International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『歴史の見方・文化の見方』 土肥孝


歴史の見方・文化の見方

 時の経過の中で感性のシンクロ(レヴィストロースは「気になる類似」と唱える)が時折見受けられる。

そのシンクロを近い昔、そしてちょっと遠い昔に見出すとき、人間の進歩とは何かを考えてしまう。

 テクノロジー、エネルギー源活用の進歩は認めよう。しかし、それは思想・哲学の変還とは別物である。これを混同して歴史を語ってはならない。この視点を見失えば、歴史はレヴィストロースがいうように“近代”の最後の神話作りになってしまう。

 現在の史観は時間的経過を連続させて物語風に叙述するものである。しかし、それは「現代が最も進化した社会」という「後(アト)から目線」で昔を見ている物語である。

 数千年という時間を超越してプラトン哲学・ユダヤ教・キリスト教がヨーロッパで支持されている。東洋では儒教思想、そしていくつかの地域では仏教が継続している。つまり、数千年とういう時間を経ても、基盤の強固な思想や哲学は神話や伝説にもならずに現代の行動規範となっている。

 美術・文化の見方は思想・哲学的見方で行わなければならないのである。したがって私は文化を観察する時、その処理用語として「未開・野蛮」は用いない。同様に「人種・民族」も用いない。

 それが、ちょっと昔の人々をフィルターなしで見る方法である。

情報の誤伝達と最新の科学

NASAから

「地球外生命体について重要発表を行う」というアナウンスがあった。

これを受けたマスコミは「地球外生命体=宇宙人」と勘違い(勝手に)して「NASAが宇宙人の発表をする」と大騒ぎをした。

このNASAの発表は「アメリカ・カリフォルニア州モノ湖(サンフランシスコの東300kmに所在する湖)の湖底微生物(バクテリア)中に、リンを摂取せず、リンを砒素に置き換えて生命を維持するものが存在する」ということであった。

これは冷静に受け取れば(私に言わせれば)「地球内生命体について重要な発表」とすべきことを「地球外」とアナウンスしただけのことである。

このアナウンスの裏側には、NASAの存在誇示、予算獲得、過大な実績報告、という「粉飾」が見え隠れする。

このアナウンスを勘違い(早トチリ)して「宇宙人についての重要発表」として放送したのがマスコミである。

実際には「宇宙人」の話ではなく「バクテリア」の話だったのである。誤伝達・勝手な解釈・早トチリをタレ流すトンでもない形になってしまう典型である。

勘違いしたマスコミは「宇宙人」の発表と勝手に報道した。まさにマスコミはNASAのジョークに見事にのってしまった。 誤伝達とはこのような状況下で起こり、それらがしばしば歴史を変えてしまうこともある。

科学的に簡単に言えば、この発表は「リンを必要としない生物は<地球上には・・・筆者註>」いない。という定義を根底から覆したもので、科学的には重要な発表であることは間違いない。そのバクテリアは「CFAJI」という。

2006年から始まる「冥王星の太陽系惑星からの脱落(冥王星は1930年に発見されるが、結果的に発見時から勘違いが始まっていた。つまり地球並の質量をもつ星と考えられ、太陽系の惑星に組み込まれるのだが、調べていくうちに冥王星は月より小さい星となってしまい「準惑星」に降格された。この一連の経過は冥王星には何の罪ものなく、「降格」は人間の都合・科学の都合であった)」、ダークエネルギー(宇宙膨張の原因と考えられる仮想的存在)仮説、そして今回のバクテリアの発見と、現在までの科学の常識を根底から覆す流れ、つまり「科学のパラダイム・シフト」が現在進行中である。しかし、これは「新しき発見」ごとに引き起こされることで、これが「科学技術の進歩」の実態なのである。つまり「最新の科学」ですら完璧とは言えないのである。

(平成22年12月3日)

「母と子」の像

 縄文時代の代表的精神遺物とされる「土偶」の中に「母親(祖母か姉の可能性もある)が子供を背負う土偶」(図1)と「子供に授乳する土偶」(写真1)が存在する。この姿形の中には当時(縄文時代中期前半)の思考が表現されているのではないだろうか。

ファイル 22-1.jpg(図1)          
ファイル 22-2.jpg(写真1)

一般的には、この2つの土偶は「おんぶする場面」「授乳する場面」とされ、微笑ましい光景を描写したものと考えられている。

しかし、この2つの土偶をさらに共通する「母と子のスキンシップ」としてとらえたらどうだろうか。

 医学界では「母と子のスキンシップの大切さ」を教える例として、神聖ローマ帝国フリードリヒ2世(1194-1250)の「悲惨な社会実験」がとり上げられる。

 この「悲惨な社会実験」とはフリードリヒ2世が赤ん坊数人を母親から引き離し、その赤ん坊たちが一切人間的な触れ合い、コミュニケーションを遮断された状態でどう育つかの実験である。

 実験の内容とは授乳(母親から引き離したので母親の乳首からの授乳ではない)や栄養補給(食事)や入浴による衛生管理など、生きていくために必要な世話を行っても抱っこや添い寝・話しかけは一切行なわず育てるというものだった。

 この実験の結果、その被験者となった赤ん坊は全員、言葉を話す前に死んでしまった。

 つまり「赤ん坊(子供)」は最低限の栄養や衛生状態が整ったとしても、それだけでは生きてはいけず、母親(母親が出産直後に死んだとしても代理母の)の愛情とスキンシップ、手厚い世話がどうしても必要だということである。

 そして、それらの愛情・スキンシップが「赤ん坊(子供)」→「成人」と最長するためにはなくてはならないものであることを明らかにしたのである。

 前述の二つの土偶の姿形を「場面」、「光景」」としてとらえるのではなく、「母と子のスキンシップ」としてとらえると、何が子供にとって重要なのかを示している土偶になる。

 つまり、縄文時代中期前半の人々は数千年後に実験によって得られた結果をすでに共通認識としてもっており、その重要な「母と子のスキンシップ」として「おんぶ」や「授乳」を土偶に表現したのではなかろうか。子供達は将来のコミュニティーを継続していくために重要な存在と見られていたのである。

 この考えは、21世紀・現代の「子供手当」の考えとなんら変わりない「母親によるスキンシップ」ではなく、「現金」に変わってしまったことが、縄文時代の思考より後退していると思えるのである。

 この土偶は製作された時期は、縄文時代の中で集落(コミュニティー)が形成され、完成に近づく時期である。その形成過程の中で得た経験(子供が成長してコミュニティーの重要な一員になるためには母親のスキンシップが大切だということ)を教育的に形で表現、あるいは経験情報を伝達する媒体としてこれらの土偶を作ったのではないだろうか。

 そのような意図で作られて土偶があるとすれば、土偶造形を画一的に考えることはできず、当時の人々の心情・試行・哲学を写し出す鏡ともなるのである。

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