International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 縄文旅行記 小松忠史(国際縄文学協会会員)


九州 鹿児島・種子島 考古学の旅   

5月10日、午前4時起床、愛犬金太の散歩から忙しい一日が始まる。犬も犬ゲンな顔つきでついてくる?いつもの朝より1時間半も早い散歩であるから。5時47分江戸川駅発、7時30分羽田の集合場所へ行けど誰も見えずあわててゲートへ。荷と身体チェック、金属探知機を何度潜ってもピーっと鳴る。ベルトも外すがダメ?衆人が見ている中恥ずかしさが募る。時間が心配になり腕に目を落とす。アッ、これだ!慌てて外しやっとパス。衆人の中、誰も気が付かないなんて…。鹿児島上空、黄砂か火山煙か、かすんで地上が見えないが無事着陸。一休み後プロペラ機で種子島へ。やはり地上は霞んでいる。出迎えの南種子島町教育委員会、石堂和博学芸員の案内で考古学ツアー見学へ出発。初めに立切遺跡、大津保畑遺跡へ。旧石器時代の遺跡で3万3千年前の遺跡が出土している。この遺跡の発掘は当初縄文早期の調査が主だったそうで、なんとなく試し掘りをしてみたところ、偶然にも旧石器遺跡物包囲層にあたったとのこと。表土から3メートルの所、種Ⅳ火山灰層(約3万9百年前)の下から、スリ石、たたき石、台石、石斧、礫群、焼土、土坑がセットで発見されている。調理用加工具や調理施設がそろって出現した遺跡としては、国内最古を誇る。私も初めて知る。これらの遺跡では細石刃も発見されているが時代は下り(約1万年3千年前後の時代)と成り、本土九州と全く変わらない形状をもつ。石材も大分産の流紋岩と思われ、こんな時代から九州東南部地域と交流していたことは驚きである。しかし旧石器時代に北海道の白滝・置戸の黒曜石が大陸の沿海洲やシベリア、バイカル湖まで運び込まれていたことを考えると、ごく当然のことと思う。古代人は現代人が考えるより遥かに広範囲に行動をしていたことの証明である。

 正午になり昼食のため郷土料理「みのきち」へ。何を食したのか?思い出せない。料理の味も?これがボケ老人の証しであろう。

 午後から南種子町郷土館へ。玄関付近にガジュマロの木に似た榕(アコウ)の大木が座しており皆さんが注目。何でも神の宿る神木だそうで、そまつにしてはならないと説明を受ける。此々は廃校を利用した資料館、で少々お粗末であるが「藤平小田遺跡・縄文後期の出土品」が展示されている。次に南種子町郷土館分室(病院の廃墟)へ行き「重文広田遺跡出土品」展示を見学、弥生時代後期~古墳期にかけての埋葬跡から150体の人骨や山の字の貝符・貝輪多数が出土、国の史跡に指定されている。少々ひんだれ(くたびれ)もした!次に県史跡横峯遺跡(旧石器期、縄文草創期、早期)とアカホヤ火山灰、AT火山灰の露頭地を見学し、宇宙センターを見学。道々コリア衛星打ち上げ歓迎のノボリが見られ打ち上げの近いことを知る。道の両脇所々ではあるが、ハイビスカス、黄花コスモス、サルビアとか、ブーゲンビリアなどが咲き、また道路両脇に蕾をもった紫陽花が多く見られ、南国に相応しくないなぁという思いで見ていた。そのうちに宇宙センターの展示ロケット(ミュージアムショップ前)が見えてきた。車を降り前方に広がったグリーンと長く白い渚が岬に続く、何とも美しい風景が展開している。竹崎海岸という所で、初めての頃のロケット発射場とのこと。歩を進め、横たわった巨大なロケットの前で全員集まって記念撮影。その後ミュージアムに入り三々五々と買い物をして今の吉信発射場へ、展望台からの遠望となる。本来はもっと近くで見られるようだが、今(18日)H2Aで韓国の多目的観測衛星アリラン三号(商業受注は初)打ち上げのため、眺望ができないとのこと。ここを後にして広田遺跡へ。弥生後期~古墳期の埋葬遺跡で150体を超える人骨、4万4千点以上の貝製装身具、他にガラス小玉、管玉、壺などが出土。出土製品から南は奄美、沖縄と北は九州本土との交流が盛んであったと推測される。

 他の弥生、古墳も同称で、いずれの遺跡も海岸線の海が眺望できる立地にあり、そのことが何を意味しているのか?琉球諸島には「ニライカナイ海から幸福がくる」との思想があり、死しても海からの幸せを求めて、このような場所に葬られたのではないか。遺跡を後にして今夜の宿コスモリゾートたねがしま、へ到着。このホテルはゴルフのクラブハウスで職員は男性ばかり、出迎えのあいさつもなく殺風景。しかし周囲はグリーンで美しい!各自夕食まで休憩や風呂へ。6時30分から石堂学芸員を囲んで夕食。自己紹介質問で時が過ぎお開き。各自部屋に戻り私はあっという間に夢の国へ。

 5月11日は朝食を済ませ8時50分ホテルを出発。鉄砲館見学。種子島鉄砲を初見。日本の中世の戦を変えた原点で歴史を変えた源でもある。ここで主催者スタッフの根本氏とお別れ、彼は一足先に東京へ。

 次は埋文センター調査室の沖田純一郎氏の案内。最初に案内された鬼々野遺跡(縄文草創期、早期)は現在は畑。大変な土器、石器の出土があり石鏃だけで400点、石斧が40点内、丸ノミ形石斧が13点も出土している。周辺の畑は未発掘で、今後さらに遺物の出土が見込まれるとのこと。つぎに三本松遺跡(縄文早期)、特に注目されるのは大分県姫島産の黒曜石が大量に出土し東九州との交流がうかがえる。さらに、奥ノ仁田遺跡(縄文草創期)、この遺跡で注目されたのは国内初の磨製石鏃である。いずれの遺跡も道路拡張工事に伴う発掘である。次にヤクタネゴボウの木を見学。丸木船の素材になり、種子島と屋久島にしか自生しない松。最後に種子島空港の三角山遺跡の説明を受けて、ここで沖田純一郎氏とお別れとなる。忘れていたが昼食を途中の小さな立山漁港でとる。勝手に荷置き場のテントに入り涼をとりながら折詰弁当をほおばる。

 15時15分種子島空港を離陸、25分で鹿児島空港へ着陸。タクシー移動で一路霧島国際ホテルへ。私にとっては懐かしいふるさとである。ホテルに近づくにつれて湯煙がそこかしこに立ちのぼり硫黄のにおいが鼻をつく。間もなくホテルにつき休憩、入浴。夕食もお終わり部屋に戻ると疲労ですぐ天国?まで早や夢の中へ。

 12日早朝に朝湯へ。7時10分食堂へ行くと満員、空席を探して着席。早々に食事を済ませ帰室し支度。9時ホテル出発。鹿児島神宮に到着。ここで教育委員会の川口氏と上野原の学芸員と久しぶりの新東晃一氏にお会いでき懐かしさでいっぱい。近くの石體神社を参拝。鹿児島神宮を参拝後、神宮脇下にある御神田と田之神様(タノカンサー)を見てちかくの宮坂貝塚を見学(小規模)。町の中の桑幡家(76代目)留守氏、沢氏ともに神宮を守る神官家を見学。次に隼人塚を見学、現在は発掘を終えて三塔と四神像(いずれも石像)が立っている。周囲もマンション、住宅が建ち並び、以前の田園風景の面影は失われている。見学を終え上野原縄文の森へ。何年ぶりの上野原だろうか?すっかり変わった姿になって私の目を・・・・にする!ミュージアムのレストランへ。縄文御膳とやらの食事を新東晃一氏方らを囲んで昼食会。さして印象に残らない料理だった。

 埋蔵文化財センターを見学。なぜか満足感のある展示ではなかった。秋田県大湯や青森県の三内丸山の展示室では遺物中心で満足感がえられたのだが、このような印象は私だけの感情かもしれない。

 間もなく国際縄文学協会主催(九州初)での講演会が始まる。司会は馬場幸平、国際縄文学協会代表理事の西垣内堅佑の挨拶があり、講師として新東晃一(南九州縄文研究会代表)をお迎えして講演をしていただきました。

 講演を終え、新東先生方と遺跡のドングリ形復元住居や地底ミュージアム(住居跡、集石、炉穴などを発掘当時のまま残す)を見学(このシステムは東北遺跡にある藤ノ森地底ミュージアムとそっくり)後、炉で燻製にした卵を頂き食した。なかなかの美味で一息。これで今日の予定を終了。ジャンボタクシーでホテルへ。お二方の先生を囲んで夕食懇会、和やかに歓談して終了。

 お二方をお見送りして各自解散、私は部屋に直行してバタンキュー。

 13日最終日。7時に朝食。高良さんと落合さんとテーブルを囲み食す。8時30分ロビー集合出発、霧島神宮到着。なんと艶やかな社だろうか!階段わき右手の大杉の説明をドライバーの方がしてくださる。見上げてよく見ると小枝がなんと桧の葉で、杉と合体しているとか。また裏手に回って見上げると、心清き人にだけ見えるそうだが、切り枝上に烏帽子を冠った神官が立って見えると。確かに見える!人の知らないことを教えていただき得をした気分。参拝を済ませ孫二人にミニランドセルのお守りを求める。この社は三代目で1715年、第21代島津吉貴公によって再建され寄進されたもの、神仏混合造りの社で左右対称建築、千木は女型切り、祭神はニニギノミコト。少々時間があるのでドライバーのご好意で古社の跡へ案内していただく。人気のない石の鳥居の前で下車。各自、自由に行動する。幅広いジャリ道(旧参道)をひとり進んで行き、つきあたると右に参道が延び、さらに進むと小高い所に鳥居が見え、そこが旧斎宮であった。その後に深林が広がりさらにその奥に擂り鉢状の山系が広がって、なとも厳かな神秘に満ちた雰囲気を感じた。自然と頭が下がり参拝している自分の姿がそこにあった。

 これこそが本当の神を祭る領域で華美な社は不用であると感じた。

 ここから車で20分走ればふるさとが見られるのだが・・・!これで全日程終了。一路空港へ、12時50分鹿児島空港を離陸、無事東京へ。「旅行中はよか天気ごわした。」みなさまに感謝。

  • 2012年05月30日(水) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文紀行記 | Edit | ▲PAGE TOP

■ 縄文旅行記   高良留美子(詩人)


種子島・南九州考古学ツアーに参加して-縄文文化の最先進地-

 去る5月10日から13日まで、私はNPO法人国際縄文学会が主催された表記のツアーに参加した。現地の専門家のご案内・ご教示により、これらの地が日本の縄文文化の最先進地域であったことを学ぶことができた、非常に楽しく有益な旅であった。

・種子島のストーン・サークル

 種子島の縄文遺跡のうち、私が最も興味を惹かれたのは、縄文時代後期に属する南種子町の藤平小田(ふじひらおだ)遺跡であった。半弧状に二列に並んだ配石遺構が検出され、解体された配石は、郷土記念館の庭の屋根の下に保管されていた。一つ一つの石は二、三人がかりでようやく持ち上げられるほどのやや細長い平らな磨石で、石皿も混じっていた。半弧しか残っていなかったのだが、これは南九州には他に例のないストーン・サークルの跡と考えられている。

 サークルの中央からは、日常の土器とは違う、祭祀用と思われる土器が出土した。また近くには、1000個ほどの小石を敷きつめて火を焚いたあとのある、直径2メートルほどの集石があった。サル、シカ、イノシシなどの骨が見つかり、大型土坑も検出されているから、ここで肉を焼いたり燻製を作ったりしていたのではないかという。動物供犠を伴う何らかの祭祀が行われたのだろう。石皿では植物性の食物も調理したと思われる。

 注目すべきことは、この遺跡が西方の屋久島の方を向いていることだ。祭祀は屋久島に向かって行われたと思われる。屋久島に沈む夕日を拝んだとも考えられるが、どういう周期で祭祀を行ったのだろう。冬至や夏至、春分や秋分だろうか。それらの日に夕日だけを拝んだのだろうか。

・月の甦りを考える

 ここで一旦太陽から離れて、月を考えてみたい。月は新月・満月・旧月を経て姿を消し、三日の朔を経て西の空に甦る。月というと満月を思い浮かべる人が多いが、月の信仰にとって重要なのは甦る新月である。今日でも、月の文化を残しているイスラムの人たちは、ラマダン(断食月)の終わりを告げる新月の出現を待ち望む。日本で満月をめでるようになったのは、平安中期以降のことだという。

 縄文後期の藤平小田の人たちは、月の復活を待ち望み、甦る新月を拝んだのではないだろうか。ぜひ現地の方々に観察していただきたいと思う。

 眉月や弓月という言葉があるが、新月は眉によって、また弓によっても象徴される。中国の先民文化について、陸思賢は次のように述べている。「嫦娥神話や先民たちが天象を観測して描いた図像の内容から考えると、先民たちは新月の誕生も祭ったのである。およそ太陽と月は、先民たちが天象を観測して図面に描く永久不変の主題であり、新月は一本の弧線で表し、「月蛾」の美称がある。美女の眉毛も、「蛾眉」や「娥眉」と称される」(『中国の神話考古』(岡田陽一訳、言叢社、二〇〇一年、第四章)。

 今回は現地に行けなかったが、この遺跡から見る屋久島はどのような形をしているのだろう。私は屋久島には山が多いから、三角形ではないかとも考えた。11日に見学した種子島空港の三角山遺跡は、滑走路を造るために残念ながら壊されてしまったが、名前からみても三角の山だったろう。本土の三輪山などの神奈備山と同系統の形である。

 しかしインターネットで検索した、種子島から見た屋久島の姿は、三角形ではなく、あまり深くないスープ皿を伏せた形、つまり眉形をしていた。新月の形である。屋久島は、当時の種子島の人びとにとって、朔のあいだ月を体内に留め、三日後に甦らせる聖なる月女神のような島だったのではないだろうか。

 ちなみに、11日に見学した縄文時代草創期の三本松遺跡の土器の圧痕(土器の中の穴)からは、約1万5000年前のコクゾウムシの痕跡が発見されている。これまでの国内での発見より約6000年も遡る、世界最古の発見である。稲作前のものだから、ドングリなどの貯蔵物に寄生していた可能性があるという(「市政の窓⑧」 2011年5月号)。藤平小田遺跡の縄文後期の人びとは、狩猟採集だけでなく、何らかの初期農業を営んでいた可能性があるらしい。

 狩猟にも周期はあるが、種子をまいて収穫するまで食物を育てる農業によって、人間は周期というものをより明確に意識したに違いない。

・聖なる赤米の伝承

 さて、種子島と屋久島はあまり仲がよくないという。種子島は屋久島を領有し、16世紀には根占勢に奪われた屋久島を武力でとり返している。両島の関係が逆転した理由を考えてみた。

 種子島は677(天武6)年に、本土のヤマト政権に入朝している。天武天皇が二年前に発令した肉食禁止令は、その後も形を変えて繰り返されたから、次第に島内に浸透していったに違いない。動物供犠は狩猟とともに、禁止の対象になっていったと思われる。それは私見では、月の信仰の禁止と抑圧を意味していた。崇拝の対象であった屋久島の地位は、低下していっただろう。

 10日の午後見学した宝満神社の神田は、玉依ヒメによって種子島にもたらされたと伝えられる赤米の田であり、今は耕運機を入れるため船形にしたが、元来は三角形だったと、夕食のとき石堂和博先生からうかがった。三角形は、縄文土偶の女神像の下腹部に数多く見られる逆三角形を思わせる。豊饒多産のイメージであろう。縄文から弥生へ、三角形の意味は変化したと言われるが、ここでは同じ豊饒のイメージが伝承されたのかもしれない。

 そして聖なる血の色をした赤米の伝承……。“赤不浄”の偏見のため、女人禁制にされてしまったが、本来は聖なる血の色をした、聖なる赤米の田だったはずだ。女の子が初潮を迎えたとき赤飯を炊いて祝う風習がある(あった)が、小豆を使う前は、赤米を炊いたという。小豆→赤米→玉依ヒメ→三角形▽→血と遡れば、ここにも女性の血の聖化の一証拠がある。

 だが種子島に被差別部落はない。血の不浄視は受け入れても、動物の屠殺や解体作業を不浄視する偏見は、中央から受け入れなかったのだ。近世以前の東北地方もそうだったが、縄文以来の狩猟の伝統のたまものだと思う。

 はじめて参加した考古学ツアーは、私にとって非常に収穫の多い旅になった。旅のお世話をしてくださった会の方々、案内してくださった諸先生方に、厚くお礼を申し上げたい。

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