International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『イングランドのストーンヘンジと周辺遺跡 vol.1』 関俊彦


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 ヨーロッパでは、紀元前4000年代から1000年代までを《巨石文化》の時代ともいう。それはこの文化を象徴する巨石のモニュメントが、北欧の地から地中海岸まで分布するからである。
 なかでも、ブリテン島やアイルランド島ほど巨石記念物が密集する所はない。ことにストーン・サークルや石を直線上に配した列石など、埋葬とかかわりのない、性格不明の遺構がこの地域に集中する。
 ブリテン島だけでもストーン・サークルが1000か所以上、巨石を単独で立てたスタンディングストーンや列石は数千か所にのぼるという。これまでに失われたものも多く、かつては倍以上の数があったにちがいない。
 数十人でも動かすことのできない巨岩を多大な年月を費やし、なぜ建設したのか。《巨石文化》の出現は紀元前4000年ころ、つまり前期新石器時代は農耕の始まりと同一時期だった。定住生活の開始とともに巨石を使った大きな共同墓が造営され、数十世代にわたって同じ場所で埋葬がつづいた。先祖代々の骨を納めた大きな石室は、祖先の霊を祀る儀礼の場所、《聖地》だった。

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 イングランドでは紀元前3200前後から2900年くらいの時期に社会的・文化的に大きな変動があり、ブリテン島を中心にストーン・サークルや列石などの新しいモニュメントが数多く登場した。ストーンヘンジは、この時代の代表的記念物である(図1・2)。

 この《巨石文化》は紀元前2000年代の中ごろに最盛期を迎えた。それは後期新石器時代から前期青銅器時代と並行する。この時期の特徴は装飾文様と平底でビーカー状の土器、冶金術による青銅製品の出現である(図3)。
 
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 これらは、フランスのブルターニュ、スペインのガリシア地方など、大陸沿岸部の人たちが持ち込んだのではなかろうか。それを物語るのが、ストーンヘンジの近くでアルプス地方から来たと思われる人の骨と、豪華な副葬品の出土と、彼が丁重に埋葬されていた事実である。
 紀元前1000年代の前半、青銅器時代の中ごろにさしかかると、石の文化は廃(すた)れ、ストーンヘンジなどのモニュメントは放棄された。
 森林の大半が失われ、なだらかな丘にそびえ立つ石柱は、遠い世界からの創造物として私たちにメッセージを送りつづけている。輝きを失った巨石信仰は形を変え、後世まで人々の生活を支えた。
 巨石記念物の謎を解くため、多くの考古学者による発掘や石の配置と星座、太陽の運行との関連を追究しているが、いまだ確証は得られていない。
 まずはストーンヘンジ一帯の記念物と博物館をめぐることで、謎へのヒントが得られるかもしれない(図4)。

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1 ストーンヘンジ一帯の農耕民


 紀元前5000年ころのソールズベリー平原は、一面をカバ、オーク、ニレといった樹木の森でおおわれていた。
 ブリテン島南部の人々は、狩りと川魚の捕獲、野生植物の採集をしながら点々と移り住んでいた。一時的な野営地では、小枝の囲いや風除けとヤナギと皮によるテントが用意された。皮袋にはフリント製の狩猟具とシカの骨や角製の道具が入っていた。
 食べ物を求めて移動をくりかえす集団は、家族単位で集落を構成し、こういったグループが点在した。
 紀元前4000年ころ、大陸から命がけで海をわたり、ブリテン島南部をめざした集団がいた。彼らは家族を核としたグループで、ムギ、ヤギ、ヒツジ、土器といった島民にとっては魅力的なモノをたずさえて来た。
 土着の民の大地はこんもりとした森林が広がり、人々は磨き込んだ石斧で大木を伐採すると、枯れるの待って森に火を放ち、農地を広げていき、数か月で入植地も拡大した。切り開かれた耕地にはコムギの種を蒔(ま)いた。
 入植者らは農耕に勤(いそ)しみ、家が建ち並ぶと活気に満ち、人心の結束が生まれ、自己に目覚めたり、家族の誇りを示したりと社会に新しい動きが出てきた。
 そこで新石器時代に生きたストーンヘンジ一帯の農民の身辺を紹介しておこう。
 彼らの農耕地は小規模で、土の栄養分がなくなるまで、毎年つづけて耕し、地味が衰えると、新たに森や低木の地を伐採するか焼き払って耕地を広げ、穀物類を栽培した。
 ウィルトシャー州には、この時代の集落跡は見つかっていない。他地域の遺跡では、長方形の家屋には多くの人たちと家畜が共存していた。食料はムギ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、シカ、川魚が主体で、このほかに野生植物を季節ごとに採取した。そして、時折物々交換でモノや情報も入った。
 人々の使った道具や狩猟具はフリント石を材料とし、それらは地表や川底から拾ったり、白亜質の地面に縦穴を掘ったりして手にした。なかでも森の伐採や家づくりに大きな役割を担った石斧は、近隣の地域から良質のフリント石を入手した。開拓者のなかには、よりよい石器をつくるため、カンブリア、北ウェールズ、コーンウォールといった遠方の地から原石を取り寄せた。
 衣類は動物の皮をなめした、こんにちのスエードのようなものを身につけていた。一部の地では機織もおこなわれていたので、布も利用されたのではなかろうか。
 穀物を食するにあたり、煮沸や貯蔵のために土器の役割が重要視され、実用的なものと祭祀用のものとがつくられた。非実用的なもののなかには儀式や墓に供えられたものもある。
 眼をひくものとして、皮袋にヒントを得たのであろうか、底の丸い大型の壷形土器が登場し、あきらかに皮製容器を模したとわかる。
 定住生活に慣れ、穀物と家畜の量が増すにともない農耕民の人口も急速に上昇した。彼らの暮らしに欠かすことのできない穀物の貯蔵と家畜を生きたまま蓄えられたことは、人の心をなごませ、生活にゆとりができ、新たな挑戦へのステップとなった。
 人口の増加は景観を変え、富める者を生み出した。森は開かれ、広大な牧草地や耕作地が展開するにつれ、放牧された家畜は若芽を食べたり、ブタが若木の根を掘ったりし、古い木々が枯れ、新しい木の生育が止まってしまった。
 後期新石器時代、紀元前3000年ごろになると原生林のほとんどが姿を消し、ソールズベリー平原はむろん、ブリテン島は広々としたどこまでも眺望のきく風景へと一変した。人口の増大はいちだんと進み、社会的な共同作業をする労働力が可能となった。
 
 紀元前2500年前後には、ブリテン島の南部と東部に経済の変化があらわれた。ライン川流域に住む人たちが、北海を経てブリテン島へ交易のために来たという資料は確認されていないが、墓跡から出土する土器には類似性がある。この土器は形状から《ビーカー》とよんでいる。

ファイル 113-5.png  同じ時期に金属をあつかう技術と青銅製品がもたらされた。その後、ブリテン島西部で銅が、アイルランドで錫が産出され、この原料の需要が増すにつれ、ウェセックスとイングランド各地への交易路が開かれたとみえ、それぞれの地で青銅器が盛んにつくられ、その発展は約2000年もつづいた。
 農産物、ヤギ・ヒツジ・ブタなどの繁殖、青銅技術の普及といったものが、後期新石器時代のイングランド人を、ある方向へと眼を向けさせた。
 富を得た人が亡くなると、個人用の墓、《円墳》(ランド・バロー)が築造された。その墓には、飲み物用の壷形土器、装飾をほどこした《ビーカー土器》、銅製の短剣、木製の弓、フリント製の鏃といったものが供えられた。
 紀元前1500年前後には、有力者の墓の象徴《円墳》がイングランドの全域に広まった。ことに《円墳》が狭い地に集中しているのはストーンヘンジ以外にはない。

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 銅と錫の混合によりできた青銅製の道具や武器の使用度が増加すると、森からは木が切り出され、その跡地は牧草地となった。紀元前2000年ころまでには、ウェセックスは数人の有力な一族に支配され、住民も掌握されていった。
 これら有力者の一族は、農耕民からスタートし、富を蓄えたのち、アイルランドや大陸各地への交易路を手中に収めて成功したのではなかろうか。ことに青銅製の道具や黄金の装身具は大陸との交流に大きな役割を果たした。これを証す資料がストーンヘンジ周辺に密集している《円墳》などから出土している。たとえば、フランスのブルターニュ半島、オランダ、中央ヨーロッパでつくられた品々で、イングランドは大陸の一部として繁栄していたことは明らかである。
 ソールズベリー平原の一エリアにつぎつぎと巨石建造物が築造されたのは、経済の発展にともなって富と統率力をもった人物が出現したからである。
 この裕福な家族集団は、青銅製品および銅と錫の販売権も占有していたのではなかろうか。
 紀元前1500年ころをすぎると、豊かさを誇ったコミュニティに翳(かげ)りが見え始めた。その原因はつかめていないが、いくつかの要因がからみあっていたと思われる。
 長期にわたるオオムギ栽培と輪作による土壌の疲弊(ひへい)、農耕地と牧草地の拡大による管理の限界、社会的な共同作業に投入する時間の減少などが、ストーンヘンジ周辺域における宗教的・社会的中心地としての重要性を失わせ始めた。
 やがて、この時期以降、ストーンヘンジ周辺には巨大な建造物の建設は数少なくなった。
 ソールズベリー平原は、青銅器時代になると景観が変化した。紀元前1900から1300年前後、農耕民は耕地の整備と管理の必要性に気づいた。
 ストーンヘンジの西や南の地点で、小規模な方形の畑跡と長い境界線が空中写真では確認されていたが、やっと発掘調査で実証された。ウイルスフォード・ダウンにある《池型》の墳丘を調査したさい、紀元前1400年くらいに掘られた井戸跡が見つかり、その深さは30m以上にも達することがわかった。井戸から汲(く)み上げた水を灌漑として利用したらしい。
 前期青銅器時代の集落跡の存在はあまりつかめていないが、紀元前1300年代の後期青銅器時代の集落跡は多く確認されている。これらの遺跡に住んだ農民たちは各種の青銅製の道具類を使いこなしている反面、フリント製の道具類は減少し、製作が粗悪化しつつある。

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 日常容器として大きな比重を占めていた《ビーカー土器》は、じょじょに繊細なつくりは消え、かつての装飾文様から無文のものに、そして粗雑なものとなった(図5)。
 穀類の生産が高まったこともあり、製粉用具の石皿と磨り石の出土量が増す(図6)。ムギを粉にするにはサーセン石か硬質砂岩製の道具を用いた。
 農民が暮らした住居跡(3軒)が、ウインターボルン・ストーク・クロスロードで発掘された。住居跡は直径8mほどあり、小さな柱穴が壁に沿って掘られ、壁は小枝を編み、樹液で固められ、屋根は草葺きである(図7・8)。ヒツジやブタなどの家畜小屋跡、穀物を貯えた施設跡などが数軒あり、耕作地と牧草地とは仕切られていた。これらの建物跡は狭い範囲に隣接し合っていた。

史峰 第45号より転載

図3,5~8はJulian1991による。

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