International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『大森貝塚とモース博士vol.1』  関俊彦


照葉樹の森と浜辺

 世界の人類史の中で1万数千年にわたり、人間と自然とが仲良く営みを続け、文化を高めた民族はまれです。この文化を生んだ縄文人は、狩猟・漁撈(ぎょろう)・食用植物の採集で食べ物を得ていました。
 彼らの主食の大半は、クリ、ドングリ、トチといった木の実でした。もちろん、季節によっては、イノシシやシカ、サケ、クロダイ、スズキ、ハマグリ、アサリ、カキなどを捕っていました。これら動物や魚介を育むうえで森が大きな役割を果たしております。

 日本列島の植生分布は、大まかに分けると暖温帯と冷温帯です。暖温帯を代表するものはスダジイ、カシ、タブノキ類の照葉樹林で、本州、四国、九州、韓国南端に生育しています。
 照葉樹林地帯には冷温帯のブナ、ミズナラという落葉広葉樹林も混在し、北へ進むにしたがい照葉樹林から落葉樹林へと移ります。北緯37度あたりの関東北部から東北南部にかけてはアカシデ、コナラの落葉樹林の地となります。いっぽう日本海側では、同じ緯度にブナを中心とした落葉広葉樹林が広がります。
 なお、暖温帯落葉樹林のコナラ、クリ、シデの類は、中部から関東北部に分布しています。こうした植生分布は、縄文時代の後期(4420年前頃、紀元前2470年頃)あたりから形成されて現代に及んでいます。
 縄文文化の発展を支えたブナ林に暮らした人々と動植物の結び付きを追うと、人と自然との共生をモットーにした彼らの生き物に対する《やさしさ》と《おもいやり》が感じられます。
 ブナの林は、ブナ、ミズナラ、トチノキ、サワグルミなどが集まった複合林です。この森は、大量の木の実を生み出すため、イノシシ、シカ、ニホンザル、ツキノワグマ、鳥類などが人間同様に実を食べ、よい餌場(えさば)となっています。
 人・動植物にとって欠かすことのできない水、これもブナの森が源泉です。木々は降った雨をためて少しずつ地下に浸透(しんとう)し、湧(わ)き水となって小川になります。森が吸収した水は、太陽が射し込むと水蒸気となり、雨雲となって、再び雨をもらたします。これの繰り返しで、木々は成長します。
 ブナの林には、キノコ、ワラビ、ゼンマイといった山菜(さんさい)が多く生(は)え、縄文人に旬(しゅん)の味をプレゼントしました。ブナの森から流れてくる川の水には、プランクトンがたくさん含まれ、イワナ、ヤマメ、アマゴ、アユ、サケ、マスなどの餌となります。川は大量の土砂を運び、魚介類の棲む場所を広げました。
 大森一帯の海浜は、目黒川や立会川が運びだす大量の土砂によってでき、小魚や貝類が生息するよい環境を整え、人々に海の幸の恵みを与え続けました。

《大森貝塚》碑と《大森貝墟》碑

 大正14年(1925)12月20日、大森貝塚を発掘し、その名を広めたエドワード・シルベスター・モースがアメリカ・マサチューセッツ州セーラムの自宅にて87歳で死去しました。
 東京大学でモース教授の教えを受けた弟子たちは、この訃報(ふほう)を知るや先生の偉業と大森貝塚を後世に伝えようと立ち上がりました。
 モースとともに大森貝塚を発掘した佐々木忠次郎らは、石川千代松、小金井良精(よしきよ)、大山柏(かしわ)といった著名な学者に協力を求めます。この頃の日本は大正12年(1912)の関東大震災、昭和2年(1927)の金融恐慌(きょうこう)に見舞われて、東京では思うように寄附金が集まりませんでした。
 大阪でも日本で最初に発掘された大森貝塚とモース博士を永久に称(たた)えようと大阪毎日新聞社社長の本山彦一(もとやまひこいち)が呼びかけます。本山は、若き日に大森貝塚の出土品を見、そしてモースの学識の豊かさに引き込まれ、各地で発掘を行うほど考古学に熱心でした。
 昭和4年(1929)11月3日、品川区大井6丁目21番地(現在の品川区区立大森貝塚遺跡庭園内)で《大森貝塚》碑の除幕式がおこなわれ、当日は本山彦一、大山柏、小金井良精、佐々木忠次郎ら100余名が参列しました。
 碑のある地は、当時大阪の富豪殿村平右衛門邸があり、線路ぎわの斜面には貝が散布し、ここが貝塚の一部になっていました。
 昭和5年(1930)4月5日、大田区山王1丁目3番(現在マンション)で、《大森貝墟》碑建立の式典が挙行され、当日、佐々木忠次郎は『大森貝墟の由来』という冊子を出席者に配布し、モースと大森貝塚を紹介しました。
 碑は、小林脳行店主の臼井米二郎が佐々木らの要望で、自ら敷地内に建てました。大森貝塚をモースと一緒に発掘した佐々木は、50年経って臼井邸内を訪れ、地形や松の木などの状況から、ここを大森貝塚と判断し、碑を設置しました。

 品川区と大田区側にある二つの碑は、時を同じくして二人の篤志(とくし)家と研究者の熱意で建立されました。この碑がなかったら大森貝塚は消滅していたことでしょう。
 私たちは、あらためてモースと大森貝塚と先人らの偉業を後世に伝えるとともに、21世紀に生きる者として、何ができるか考える必要があります。

モースと日本


モース略年表


1838年(天保9)6月18日 メーン(メイン)州ポートランドに生まれる
1859年(安政6)11月 ハーバード大学アガシ―教授の学生助手となる
1863年(文久3)6月18日 ネリー・オーウェンと結婚(25歳)
1867年(慶応3)5月 セーラム・ピーボディ科学アカデミー創設、研究員となる
1870年(明治3) ピーボディ科学アカデミー退職
1871年(明治4) ボードイン大学教授(~1874)に就任(33歳)
1872年(明治5) ハーバード大学で講義(~1873)
1875年(明治8) First Book Zoology 『動物学初歩』出版(37歳)
1877年(明治10) 4月12日 東京大学設立
 6月17日 深夜に横浜着
 6月19日 大森駅をすぎ、大森貝塚を見つける(39歳)
 6月29日 文部省学監のマレーと日光へ
 7月12日 東京大学教授に就任(契約は2年間)
 7月21日 松村任三と江ノ島で貝採集
 9月12日 東京大学で最初の講義
 9月16日 大森貝塚で表面採集
 10月 9日 大森貝塚を発掘
 11月 5日 横浜を発ち、一時帰米
 11月19日 松浦佐用彦・佐々木ら大森貝塚発掘
 12月20日 明治天皇、大森貝塚出土品を観覧
1878年(明治11年)3月11日 大森貝塚発掘終了を東京府に通知
 4月23日 妻子とともに横浜へ
 7月7日 弟子の松浦佐用彦没
 7月13日 矢田部らと横浜より北海道へ
 8月9日モースの推挙で後任としてフェノロサ来日
1879年(明治12年)5月7日 横浜から船で九州・関西
 8月末 Shell Mounds of Omori 出版
 9月3日 東京大学との契約が満了し、帰米
1880年(明治13年)1月 『大森介墟古物編』矢田部良吉訳
 7月3日 ピーボディー科学アカデミー館長に就任(42歳)
1882年(明治15年)6月4日 ビゲローと古美術収集のため来日(3度目)
 7月26日 フェノロサ、ビゲローと陸路で東海、近畿、中国地方へ
1883年(明治16年)2月14日 単身で中国、東南アジア、欧州へ
 6月5日 ニューヨーク着
1886年(明治19年) Japanese Home and Their Surroundings
 (『日本の住まい』刊行)(48歳)
1890年(明治23年) 日本陶器収集品をボストン美術館に譲渡
1898年(明治31年) 勲三等旭日章を授与
1901年(明治34年) Catalogue of Japanese Pottery
 (『日本陶器コレクション目録』刊行)(63歳)
1911年(明治44年) 妻ネリー没
1914年(大正3年) ボストン博物学会会長に就任
1916年(大正5年) セーラム・ピーボディー博物館名誉館長となる
1917年(大正6年) Japan Day by Day
(『日本その日その日』)出版(79歳)
1922年(大正11年) 勲二等瑞宝章を授与
1925年(大正14年)12月16日 セーラムの自宅で死去(87歳)
1926年(昭和元) 遺言で全蔵書(12,000冊)を東京大学に寄贈

モース収集の主要民具

 来日したモースは眼にするモノ、耳に入る音、すべてに感動し、それらを次々とスケッチしたり、日記にとどめたりしました。江戸から明治へ時代が移り、日本人の価値観も変化し、失われていく品々が店頭に並んでいました。
「この国のありとあらゆるものは、日ならずして消え失せてしまうだろう。私は、その日のために日本の民具を収集しておきたい。」、という考えでモースは集めていきます。
 モースは3度日本を訪れ、収集した民具は680点です。これらのコレクションは、マサチューセッツ州ボストン市の北45kmのセーラム市にあるピーボディ―・エセックス博物館に収蔵されています。展示室に一歩踏み入れると、まるで江戸時代にタイムスリップしたようです。
 陳列品の一部をあげると、正月の注連(しめ)飾り、かるた、こま、凧(たこ)、羽子板、柱飾り、絵馬、迷子札、茶道具、火鉢、海苔(のり)、金平糖(こんぺいとう)、蚊取(かとり)線香、箱枕、行灯(あんどん)、提灯(ちょうちん)、団扇(うちわ)、足袋(たび)、櫛(くし)、釣り針、鋤(すき)、鍬(くわ)、大工道具、墨壺(すみつぼ)、看板(薬屋、絵具屋、団子(だんご)屋、八百(やお)屋)といったように、どれをとっても職人の真心(まごころ)と技(わざ)と感性が投影され、見ているだけで心がときめきます。
 モースは、さまざまな生活用具を集め、日本人と日本を知ろうとしました。

 モースの名著『日本その日その日』から石川欣一訳(石川千代松の子)昭和45年(1970).平凡社
・日本人はとても正直(明治10年6月:横浜)
人々が正直である国にいることは気持ちが良い。私は財布や時計に注意しようとは思わない。私は、錠(じょう)をかけぬ部屋の机の上に小銭を置き放しにするが、日本人の子供や召使いは一日に何度も出入りするのに触れてはならぬものにはけっして手をつけない。
・貧しい人々も、礼儀正しく、思いやりをもつ(明治10年6月:東京)
 簡素な衣服、整頓(せいとん)された家、清潔(せいけつ)な環境、自然およびすべての自然物に対する愛、簡素で魅力的な芸術、礼儀正しい態度、他人の気持ちに対する思慮(しりょ)…これらは恵まれた階層の人々だけではなく、最も貧しい人々も持っている特質である。
・日本人はきれい好きな国民(明治10年6月:横浜)
 日本人のきれい好きは外国人が常に口にしている。日本人は、家に入るのに、足袋(たび)以外は決して履(は)かない。木の下駄(げた)や藁(わら)の草履(ぞうり)を文字どおり踏みはずして入る。最も貧しい階層の子供たちは家の前で遊ぶが、地面で遊ぶのではなく、筵(むしろ)を敷いてもらうのである。どこの町にも村にも浴場があり、それも必ず熱い湯である。
・日本中どこにも落書きの跡がない(明治10年8月:神奈川)
 人力車に乗って田舎を通っているうちに、垣根や建物を汚(よご)すあらゆるしるし、ひっかき傷、その他の落書きがまったくないことに気づいた。
・日本人ほど自然を愛する国民はいない(明治10年9月:東京)
 日本人は世界で最も自然を愛する、最もすぐれた芸術家であるように思われる。彼らは誰も夢にも見ないような意匠(いしょう)を思いつき、それを信じられぬほどの力強さと自然さをもって製作する。彼らは最も簡単な題材を選んで最も驚くべきイメージを創造する。彼らの絵画的、装飾的芸術に関する驚嘆(きょうたん)すべき特徴は、装飾の主題として松や竹などの最もありふれた対象を使用するという点である。
・つい先頃輸入した品物をもう製造している。
・障子(しょうじ)の穴も桜の花の形の紙で修繕する。
・婦人に対する敬愛と礼儀は著しく欠けている。
・他人の面前で接吻(キス)はしない。
・モチは豆の粉にまぶして食うとうまい。
・豆腐(とうふ)はできたての白チーズのかたまりか。
・冷麦(ひやむぎ)は食うのが大変むずかしい
・大道で砂絵師が地面に絵を描いていた。

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