住するということは、ひとつのエリアを確保し、集落を維持することが可能になります。そのひとつのシステムとして農耕があります。しかし縄文時代に農耕はなかったのです。なぜならば、農耕に代わるだけの狩猟採集社会があったからです。縄文時代以前も食料と言いながら、動物を追いかけまわしている世界でした。そしてそこに村というものができ、徐々に土器ができることにより定住化が始まりました。私の言う定住社会とは、一人の人間が生まれてから死ぬまでをそこが担保する社会のことです。例えば1年、2年そこに住んでいるというのは、定住社会に含まれません。人間が生まれてから死ぬまでの儀礼、あるいはそれに付属する施設の遺構的研究からいっても、縄文前期から中期以降に定住社会になっただろうと思います。定住形態が狩猟社会の中でできるということは、世界史上においても非常に珍しいことだと思います。「そんなのは赤道直下にも、アフリカにも、南米にもあるじゃないか」という方もいるかもしれません。ただ、基本的に四季の中緯度高圧帯の中での人間集団のひとつのあり方として、縄文社会というのは極めて特殊だと思います。よく民俗誌で赤道直下の人々の狩猟形態を縄文に映して考えようとしますが、それは基本的に考えるベースが違う。要するに四季のあるところ、あるいは水を確保できるという優位性の中でのひとつの社会の見方と、季節のないあるいは水の有利、不利が左右されるような地域との比較というのは単純にするものではないと考えています。縄文社会というのは、世界史上でも珍しい狩猟採集生活を基本にした定住形態であり、その中に土偶というものが出来てきたのだろうと思います。したがって縄文時代が終わった時、米を作る社会になり、食糧獲得が計画的にできるようになって、人を象った土偶というものは消えてしまいました。そういった意味では、社会史学的に狩猟よりも農耕の方が進んだ社会だと言われていますが、そうであるかは少し疑問が残るところです。
 さて、この土偶は、人を象ったものと考えられていて、縄文時代の精神的な土製品として表象できるものです。皆さんもご存じのように土偶は、99%女性がモデルといってもまず間違いなく、男性はほとんど見つかっていません。例えば、考古学で縄文時代における土偶の初期を見ていく場合、その前の時代の人が描いたものは何かということを考えていきます。まず人物を描いたものとして一番古いといわれているものは、線刻礫というものです。これは愛媛県の上黒岩岩陰という場所で発掘し、石に絵が描いてあるということで見つかったもので、女性の髪の毛や乳房が描いてあります。そういうものが全部で10個くらい出ていて、縄文の一番古い段階の隆起線文として位置付けられています。それから土偶として関東地方で一番古いのは、千葉県木の根、あるいは茨城県花輪台のものといわれています。逆三角形のものや、文様の描かれたもの、この写真はバイオリン型の土偶といいます。これらの土偶は、粘土をこねて作り上げて、乳房を強調する、いわゆる女性を表しています。基本的には非常に平板な三角形あるいはシンプルなものの特徴を出すということで乳房をつける。玩具というか線刻礫の方もやはり長い髪の毛と乳房を表している。では、最古の土偶と線刻礫は繋がるのだろうかということになると、考古学的に考えると、まず素材が違います。そしてもうひとつ、これは千葉の歴史博物館の阿部先生が研究されて書かれていますが、線刻礫というのは書いたり消したりするのが特徴であるということです。女性の形を描いたり消したりするということは、反復性があるということです。ところがもうひとつの土偶は、粘土でこねた物を焼き、作り上げたら形を変えることのできない一回性のものです。ですから線刻礫と土偶の基本的な違いは何かと言うと、反復を繰り返しながら描いていくか、焼いて一回で作り終わるものであるかということです。この2つがものの見事に縄文時代の始まりの段階で石から土に変わります。そのときに土器を作る、深鉢形土器を作るという技術を獲得するわけです。土器というのは焼けば一回性のもの、壊れるまでそのままの形を保つわけですが、その縄文土器の器面に描くことで反復性がなくなるということです。文様を描いても焼いてしまったら、形は固定してしまいます。したがって描くということに対する反復性は土器の製作と共になくなってしまう。縄文土器に、絵画あるいは絵というものは、ほとんどないと言ってもいいくらいです。それは簡単に言えば、描く素材が一回性のものに変わってしまうということが、ひとつの素材としての文様、描くことに対しての意識を固定してしまうのだろうと思います。一回性であるがゆえに目まぐるしく模様がころころ変わってしまった、そういうことが言えると思います。
 反復性を持つ線刻礫と、一回性である土偶は、人を描くことにおいては同じですが、素材を変えることにおいては全く性格が変わります。そういった意味で見ていくと、縄文土器はいうまでもなく、一度焼いた土器の一回限りのもの。数百万個という縄文土器がありますが、2つとして同じ文様のものはこの世の中にないということにつながってくると考えています。そういう中で最古の土偶というのは、千葉県の木の根遺跡のもの(写真1)で、平板型です。要するに板のようなものとして、それに人間の女性のシンボルと言うべき乳房とか髪の毛とかそういうものを表現することによって表します。ある意味で顔は描きません。これもいろいろ説はありますが、特に最古の土偶は基本的には顔を描かないのが平板型の一つの特徴です。ただしこれが縄文時代の前期ぐらいになると描くようになり、そこに石をはめたりするようになります。そういうことによって平板型が初期の段階、いわゆる立たないものが立つようになるというような、ひとつの土偶の流れがでてきます。土偶を立たせるということは、板状のものですから平板のものは当然立たないわけです。この立たせようとする時代というのが縄文時代の中期です。ではなぜその時代に立たせようとしたのかを考えていきましょう。土偶を立てるためには、大体6通りのやり方(図2)があります。まず、上の方が上半部で、板状に作る。下の方に6通り描きました。1番目は平板上の上半身に、足を太くして立たせるようにする。いわゆるこれは出尻型という形です。それから、2番目は縄文のビーナスといわれている土偶(写真2)です。立たせるためにどうするかというと、足をL型に折って上半身を立たせる。これは長野県の茅野という遺跡にあります。それから3番目は、脚部を略して、胴部を太くする。これは上黒駒で出土した土偶(写真3)ですが、もしかすると足がついていたかもしれないと言われています。足をつけて復元するとだいたい38㎝。足のところが円盤になっているのではないかという説もあります。ただ、これは下を見ると擦ってありまして、この擦ったのが現代なのか、あるいは縄文時代なのか非常に難しいところです。これを仮に擦ったとすればおそらく上半身だけで立たせようとした土偶であろうと思います。これもある意味立たせる形として、平板状のものを作ったと考えることができると思います。次に4番目には支えをつけている、これは板状の後ろにちょうど、粘土紐をつけて木の棒を差すような、額縁の背中を立てるような形で作るものがあります。東京都北区で出土した縄文時代後期の土偶(写真4)で、ちょうどヤジロベエみたいに、後ろのところで木の棒で立たせる形のものがありました。5番目は板状のものを下を円盤にして、その上に平板状の物を立てる。そういうやり方があります。

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それともうひとつは6番目のように真ん中を空洞化して中空にする。これも立たせる方向として、真ん中をえぐりこむことによって空洞部を作って立たせる。このように6通りに分類できます。そうすると土偶を立たせることは縄文中期から起こることですが、なぜ立たせるのかは、縄文時代の社会を考えていく上で非常に重要なことです。まず基本的には女性がモデルであるということ。それから板状のものを立たせること。例として、きわめて重要な絵画の資料で、長野県の唐渡宮(とうどのみや)という遺跡に、アスファルトで女性の出産風景を描いた土器(写真5)があります。

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それはアスファルトで横に木の棒を渡しておいて、そこのところに両手をついて、立った形で出産している、そういう絵が描かれている土偶が一例あります。それを見るとまさに土偶が立つ段階で、出産の形態は立産の可能性があるということがひとつ言えると思います。平板の場合、どうも見てもまともに置けば立たせることができないわけですから、何を表しているかといえば、横になった状態を表しているのです。仮にその当時の土偶が出産に関するものならば、おそらく平板のものを立たせるということは出産形態の変化を表しているのではないかと考えています。このように何が何でも立たせようとすることが縄文時代の中期には見られ、6タイプの立たせ方が各地域に出てくるわけです。この中で特に重要なのは1番と6番で、脚部を太くし、中身を空洞化した中空にすること。実はこの2つのやり方が一番造形的に土偶の中で優れた形になるのです。この形態で一番初期に出ているのが二つあります。まず、長野県茅野市にある棚畑遺跡から出土した縄文ビーナスといわれる国宝の土偶です。この遺跡できわめて重要な土偶は中を空洞化して作っています。その後につながる著保内野、これも国宝になりましたが、中身が粘土でできている。棚畑遺跡では、中身が空洞になる中空型のものと、そうでないものの2タイプが出現しています。のちの造形の中で最も優れた形というのは、茅野の棚畑遺跡であるということがいえるわけです。そして、もうひとつは、同じ地域で空洞のいわゆる縄文の女神といわれているお面をかぶった真っ黒の土偶(写真6)が出ています。

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距離にして約2㎞しか離れていない遺跡から出てくるのですが、これもまた素晴らしい土偶で、同じ長野県茅野のエリアの中で作られている。ある意味では土偶を立たせようとするひとつの溯源の地というのは、その地域ではないかというふうに考えています。もうひとつ、中空のものというのは実は容器形と言われています。土器の形をした中空のものからくるのではないかという説がありますが、容器形と言われている土偶は全然違うと思います。基本的に容器形土偶ではなくて、土偶形容器と見た方がいいだろうと思います。人の形を象った容器であって、土偶とは全く別のものです。土偶というのはあくまでも人の形を象るということを基本に作るもので、それを別の用具として使うという機能分化はしていないということです。ところが、機能分化が明らかに起こったのは弥生時代です。最新の土偶として、神奈川県の中屋敷(写真7)という所と長野県の渕の上(写真8)という所の土偶を出しています。

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これを土偶と言っていいのかどうかは難しいのですが、実は中屋敷という土偶は考古学的に確認されていましてこの中から焼けた骨が出ています。すなわち蔵骨器です。ですから縄文晩期、あるいは弥生時代の最初頭と言われているこの中屋敷の段階には、人の遺体を火で焼いてその骨をこの壺の中に入れる、そういうことをやっています。これも土偶の延長上として考えるならば、完全にこの段階では死者の骨を入れる容器として変わっていく。ただ、これを土偶と言っていいのか非常に問題がありまして、容器形土偶と同じような、容器ですが人の形を描いているというものがあります。これは土偶の一番最後のものであろうと考えています。さて、この次の段階でどうなるかというと、弥生時代には大きな壺や甕に人の顔をつける人面土器というのを作り出します(写真9)。

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  • 2015年11月30日(月) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

■ 『大森貝塚とモース博士vol.2』  関俊彦


大森貝塚に暮らした人々


モースが発掘した地点

 明治10年9月16日から翌年3月まで調査した場所は、地主の櫻井甚右衛門に補償金50円を東京大学が支払った書類が東京都公文書館に残っていることから確認できます。
 現在、≪大森貝塚≫碑が建つ一帯、東京府荏原郡大井村2960番地字鹿島谷(品川区大井6-21)です。しかし、地表に散っている土器片や貝を拾った地点は多くあったことから、大森貝塚を点ではなく、面でとらえたほうがよいです。
 人々が生活した場、遺跡は広く、大田区内にある≪大森貝墟≫碑やJRの線路敷地も含まれます。というのも、昭和40年代前半ごろまでは各地点で土器片や貝殻を見かけています。

貝塚をとりまく自然環境

 大森貝塚のある台地は海抜13から14m前後で、人々が住み始めた4240年前(紀元前2290年)頃は、台地の近くまで遠浅の浜が迫っていました。現在、大田区と品川区との境界になっているラインに沿って、昭和30年代まで小川が流れていましたが、今はコンクリートで覆(おお)っています。その水源は西大井2の原(はら)の水神池で、こんにちも湧き出ており、この小川を大森貝塚の人たちは飲み水や木の実のアク抜きのために水さらしに使っていたことでしょう。また、JRの線路東側の崖下(がけした)にも伏流水が今も湧いています。
 大森貝塚がある地点は、武蔵野台地の東南部、荏原台の東端にあって北に立会(たちあい)川が、南には内川と呑(のみ)川が流れ、南北にある台地が接し、付近には枝状の小さな谷がいくつもあり、起伏(きふく)に富んだ地です。
 この地形は動物や植物が生育するにふさわしく、シラカシ、アカガシ、スダジイ、タブノキ、ヤブツバキといった常緑広葉樹の森が広がっていました。
 このうちカシ類(アカガシ、アラガシ、イチイガシ、ツブラジイ、スダジイ、マテバシイ)は、サポニンやアロインなどの渋味を水にさらすだけでとれます。
 大森貝塚周辺では落葉広葉樹のクヌギ、カシワ類が繁り、これらの実を製粉し、加熱処理と水さらしで強いアクを抜きました。
 いわゆるドングリとよばれる類は、石皿と磨(す)り石を使ってくだき、粉にし、それを土器に水を入れ、手で混ぜ、デンプンを沈殿(ちんでん)させ、上澄(うわず)みを何回も捨ててアクを抜きます。アク抜きには、貝塚のそばを流れていた小川を利用したと思います。
 大森貝塚の人たちはクリやドングリといった木の実を主食としました。アク抜きした粉をジネンジョと捏(こ)ね、それをクッキーやクレープ状にして焼石の上にのせ焼いたり、貝類や海藻(かいそう)を入れ、スープにしたりして食べたことでしょう。
 大森貝塚の人々は、9月下旬から10月上旬はドングリ拾いを家族全員でおこないました。9月上旬にはドングリの木の周囲の草を取り、いわゆるムシロを敷き、採集しやすくする準備など、働きづめでした。彼らはドングリを全部拾わないで、それを好むイノシシ、サル、リス、それと新しい生命を生む木のために残すというおもいやりをいつも持っていました。相互扶助(ふじょ)の心を親はドングリ集めをする子供たちに教えたことでしょう。

大森貝塚の人たちの生活用具

≪石製品≫
 打製石斧(分銅(ふんどう)・撥(ばち)形)、石棒、石剣、石皿、砥石(といし)、石鏃(せきぞく)
≪角骨牙製品≫
 釣り針、ヤス、銛頭(もりがしら)、牙鏃(がぞく)(イノシシ製)、へら状骨製品、錐(きり)(イノシシ犬歯(けんし)製)、刺突(しとつ)具、角製彫刻品、犬歯穿孔(せんこう)品(犬)
≪貝製品≫
 貝輪、貝刃(かいじん)
≪土製品≫
 土版(どばん)、耳栓(じせん)、土製円板、蓋(ふた)状土製品、小型土偶、紡錘車(ぼうすいしゃ)形土製品
≪土 器≫
 後期(4420~3200年前頃:紀元前2470~1270頃)
 晩期(3220~2730年前頃:紀元前1270~780年頃)

・大森貝塚のムラ

 現在のところ≪大森貝塚≫碑のある地点より高いところから、地面を30㎝前後掘り込んでつくった竪穴(たてあな)住居の跡が6軒見つかっています。このうち2軒は方形をしていますが、他の住居は壊されており、形がつかめません。
 4軒の住居跡は、3820から3470年前頃、1軒が3470から3400年前頃です。この家に住んだ人々は、大森貝塚が繁栄をきわめた時期に暮らしていました。1軒あたり4から6人ほど、ムラ全体でも一時期に30人くらいが生活していたと推測されます。

大森貝塚の特徴

・大森貝塚の人々は、眼の前に広がる穏やかな海を見る海抜13から14m前後の台地に約1000年間住み続けました。
・彼らは潮が引くと女子供らが浜に出てハマグリやアサリや海藻を採取しました。
 男たちは丸木舟を沖に漕ぎ出してアジを捕獲しましたが、3200年前頃から捕れなくなると、体長30㎝前後のスズキやクロダイなどを釣ったり、ヤスや銛(もり)で突いたりしております。この漁は2700年前頃までおこないました。
・秋になると男らはシカやイノシシを射(い)るために出かけ、最も多く捕まえたのは3680から2850年前頃でした。
・大森貝塚が活気にみちた3820から3470年前頃は、加曽利B式という土器をつくった時代です。
・大森貝塚の人たちは丸木舟を内湾沿いに漕ぎ出し、現在の利根川下流や霞ヶ浦のムラと交流したり、あるいは銚子あたりから漁撈民の小集団が移り住んだりしたとも推測できます。
 それは土器や釣り針などに共通性が見られるからで、さらに仙台湾岸でつくられた土器か、それを模したものが出土している点からです。
 神奈川県西部のムラとも交流していたらしく、土器のデザインに類似性がうかがえます。
 いずれも出土例は少ないですが、東西地域と接触が活発だったことが、大森貝塚が長く繁栄していた要因ともいえます、
・大森貝塚のたそがれは、2950年前頃から迫り、2730年前くらいにはピークになったとみえ、この期間に人々の願いを託(たく)したと思われる土版が6例も出ています。普通、この時期のムラからは1つ出るか出ないかです。
 大森貝塚は一部しか発掘されていないのに、土版が多く見つかっています。ここが東西地域をつなぐ有力なムラだったといえます。

縄文人からのメッセージ

・縄文人は動植物をはじめ、生き物を自分たちと同じ仲間という意識がありましたので、必要以上のモノを手にしませんでした。それはやさしさとおもいやりのあらわれといえます。
・彼らは海、森、山、川、大地といったものによって生かされているというおもいを強く感じていたことでしょう。そのために、これらに畏敬(いけい)の念を持っていました。だからこそ、人と自然が共生できたのです。
・人と争うのを嫌(きら)い、互いに助け合って苦難をのりこえました。これは自然を侵略しないことにも通じます。

モースに学ぶ

・モースは、小中学校も卒業できず、先生から問題児あつかいされていましたが、少年の時に興味を持った腕足(わんそく)類の採集と研究を一生続け、名門の大学や博物館の要職に就きました。
・長いあいだシャミセンガイを調べ、日本に多く生息することを聞くや、旅費のために1年間猛烈に働き、来日する情熱と探究心は40歳になっても変わりませんでした。
・彼は科学者として日本と日本人をとらえています。視線は低く、あらゆるものに好奇心をそそぎ、広く深く観察し、分析し、記録しました。スケッチすることで、日本人の繊細な心や美を読みとり、彼を感化させ、この国に強い愛情を抱き、価値観を変えたのです。
・明治という新しい時代の流れに取り入れられず、消えゆく伝統品を買い集め、そのコレクションを後世に残し、多くの人々に日本人の心を知ってもらおうと、ボストンやセーラムの博物館に寄贈し、公開しました。日本文化のすばらしさを見抜き、その保存を実行した人物です。
・モースは日本人の考古学・人類学・動物学・生物学・博物館学の礎(いしずえ)を築くとともに弟子を育て、学問に科学精神を植え付けました。
・親日家の先駆者としてボストンを訪れる研究者をあたたかく受け入れ、日米交流の橋渡しを担いました。
・大森貝塚の発掘状況やダーウィンの進化論など、いちはやく学問の成果を市民に還元しました。

文化財の活用

 国史跡≪大森貝塚≫の名は広く知られておりますので、これを地元は、どう活用し、歴史や文化財を一般人に関心を持ってもらうかという案を掲げますので、ご検討ください。

 南から北へ。大森郵便局-善慶寺(義民六人衆の墓)-熊野神社-薬師堂(桃雲寺) -望翆楼跡-山王遺跡-大森ホテル跡-射的場跡-大森テニスコート-八景園跡-天祖神社-大森駅-大森貝墟碑-日枝神社-円能寺-大森貝塚碑(大森貝塚遺跡庭園) -鹿島神社-品川歴史館-来迎寺-西光寺-古東海道-光福寺

・私たちが後世に残すモノは≪文化≫です。そのためには行政単位を超えて考えるのが望ましいです。

≪歴史・文化の道≫ ≪ヒストリー&カルチャー・ロード≫など、親しみある名称をつけるとよいですね。

付記 大森貝塚を調査したシーボルト

 モースは『日本その日その日』の中で大森貝塚を「誰かが私より先にそこへ行きはしないか」と書いています。その人物とは在日オーストリア・ハンガリー帝国公使館の通訳ハインリヒ・フィリップ・フォン・シーボルト(1852~1908年)で、幕末に西洋医学などを広めた大シーボルトの次男です。
 モースが大森貝塚を発掘した明治10年にシーボルトやエドムンド・ナウマンらが大森貝塚を調査して、土器や石器をヴィーン民族学博物館に送っています。これを確認したのはボーン大学のヨーゼフ・クライナー教授です。
 残念なことにハインリヒは大森貝塚の報告をしておりません。しかし、明治12年に日本語で『考古説略』というヨーロッパにおける考古学の研究法を紹介した著書を出しています。同年、ヨーロッパの考古学者を対象とした日本考古学の概要を記した書 Notes on Japanese Archaeology with Especial Reference to the Stone Age 『先史・原史時代の日本』を刊行しました。
 当時、欧米の研究者に日本文化を紹介したモースとハインリヒは顔を合わすことなく、2人の運命を大きく変えさせたのが大森貝塚でした。
 それは≪大森貝塚碑≫と≪大森貝墟碑≫の存在を思い起させます。それは互いを触発させたのです。

本文に用いた図はエドワード・エス・モース(矢田部良吉口訳・寺内章明筆記)『大森介墟古物編』1979年、東京大学。Money Hickman and Peter Fetchko; Japan Day By Day. An Exhibition Honoring, EDWARD SYLVESTER MORSE and Commemorating the Hundredth Anniversary of His Arrival in Japan in 1877. 1977. Peabody Museum of Salem.
石川欣一訳『日本その日その日』全3巻。1970年、平凡社。関俊彦編『大森貝塚-大田区史・資料編、考古Ⅱ-』1980年、大田区。関「採集狩猟社会での女性」『史誌』30号。1988年。関「ハインリヒ・シーボルトと日本」『歴史と人物』141号、1983年。

関 俊彦(せきとしひこ)

 これまで学習院、青山学院、武蔵野美術大学で日本と外国の考古学、日本文化史を講義するかたわら、ネパールのチラウラコット遺跡(釈迦が青年期まで過ごした地)、ミクロネシアのファウバー遺跡(17から19世紀の高地性集落)、ハワイ島のマウアケア鉱山跡(カメハメハ王所有の石斧製作地)、マルタ島巨石神殿跡(世界最古の巨石記念物)、ベトナム・ホイアン(17世紀の日本人町跡)、国内では神奈川県潮見台、神庭(かにわ)その他の遺跡の発掘と調査をおこなう。

―著 書―
『弥生時代文献解題』全5巻(小宮山書店、東出版)、
『東日本弥生時代地名表』全3巻(小宮山書店、東出版)、
『弥生土器の知識』(東京美術)、
『平原先住民のライフスタイル』、『カリフォルニア先住民の文化領域』、
『サンフランシスコ湾岸部の先住民』、『カリフォルニア先住民の文化』(以上、六一書房)
―共 書―
『潮見台遺跡』(中央公論美術出版)、『長尾台遺跡』『東神庭遺跡』『神庭遺跡』(以上、東出版)、
Preliminary Archaeological Investigations on the Island of Tol in Truk』(Azuma Press)、
『日本考古学の視点』(日本書籍)、『日本史の基礎知識』(有斐閣)
『考古学の先覚者たち』(中央公論社)、『関東の考古学』(学生社)
『大森貝塚』(大田区)

―訳 書―
『考古学の基礎知識』、『考古学への招待』(雄山閣)、
『人類学としての考古学』、『考古学ハンドブック』(六一書房)

 現在の研究領域は、日本人と先祖を同じくする先史モンゴロイドとその子孫らのライフスタイル(北アメリカ、オセアニア)、新石器時代の巨石記念物。
 大田区史編纂専門委員として20年余にわたり『大田区史』『史誌』の執筆と編集をおこない、地域ボランティアとして大森貝塚保存会で50年余り活動する。

・大森貝塚とモースに関する著作
「大田区の遺跡(1)日本考古学発祥の地-大森貝塚-」『史誌』1、1974
「公開された≪大森貝墟の碑≫」『考古学研究』24巻3・4号、1977年
「大田区の遺跡(8)大森貝塚発掘100周年」『史誌』8、1977年
「エドワード・S・モースの素描」「大森貝塚とその時代」、『大森貝塚発掘100周年』大森貝塚保存会、1980年
「大森貝塚の土版について」『史誌』13、1980年
「大森貝塚に生きた人びと」、「大森貝塚の研究をかえりみて」『大森貝塚、大田区史(資料編)』考古Ⅱ、大田区、1980年
「大森貝塚の安行式土器(1)」鈴木と共筆、『史誌』17、1982年
「大森貝塚の安行式土器(2)」鈴木と共筆、『史誌』18、1982年
「大森貝塚の安行式土器(3)」鈴木と共筆、『史誌』19、1982年
「ハインリヒ・シーボルトと日本」『歴史と人物』141、1983年
「エドワード・S・モース論」『縄文文化の研究』10、雄山閣、1984年
「東京都大森貝塚-近代日本考古学の出発-」『探訪・縄文の遺跡-東日本編-』
有斐閣、1985年
「ハインリヒ・シーボルトと日本考古学」『考古学の先覚者たち』中央公論社、1985年
「縄文時代」『大田区史』上巻、大田区、1985年
「モースによる大森貝塚の発掘とその後」『都市周辺の地方史』、雄山閣、1990年
「考古学とモース―日本考古学の先駆者―」『関東の考古学』、学生社、1991年
「大森貝塚」『郷土・東京の歴史』ぎょうせい、1998年
「シンポジウム―大森貝塚の歴史と現在―」『品川歴史館紀要』18、2003年

  • 2015年11月05日(木) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ | Edit | ▲PAGE TOP

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