International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域・2』 佐々木藤雄


大規模記念物の登場

 縄文時代における墓の変遷を考える上で重要な成果をあげることになったのが1999年に長野県大野遺跡を舞台に行われた調査である。

 大野遺跡は木曽谷の山間、中央アルプスを間近に仰ぐ河岸段丘上に位置する中期中葉最新段階~中期後半の集落遺跡である。先の西田に比べると、確認された住居は9軒、掘立柱建物2棟と小規模であるが、中央には土壙群の分布する広場が残され、その外周には掘立柱建物、さらにその外周には住居群が分布する明瞭な重環状構造を示していたことが注意される(図5)。

(図5)長野県大野遺跡

 西田遺跡のミニアチュア版ともいうべき大野遺跡をさらに際立たせていたのが、木曽谷では初めてとなる環状列石の発見である。

 確認されたのは全体の4分の3ほどであるが、外径二22メートル、内径17メートルほどの小ぶりな略環状ないし隅丸方形状を呈しており、共伴土器などから住居群とほぼ同時期に構築された可能性が想定されている。

 列石は南東側に中央アルプスの尖鋭的な頂きを望む緩斜面のもっとも谷寄りの部分に広がっており、北西側には直線状列石をはさんで男根を象徴するような刻みをもつ立石が単独布する(図7中)。

 今日、墓と思われる列石下部あるいは列石内側の土壙の存在とも相俟って、葬送と祭祀儀礼とが統合化された大規模記念物(モニュメント)としてとらえる見解が一般化しつつある環状列石の起源についてはなお不明な部分が多い。

 長野県上原遺跡や阿久遺跡例をもとにその初現を前期にまでさかのぼらせようとする考えも以前から存在するが、環状列石の分布が一般化する中期末葉以降の例に比べると時間的な空白が大きく、両者は別個の存在であった可能性が強い。

 その中で、遅くとも中期後半の古い段階にさかのぼる大野遺跡の環状列石は、現段階では最古例に位置づけられるものであり、そこには、環状列石の起源についてはもちろん、縄文時代における墓制の大きな転換を暗示する重要な手がかりが刻印されていたことが知られるのである。

(図6)秋田県伊勢堂岱遺跡出土の環状列石a

(図7)環状集落-集落内環状列石-集落外環状列石の重環状構造
    左から-大湯遺跡-万座-大野遺跡-西田遺跡

環状集落内に形成された環状列石

 環状列石が盛行する後期を中心とする北東北・北海道では、列石は日常生活の拠点である集落からやや離れた場所に営まれるのが一般的であり、列石のすぐ近くから住居が検出される例は少ない。

外径50メートル前後の2重・3重にめぐる大規模環状列石複数が発見された秋田県大湯(図7左)や伊勢堂岱遺跡(図6)では、これまでにも列石に伴う土壙墓や配石墓、土器棺墓などの出土が報告されている。

 しかし、環状列石の周辺から検出される遺構は、その外周を環状にめぐる掘立柱建物などに限定されており、これらの列石は葬儀や祭りなどの非日常的な行事を行う時に利用される特殊な場所であったことが推測されている。

 これに対し、先の大野遺跡では、環状列石は集落の中央広場を囲むように前記の掘立柱建物や住居群のすぐ内側に建設されており、列石の下部や内側からは墓の可能性も考えられる多数の土壙群が発見されている。

 すなわち、ここでは環状列石は環状集落の重環状構造と一体のものとして登場している。大湯や伊勢堂岱などの後期環状列石を「集落外環状列石」とすれば、大野例が示しているのは「集落内環状列石」であり、その時間的位置を考えれば、非日常的な葬儀や祭りの場と日常生活空間が同心円状に分布する大野の「集落内環状列石」が当該遺構の出現期の姿をうきぼりにしていた可能性が強い。

 ここで改めて西田遺跡に視点を戻せば、大野と西田の環状集落の間には中央広場―中央墓地の内と外を区画する列石の有無という違いが存在するだけといっても過言ではなく、さらに大野と後期の「集落外環状列石」も、住居群の有無(註1)を除けば、その基本構造に大きな違いはなかったといってよい(図7)。

 環状列石の起源は一元的か多元的か、即断は難しいとしても、こうした環状集落、「集落内環状列石」、「集落外環状列石」の三者を通して認められる際立った共通性に着目するならば、環状列石は大野例のような「集落内環状列石」として環状集落内部に出現した後、大規模な「集落外環状列石」へと発達した蓋然性が高く、また、このような「集落内環状列石」成立の背景に環状集落中央広場の墓域に対する明瞭な結界の形成、区画の特別化という事情があったことは明らかである。

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