International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域・1』 佐々木藤雄


縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域


花で飾られた墓
 1951年から60年にかけてイラク北部ザグロス高地に位置するシャニダール洞窟の調査を行ったアメリカの人類学者ラルフ・ソレッキは、約五~六万年前の、色とりどりの花で飾られたと思われるネアンデルタール人の墓を発見する。四次にわたる調査でソレッキがシャニダール洞窟から発掘したネアンデルタール人化石は合計九体にのぼる。
 問題の墓は1960年発見の四号男性人骨埋葬例であり、科学分析の結果、遺体を覆っていた土の中から暗青色の美しい花をつけるムスカリやヤグルマギクなどの多量の花粉化石が検出されたことから、この墓の主はかれの死を悼む人々によって多くの花とともに葬られたという結論をソレッキは導き出すのである。
 「野蛮な原始人」という従来のネアンデルタール人観に大幅な変更を促すことになったソレッキのロマンあふれる仮説については、しかし今日、その妥当性を疑問視する声が少なくない。花粉の2次的な混入の可能性を否定できないことが大きな理由であり、「最初に花を愛でた人々」という魅惑的な言葉のもつ魔力がこの問題に対する客観的な評価を妨げたという指摘もある。
それぞれの時代の社会観や他界観が投影された墓は、考古学者や人類学者にとって文字のない社会の構造や集団原理を解明する上でのかけがえのない資料として存在する。
 しかし、こうした墓が私たちに垣間みせる表情は複雑であり、その分析には、現代人の主観や価値基準にとらわれない多面的な視点と、それにもとづく緻密な検証作業の積み重ねが必要であることをシャニダール洞窟のネアンデルタール人は教えている。

(図1)土擴墓-長野県北村遺跡
ファイル 28-1.jpg

(図2)配石墓-長野県北村遺跡
ファイル 28-2.jpg

(図3)石組石棺墓-新潟県元屋敷遺跡
ファイル 28-3.jpg

多様な縄文時代の墓

 埼玉県長尾根と小鹿坂の2つの遺跡において、前期旧石器時代にさかのぼる約35万年前の「世界最古の墓」と約50万年前の「秩父原人の住居跡」が相次いで発掘された事件は記憶に新しい。

 世界史の常識を覆す「世紀の大発見」が実はまったくの捏造の所産であったことは佐々木が発掘直後から「予言」していた通りであり、その内容は拙著『私が掘った東京の考古遺跡』に詳しい。

 捏造例を除けば、日本列島でこれまでに発見された旧石器時代の遺跡はすべてシャニダール洞窟より新しい後期例で占められており、この時期の確実な墓となると、発見例は皆無に近い。

縄文時代に入ると、埋葬人骨を含めて明瞭な墓の発見例は一挙に増大する。しかもその形態は、自然の洞窟や岩陰に遺体を葬ったものから、地面に穴を掘って遺体を直接納めた土壙墓、墓壙の上面や内部に礫を配した配石墓、板状あるいは扁平な礫を組み合わせた石棺内に遺体を納めた石組石棺墓、深鉢や甕などの土器内に遺体を納めた土器棺墓(甕棺墓)、竪穴住居内に遺体を放置あるいは埋葬した廃屋墓などに至るまで実にバラエティーに富んでおり、屈葬や伸展葬といった埋葬姿勢の違いともあわせて他界観の多様な発展の跡をうかがわせている。

 草創期から晩期まで全期間を通してもっとも一般的なのは土壙墓であり、配石墓も早期から晩期まで比較的広汎な分布をみせる。

土器棺墓は前期以降、廃屋墓や石組石棺墓は中期後半から中期末にかけて登場する。地域性の強いものが多く、特に廃屋墓や石組石棺墓は東日本に偏在する傾向が看取される。

 なお、千葉県姥山遺跡はフグ毒などの食中毒で同時に横死したとされる男女5体の人骨が同一住居内から発見されたことで有名である。

 異常死を恐れる人々によって家族全員が家屋ごと放置されたと考えられてきた姥山例は、実際には不慮の事故によって同時死亡した四体と正規に埋葬された屈葬女性1体の2つのグループから構成されていた可能性が強い。5人同居=5人同時死亡という従来の定説は全面的に訂正される必要がある。

(図4)竪穴住居から発見された5体の人骨-千葉県姥山遺跡
ファイル 28-4.jpg

環状集落と墓域の成立

 草創期および早期の墓は単独あるいは散在する形で発見されるものが大半であり、集落との関係については不明なものが多い。

 前期以降、中部・関東を中心に円環状に住居が配置された拠点的な集落、いわゆる環状集落が形成されるようになると、住居群に囲まれた中央広場には多くの土壙墓が群在するようになる。

 環状集落がピークを迎える中期後半の岩手県西田遺跡を例にとれば、直径150メートルを優に超える本遺跡の環状集落は中央広場を囲むように大小多数の掘立柱建物群、その外周を住居群、さらにその外周を貯蔵穴(ヂグラ)群が2重・3重にめぐる重環状構造をみせており、広場からは列状に分布する少数の墓を中心に放射状に配列された200基近い土壙墓群が発掘されている。

 西田遺跡の重環状構造からうかびあがってくるのは居住域から区別された明瞭な墓域―集団墓の成立であり、非日常的な空間を中心に日常生活空間が広がる、「縄文の円環」とも呼ぶべき特徴的な空間配置の背後には、縄文人の独特の世界観、他界観が存在していたことは明らかである。

 ただし、今日、環状集落の分布は中部・関東を中心とした前期~後期の東日本に大きく偏在している。また、こうした拠点的な環状集落の周辺には広場をもたない集落や住居の跡さえ不明瞭な同時期の遺跡が数多く残されている。

 縄文集落がすべて中央に広場を伴う環状集落で占められていたかのような一部の考えはまったくの誤りであり、まして環状の集落構成を縄文時代が生産と消費のつねに等質な社会によって貫かれていた表徴とみる考えには到底賛同できない。

▲ PAGE TOP